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【槍の又左】前田利家とは?豊臣政権を支えた武勇と律儀の五大老
戦国の世を駆け抜け、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、豊臣政権では五大老(ごたいろう)の一人として重きをなした武将、前田利家(まえだ としいえ)。その生涯は、武勇、律儀(りちぎ)、そして先見の明に彩られています。
「槍の又左(やりのまたざ)」の異名を持つほどの勇猛さと、友との絆を重んじる実直さを併せ持った利家は、どのようにして加賀百万石(かがひゃくまんごく)の礎を築き、激動の時代を生き抜いたのでしょうか。この記事では、特に豊臣兄弟との関わりや、彼の人生における重要なエピソードに焦点を当て、その実像に迫ります。
歴史ファンならずとも知る前田利家。
しかし、その具体的な功績や人物像、特に豊臣(羽柴)秀吉の弟である豊臣秀長(とよとみの ひでなが)との関係などは、意外と知られていないかもしれません。この記事を読めば、前田利家の魅力と、彼が日本の歴史に果たした役割がより深く理解できるはずです。

前田利家像(狩野徳伯筆、石川県立歴史博物館蔵)
画像出典:Wikipedia「前田利家」より
目次
若き日の利家:信長との出会いと「槍の又左」
前田利家は天文7年(1538年)、尾張国荒子(おわりのくに あらこ、現在の名古屋市中川区)に、土豪(どごう)であった前田利昌(まえだ としまさ)の四男として生まれたと言われています。
幼い頃から槍術(そうじゅつ)に優れ、その腕前は若くして織田信長の目に留まることとなりました。
信長に小姓(こしょう)として仕え始めた利家は、桶狭間(おけはざま)の戦いや帰参後の活躍、数々の合戦で武功を立て、「槍の又左」とその勇名を轟かせます。
「又左」とは利家の通称である又左衛門(またざえもん)の略です。
当時の武士にとって、戦場での働きは自らの名を上げ、立身出世に繋がる重要な機会でした。利家もその例に漏れず、信長の信頼を勝ち得ていきました。
しかし、順風満帆なだけではありませんでした。
信長の同朋衆(どうぼうしゅう、主君の側近として雑務や芸能などを行った人々)であった拾阿弥(じゅうあみ)を斬殺したことで、一時信長のもとから追放されるという事件も起こしています。
この時、許しを請うために戦場で武功を立てようと試みるなど、その後の利家の忠義心や不屈の精神をうかがわせるエピソードも残っています。
一説では、この浪人時代に豊臣秀吉と出会い、親交を深めたとも言われています。
豊臣秀吉との絆:賤ヶ岳の戦いと友誼(ゆうぎ)
本能寺の変で織田信長が斃(たお)れると、日本の歴史は大きく動きます。
信長の後継者を巡る争いの中で、利家は与力としてこれまで指示に従ってきた柴田勝家と、友人である羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)との間で難しい立場に置かれました。
特に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、柴田勝家(しばた かついえ)方に与しながらも、秀吉との長年の友情を断ち切れず、戦の途中で戦線を離脱したことは有名です。
この決断が結果的に秀吉の勝利を決定的なものにし、利家自身も秀吉のもとでその地位を保つことになります。
この賤ヶ岳での利家の行動は、単なる日和見(ひよりみ)と見る向きもありますが、これまでともに戦ってきた勝家への配慮、旧友秀吉への想い、そして何よりも前田家の存続という重責を背負った上での苦渋の決断だったのかもしれません。
結果として、この選択がその後の前田家の運命を大きく左右することになります。
秀吉が天下一統を進める中で、利家は豊臣政権の重鎮として活躍します。九州征伐や小田原征伐といった主要な戦いに従軍し、武功を重ねました。
秀吉からの信頼は厚く、加賀国(かがのくに)を中心に越中(えっちゅう)、能登(のと)といった広大な領地を与えられ、加賀百万石の礎を築きます。
利家と秀吉は、若い頃からの友人であり、その関係は主従でありながらも深い信頼で結ばれていたと言えるでしょう。
豊臣秀長との関係:政権を支えた両輪?
