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父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
初代江戸幕府将軍である徳川家康の嫡男・松平信康は、大河ドラマ『どうする家康』に登場している武将の1人です。
1579年(天正7年)父・徳川家康の命により切腹し、その短い生涯を終えました。
織田信長から松平信康の処罰を命じられた徳川家康が、仕方なく切腹を命じたという説を思い浮かべる方もいると思いますが、この説について疑問の声が上がっているのもまた事実です。
松平信康が残虐な殺人鬼だったという説も唱えられていますが、真相はどうなのでしょうか。
今回は松平信康事件の真相や起きてしまった原因について詳しく解説していきます。
松平信康の真相に興味がある方は、ぜひチェックしてみてください。
目次
松平信康事件とは?簡単におさらい
1579年(天正7年)に起きた徳川家康の嫡男、松平信康が武田家との繋がりを疑われ、処罰された事件。
『どうする家康』の紀行では、舞台となった二俣城跡が既に紹介されています。
徳川家康が自らの嫡男を殺す、という選択肢をとったこの事件は、徳川家にとって触れてほしくない歴史の1つだと考えられます。
松平信康の母である瀬名、正室である五徳、五徳の生家である織田家をも巻き込んだこの事件で、なぜ松平信康は命を落とさなければならなかったのでしょうか。
ここからは松平信康事件の真相について詳しく解説していきます。
松平信康事件が起きた背景
1579年(天正7年)松平信康事件には、織田家と武田家が大きく関係しています。
1575年(天正3年)には松平信康事件に繋がる武田家が絡んだ不穏なできごとが、既に岡崎で起きていました。
それは大岡弥四郎事件と呼ばれる事件で、この事件は松平信康の母であり、徳川家康の正室・瀬名も関与していたのではないかとする説が有力です。
『どうする家康』では岡崎クーデターとして、大岡弥四郎事件が描かれました。
岡崎を統治する松平信康の家臣であった大岡弥四郎は、岡崎ごと武田家に寝返るという計画を企てました。
この計画は未遂に終わり、大岡弥四郎は徳川家康の命により処刑されますが、その裏では、瀬名が既に武田家と内通しており、大岡弥四郎を利用したのではないかとも言われています。
武田家を滅亡させる為に動く織田信長の思惑を始めとし、様々な背景が絡み合い、悲しい結末を迎えることになるのです。
危険!織田信長との関係
松平信康事件を理解する上で、徳川家と織田家の関係性を知る必要があります。
織田信長の娘である五徳は、1567年(永禄10年)に政略結婚させられ、岡崎に住んでいました。
1578年(天正6年)、遠江を統治するため浜松に住んでいた徳川家康は織田信長を誘い、鷹狩りを行うなどしているため、この時は徳川家と織田家の関係は良好であることが伺えます。
そんな中で1579年(天正7年)6月に徳川家と織田家の間でトラブルが発生しました。
『どうする家康』では大々的に取り上げられませんでしたが、松平信康と五徳の夫婦喧嘩を仲裁するために、徳川家康がわざわざ岡崎まで出向くというできごとが起きています。
松平信康と五徳の夫婦は仲が良くなかったことで知られており、考えられる理由としては、2人の間に生まれた子が女の子だけだったからとも言われています。
そのトラブルの翌月の1579年(天正7年)7月に、織田信長が松平信康の処罰を徳川家康に命じたと伝えられています。
松平信康の最期
1579年(天正7年)9月15日に松平信康は、二俣城にて切腹しました。
少し時を遡り、1579年(天正7年)7月16日には織田信長が徳川家康に松平信康を切腹させるよう命じたとする説が有力です。
しかし、実際には織田信長が切腹を命じたわけではなく、徳川家康の判断によるところとする見方も強いです。
1579年(天正7年)8月4日に松平信康は徳川家康の命により岡崎を追放され、大浜城へ移動させられます。
そして、1579年(天正7年)8月29日に松平信康の母である瀬名が死亡しました。
瀬名の死については明確なことは不明ですが、処刑されたとも自害したとも言われています。
松平信康は大浜城・堀江城・二俣城を転々とさせられ、処罰されました。
瀬名の最期については、以下の記事で詳しく解説しております。
築山殿(瀬名)の最期とは?裏切りの真相。悪女か平和主義者か
なぜ徳川家康は松平信康を殺したのか?
