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石川数正は秀吉に入り込んだスパイだった?裏切り・出奔の真相に迫る!
徳川家康が人質として過ごしていた幼少の頃から忠誠を誓い、長きにわたって仕えてきた石川数正。
ある日突然その数正が、家康のライバルである羽柴秀吉のもとへと出奔した出来事はとても有名です。
家康と苦楽を共にしてきた石川数正の予想外の裏切りについては、様々な理由が考えられています。
中には、「石川数正は家康のスパイとして秀吉側に潜入した」という興味深い説もあります。
今回の記事では、「どうする家康」でも描かれる石川数正の出奔について、その真の理由に迫っていきたいと思います。
石川数正の出奔のきっかけ
石川数正の出奔のきっかけとなったのは、家康と秀吉が戦った「小牧長久手の戦い」(1584年)であるとされます。
小牧長久手の戦いの終結に伴う戦後処理によって、石川数正は大きく悩まされることになるのです。
まずは、石川数正の裏切りの大きな原因となった小牧長久手の戦い後の情勢について解説します。
出奔のきっかけ①次男・勝千代が秀吉の人質に
小牧長久手の戦いは、家康と共に戦っていた織田信雄の単独講和によって幕を閉じます。
その際、家康方から秀吉方へと、和睦の証として何人もの人質が送られることになりました。
家康の息子・於義伊(のちの結城秀康)だけでなく、家康家臣の家族も秀吉の人質になることを余儀なくされたのです。
家康・秀吉間の取次を任されていた石川数正も例外ではなく、数正の次男・勝千代も秀吉のもとへと送られることになりました。
「どうする家康」には登場していませんが、同じく家康の重臣である本多重次も、数正と同様に次男が秀吉の人質となっています。
出奔のきっかけ②対立姿勢を崩さない家康
このように、家康方のみが秀吉に人質を送るという圧倒的不利な講和を結んだにも関わらず、家康は秀吉に対して依然対立姿勢を崩さないままでした。
人質を送ったからといって、家康は素直に秀吉に服従したわけではないのです。
しかし、息子を秀吉の人質として送っていた石川数正は秀吉への臣従を望んでおり、ここから少しずつ家康から心が離れていくことになります。
徳川家康・羽柴秀吉という、後に天下人となる2人がぶつかった有名な戦「小牧長久手の戦い」については、以下の記事で詳しく解説しています。是非こちらも併せてご覧ください。
『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説
石川数正の出奔は秀吉へのスパイ活動?
そして、ついに1585年には石川数正は長年仕えてきた家康を裏切り、秀吉のもとへと出奔しました。
石川数正の出奔の理由として、数正が家康のスパイとして秀吉のもとへ潜り込んでいったのだとする説もあります。
しかし、数正出奔時の状況を見ていくと、この説は無理があると言わざるを得ません。
この章では、石川数正の出奔時の詳しい状況を解説します。
岡崎城脱出
石川数正が家族とともに岡崎城をこっそり脱出した際、岡崎城の城番が数正の兵士を捕らえています。
数正が岡崎城から出ていくということは番兵にとっても寝耳に水だったわけです。
この際、数正とその家族は無事に脱出できたものの、一部の兵士は捕らえられてしまいました。
仮に数正が家康側からのスパイとして出奔したとしたら、このように数正が岡崎城脱出に手間取るのは不自然です。
家康は岡崎城を大改修
数正が秀吉のもとに出奔した後、家康は岡崎城を大改修しました。
またこの頃、徳川軍の決まり「軍法」を、武田流のものへと変更しています。
以上の家康の2点の行動は、重臣が出ていったことで軍事機密が秀吉側に筒抜けになることを恐れた家康の気持ちの表れとも言えます。
数正と小笠原貞慶の連動
さらにこの時、信濃国・松本城主小笠原貞慶も、石川数正の出奔に連動して家康から離反し、貞慶と徳川軍の戦闘にまで発展しています。
家康の重臣である大久保忠世も「決死の覚悟で戦う」と語ったと言われるほど、この時の信濃情勢は家康にとってはピンチでした。
ここで、数正と貞慶の関係を確認しましょう。
貞慶は浪人同然だったところを家康に拾われ、天正壬午の乱で武功を挙げて松本城を与えられた、いわば外様の家臣です。
信用のない貞慶が家康に仕えるにあたり、人質として幸若丸を家康重臣である数正のもとへと送っていましたが、数正が家康のもとから出奔する際に幸若丸も一緒に連れて脱出しています。
このため、数正と貞慶は事前に示し合わせをしていて、数正と貞慶が共闘関係にあったとも言われています。
数正が貞慶と共闘し徳川方をピンチに陥らせていることからも、数正スパイ説は否定されているのです。
石川数正の出奔の動機は?
このように、石川数正は家康のスパイとして出奔したわけではなかったということが考えられます。
彼が家康のもとから出奔した頃、都ではこんな落首(立て札などに匿名で書かれる、世相を風刺したり、皮肉を含んだ歌)があったと言われています。
「徳川の 家に伝わる 古箒 今や都の 木の下を掃く」
「古箒(ふるほうき)」とは「伯耆守(ほうきのかみ)」を名乗った石川数正を指しています。
家康に長年仕えた「古箒」数正が、なぜ「木の下」秀吉のもとへと去ることになったのでしょうか。
ここからは、石川数正が苦楽を共にした主君・家康を裏切った本当の理由に迫りたいと思います。
動機①徳川家を守るため?