豊臣政権を語る上で欠かせないのが、秀吉の弟である豊臣秀長の存在です。
秀長は温厚篤実(おんこうとくじつ)な人格者として知られ、兄・秀吉の天下統一事業を内政・軍事両面で支えた名補佐役でした。では、前田利家と豊臣秀長の関係はどうだったのでしょうか。
史料上、利家と秀長が直接的に密な連携を取ったことを示す具体的な記述は多くありません。
しかし、両者ともに豊臣政権の中核を担う重臣であり、特に秀吉が政権を運営していく上で、この二人の存在は極めて重要であったと考えられます。
秀長は主に畿内(きない)や西国の統治、大名間の調整役として活躍し、利家は北陸道の抑えとして、それぞれ豊臣政権の安定に貢献していました。
秀吉は利家の娘を別妻にしていたことから、秀長や徳川家康に準ずる豊臣氏の親類として重用していたと言われています。
秀長が天正19年(1591年)に病没すると、豊臣政権の権力バランスに変化が生じ、利家の役割が相対的に増したという見方もあります。
秀長の死後、豊臣政権は徐々に内部対立が顕在化していくことになりますが、もし秀長が長命であれば、その後の歴史も変わっていたかもしれませんね。
五大老としての前田利家:秀吉死後の政局と家康との対峙
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権は幼い豊臣秀頼(とよとみ のひでより)を後継者として、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と五奉行(ごぶぎょう、浅野長政、石田三成ら)による集団指導体制へと移行します。
この中で、前田利家は徳川家康に次ぐ実力者であり、豊臣氏への忠誠心も厚かったことから、政権の安定に大きな役割を期待されました。特に、秀吉の遺言により秀頼の後見役(こうけんやく)を任されたことは、その信頼の厚さを物語っています。
利家は、秀吉から天下統治を任された徳川家康と、それに反発する石田三成(いしだ みつなり)ら奉行衆との間で、いわばバランサー(調整役)としての難しい立場に立たされます。
利家は、家康の独断専行を抑えるために、他の大老や奉行と連携し、時には自ら兵を率いて家康と対峙する強硬な姿勢も見せました。この時期の利家の行動は、豊臣政権の崩壊を防ごうとする強い意志の表れと言えるでしょう。
しかし、その心労がたたったのか、慶長4年(1599年)に病に倒れ、この世を去ります。享年62(満61歳没)。利家の死は、豊臣政権内の力の均衡を大きく崩し、翌年の関ヶ原(せきがはら)の戦いへと繋がる大きな要因の一つとなりました。
「律儀者」としての評価と人物像
前田利家は「律儀者」として評価されることが多い武将です。その実直さ、誠実さは多くの逸話として残されています。
- 信長への忠義:一度は追放されながらも、許された後は信長に生涯忠誠を尽くしました。
- 秀吉との友情:賤ヶ岳の戦いでの決断は、秀吉との友情を重んじた結果とも言われています。秀吉も利家を「律儀」と評したと伝えられています。
- 家族や家臣への配慮:妻のまつ(芳春院)とは夫婦仲が良く、多くの子供に恵まれました。また、家臣を大切にし、その結束力は前田家の強みとなりました。
- 家康との対峙:秀吉死後、家康が豊臣氏の法度(はっと)を破った際には、病身を押して家康に詰問(きつもん)し、その非を認めさせたと言われています。これは利家の豊臣氏への忠義と、正義を重んじる姿勢を示すエピソードとして語り継がれています。
一方で、その律儀さゆえに、時には融通が利かない面もあったかもしれません。
しかし、戦国の世にあって、一貫して筋を通そうとした利家の生き様は、多くの人々を惹きつけ、後世においても高く評価されています。現代で言えば、義理人情に厚く、コンプライアンス(法令遵守)意識の高いリーダーといったところでしょうか。
加賀百万石の礎と文化
前田利家は、武将としての側面だけでなく、優れた統治者としての一面も持っていました。
彼が治めた加賀藩は、江戸時代を通じて最大級の石高(こくだか、米の生産量を表す単位)を誇り、「加賀百万石」と称されました。利家自身は藩政の確立を見る前に亡くなりましたが、その基礎を築いたのは間違いなく彼とその妻まつでしょう。
利家は、領内の検地(けんち、田畑の面積や収穫量を調査すること)を進め、産業を振興し、城下町の整備にも力を注ぎました。特に金沢城の整備は、その後の加賀藩の発展に大きく寄与しました。
また、利家は文化にも理解があり、茶の湯を嗜(たしな)むなど、武人ながらも風雅な一面も持ち合わせていました。こうした利家の姿勢は、後の加賀藩における学問や工芸の発展にも繋がっていったと言えるでしょう。
加賀友禅(かがゆうぜん)や九谷焼(くたにやき)、金箔(きんぱく)といった伝統工芸が今に伝わるのも、その文化的な土壌があったからこそです。
まとめ:前田利家が現代に伝えるもの
前田利家の生涯は、激動の戦国時代を生き抜いた武将の力強さと、人間としての誠実さ、そして未来を見据えた統治者としての先見性を示しています。
信長、秀吉という二人の天下人に仕え、その中で自らの信念を貫き通そうとした姿は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
特に豊臣政権下での五大老としての役割は、彼の政治的手腕と人間的魅力を如実に表しています。もし利家がもう少し長生きしていれば、関ヶ原の戦いは起こらなかったかもしれない、あるいは違った結果になっていたかもしれない、と歴史のIFを想像するのも一興です。
武勇と律儀、そして友との絆を大切にした前田利家。彼が築いた加賀百万石の礎は、その後の日本の歴史と文化に大きな影響を与え続けました。
その生き様は、時代を超えて私たちの心に響くものがあるのではないでしょうか。