では、なぜ徳川家康は松平信康を殺したのでしょうか。
武田家との関係を疑われた松平信康が、徳川家康の後継ぎとなることは難しくても、出家や廃嫡という命を助ける道が残されていなかったわけではありません。
また、松平信康の処分が決定した後、大浜城・堀江城・二俣城と、松平信康の身を転々と移動させています。
すぐに切腹を命じることも可能な状況下で、そういった扱いをするという点から、徳川家康の迷いを読み取ることも出来ます。
それ故に、徳川家康が松平信康に切腹を命じたことに疑問が残るため、松平信康本人の希望だったのではと考える説もあるようです。
徳川家康の後継ぎとして活躍することが叶わないこれからの人生と、自身の武士としての誇りを天秤にかけ、松平信康は、武士としての誇り、織田信長に従属する父・徳川家康への抗議の意味を込め、誇り高い最期を選択したのかもしれません。
松平信康事件が起きてしまった原因
では、そもそも松平信康事件の原因としてどのようなものが考えられるのでしょうか。
『どうする家康』では通説と異なる解釈もされており、五徳が涙ながらに織田信長への手紙を綴るシーンは印象的でした。
大きな事件がきっかけになった訳ではなく、1つ1つの点としてのできごとが、最終的に線として繋がってしまったと考えると、いくつかのきっかけがあったことが見てとれます。
ここからは、そのきっかけについて、詳しく見ていきましょう。
原因①瀬名が武田家と内通
松平信康事件のきっかけとして、まず挙げられるのが、母・瀬名が武田家と内通していたということです。
実際に、武田家の巫女が瀬名の元を訪れていたと言われています。
織田信長は武田信玄とも対立していましたし、長篠の戦いでは実際に武田勝頼と戦っています。
織田家と武田家の関係がかなり緊張状態にある中、織田信長に従属する徳川家康の正室が武田家と繋がっているとなれば、織田信長が放っておく訳がありません。
長篠の戦いに勝利してはいるものの、武田家の脅威がすぐそこまで迫っている中で、瀬名の松平信康の母として岡崎を守りたいという気持ちが、自分自身と松平信康を追い詰めてしまったのかもしれません。
原因②五徳から織田信長への手紙
松平信康事件のきっかけとして五徳から織田信長へ送られた手紙の内容も、見逃せません。
松平信康の正室・五徳から父・織田信長へ送られた手紙の中で、松平信康の苛烈な性格と瀬名と武田家の繋がりについても言及されています。
織田信長が、徳川家康の家臣である酒井忠次に、この手紙の内容について問い正しますが、酒井忠次が弁明をすることはありませんでした。
この手紙の存在が大きなきっかけの1つと考えられるでしょう。
原因③徳川秀忠の誕生
徳川家康の嫡男として岡崎を統治していた松平信康でしたが、徳川家康に新たに男の子が誕生したというのも事件のきっかけの1つと言えるでしょう。
松平信康事件よりも前に、徳川家康と側室・於愛の方の間に男の子が誕生しています。
この男の子は、後の2代将軍・徳川秀忠となる男の子で、長丸と名付けられました。
瀬名との関係が冷え切っていたとされる徳川家康が、側室・於愛の方の子を後継ぎとして考えていたとしても、不自然なことではありません。
徳川秀忠の誕生により、徳川家の後継ぎについて徳川家康の心が揺れていたとも考えられます。
殺人鬼?松平信康の残虐行為
松平信康は苛烈な性格で、残虐行為を繰り返す、殺人鬼だったとも。
踊り子の舞が気に食わず弓で射る、鷹狩りを行なっている際、通りがかった僧路を絞め殺すなど、過激な殺戮を行なっていたと考えられています。
日頃からの乱暴な行いもあったとされており、五徳から織田信長へ宛てた手紙の中で残虐行為について言及されています。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?|まとめ
松平信康は徳川家康の嫡男として誕生しますが、最終的に二俣城にて切腹し、亡くなりました。
松平信康が父・徳川家康から切腹を言い渡されるまでには、岡崎でのトラブルや織田信長からの追求、武田家と母・瀬名の内通など、多くのできごとが起きています。
松平信康が切腹に至るまでの経緯も謎に包まれた部分が多いため、現代でも様々な説が存在します。
ただ、松平信康という武将が存在し、父・徳川家康のため、懸命に戦っていたことは変わりありません。
徳川家康にとっても、嫡男である松平信康と正室・瀬名を失った悲しみは、深い傷となり、生涯背負っていくものとなったでしょう。