よく語られる数正出奔の動機として、「徳川家を守るため」というものがあります。
家康は、小牧長久手の戦いで秀吉に事実上の敗北を喫したものの、頑として秀吉に臣従する意志を見せませんでした。
数正は、家康と秀吉の取次役として都に上り、自分の目で秀吉の力の大きさを見ています。
このまま戦い続ければ、国力の差で必ず徳川家は滅びるということを知っていた数正は、家康を説得し徳川家を守るために、「出奔」という形で家康を諌めたのではないか?という解釈です。
動機②秀吉の人柄?
2つ目に、「数正が秀吉の魅力に惚れた」という説も存在します。
「人たらし」として知られる秀吉は、あの手この手で他家から優秀な人材をヘッドハンティングしていたことでも知られています。
成り上がり者のため累代の家臣のいない秀吉は、このように調略の能力に長けていたことが指摘されており、数正もまんまと秀吉の魅力にハマってしまった可能性もあるでしょう。
また、家康に比べて秀吉は気前が良かった、都への憧れがあった等と言われることもあります。
このあたりは現代人にも納得できる動機ですね。
動機③酒井忠次らとの軋轢?
3つ目に、「数正が他の徳川家臣との人間関係に悩んでいた」とするものです。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政ら対秀吉主戦派の重臣たちに対し、数正は一貫して秀吉に対しては穏健派でした。
彼ら重臣同士の軋轢は、小牧長久手の戦いの陣中で、数正と忠次が言い争ったという噂が立つほどに表面化していたのでした。
自らの目で秀吉の力の大きさを見てきた数正と、無骨な三河武士たちとの間で温度差が生じていた可能性は大いにあるでしょう。
動機④小笠原貞慶の離反?
4つ目に挙げられる動機として、「小笠原貞慶の離反」もあります。
貞慶が単独で徳川から離反し、貞慶の子を人質として預かっていた数正が貞慶離反の責任を感じて後から出奔したという解釈も存在します。
このように貞慶の離反後に数正が追随して出奔したのか、貞慶と数正が示し合わせた上で離反したのかは分かっていませんが、前者の場合、数正は貞慶離反の責任を追及される立場となり、徳川家臣団で立場を失ってしまったのかもしれません。
石川数正のこれまでの活躍や石川家のルーツなど、以下の記事では石川数正をより詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
【裏切り者?!】石川数正は息子を守るために秀吉に寝返った!どうする家康解説
孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!
その後の石川数正の活躍
以上のように、石川数正が出奔を決断した理由については様々な理由が考えられますが、どれか1つだけが理由というよりは、幾つもの原因が重なって起こった出奔だった可能性もあるでしょう。
ここからは、秀吉のもとに出奔した数正がどのような活躍をしたのかを解説します。
家康の秀吉臣従に貢献
秀吉配下に降った数正は、対秀吉強硬路線を貫く家康に対し、間に入って講和へと持っていくことに成功します。
この講和に主に関わっていたのは織田信雄とその家臣・滝川雄利でしたが、数正もこれに関わっていたことが書状などから明らかになっています。
この講和の結果、秀吉の生母・大政所(なか)が家康の人質となり、秀吉の妹・朝日姫が家康に嫁ぐことになりました。
こうして、家康は遂に秀吉に臣従することになりますが、これには家康・秀吉両者をよく知る数正の貢献もあったのかもしれません。
松本城主に
その後、数正は秀吉から信濃国・松本城を与えられ、8万石の領地を得ることになりました。
現在も愛される名城・松本城の天守を築城したのは数正だったのです。
これには、北条氏が滅亡後に関東に移封された家康の監視役という側面もあったとされています。
秀吉から可愛がられていた数正
数正が秀吉から信頼されていたことがよくわかる一例があります。
彼は秀吉のもとへ出奔する直前、家康から一字を与えられて「康輝」と名乗っていましたが、秀吉配下に降ってからは秀吉から一字を貰い「吉輝」へと改名しました。
また数正は、秀吉が使っていた「五七桐」の使用も許可されています。
五七桐とは、もともと秀吉が信長から譲り受けた、とても格式ある家紋です。
そんな大事な家紋を授けられていたことからも、数正が秀吉から大事にされていたことがよくわかります。
数正の死とその後の石川家
家康が関東に移封された2年後の1592年ごろ、数正はこの世を去りました。
ちなみに、数正は生年が不明なため、没した年齢もわかっていません。
石川家は数正の嫡男・康長が跡を継ぎます。
康長は関ヶ原の戦いでは家康の東軍に味方し、戦後に家康から城を安堵されています。
しかし、後に彼は「大久保長安事件」という汚職事件に連座し、領地を没収され、石川家(数正流)は断絶してしまいました。
石川数正は本当にスパイだったのか?裏切り・出奔の真相に迫る!│まとめ
家康のスパイ説なども紹介しながら、石川数正の出奔の真相を考察してきました。
家康と苦楽を共にした重臣が裏切るという大きな決断の裏には、様々な事情があったようです。
歴史に「もしも」はありませんが、仮に数正が関ヶ原の戦いの後まで長生きしていたとしたら、東軍の数正は家康に許されていたのか、はたまた許されなかったのか等想像が膨らみますね。
「どうする家康」では数正の出奔がどのように描かれるのか楽しみですね。