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『於愛の方(西郷局)』多くの家族を失った戦争未亡人!
大河ドラマ「どうする家康」では広瀬アリスさんが演じている於愛の方(西郷局)。
明るく可愛らしいキャラクターに癒される方も多いのではないでしょうか。
江戸時代が長く続く安寧の世となったのは、初代将軍・徳川家康が存命時に、2代将軍・徳川秀忠へ将軍職を譲り、家督を継承をさせたことが理由として挙げられます。
その2代将軍・徳川秀忠の母こそが、於愛の方・もしくは西郷局(さいごうのつぼね)と呼ばれる女性です。
そんな彼女の前半生は、多くの家族を戦で失う悲惨なものでした。
戦で夫を亡くし、未亡人となった彼女が、どのような経緯で徳川家康に見染められたのでしょうか。
また、於愛の方(西郷局)に関する逸話は、彼女の存命時のみならず、死後にも存在しています。
そんな於愛の方(西郷局)の生涯について、分かりやすく解説していきますので、是非チェックしてみてください。
波瀾万丈・於愛の方(西郷局)の生涯
於愛の方(西郷局)の生涯は、28年間だったとも、38年間だったとも言われています。
駿府城にて最期を迎える彼女ですが、その生涯は波瀾万丈なものでした。
なぜなら、4人の家族を戦で失うことと、4人の子どもを出産することを経験しているからです。
於愛の方(西郷局)の生涯について、詳しく見ていきましょう。
於愛の方(西郷局)の出自
於愛の方(西郷局)は、今川家臣・戸塚忠清(とつかただきよ)の娘として生まれます。
祖父の西郷正勝(さいごうまさかつ)も、今川家に臣従していました。
また、戸塚忠家(とつかただいえ)という兄がいたとされています。
父と兄が亡くなった後に、西郷家に身を寄せていたことから、西郷の局と呼ばれることになります。
多くの家族を戦で失った悲劇的な前半生
於愛の方(西郷局)は、戦で、祖父・父・兄・夫を亡くしています。
続柄 | 氏名 | 戦の相手 |
---|---|---|
祖父 | 西郷正勝 | 今川家 |
父 | 戸塚忠清 | 不明 |
兄 | 戸塚忠家 | 不明 |
夫 | 西郷義勝 | 武田家 |
父と兄は今川家臣として討ち死にしたと言われていますが、詳しいことは分かっていません。
父と兄が亡くなったタイミングで、戸塚家はお家が断絶したと考えられ、於愛の方(西郷局)は母方の祖父・西郷正勝の元へ身を寄せています。
その後、従兄弟である西郷義勝(さいごうよしかつ)と結婚し、一男一女を出産。
しかし、元々今川家に従っていたものの、徳川家に寝返った祖父・西郷正勝が今川家との戦にて戦死。
夫・西郷義勝も武田家との戦にて戦死します。
夫を亡くした於愛の方(西郷局)は、藤正尚(ふじまさなお)という武将の元に身を寄せます。
藤正尚との関係性は分かっていませんが、この武将のおかげで、徳川家康と出会うことができました。
戦にて、立て続けに大切な人を失った於愛の方(西郷局)の前半生。
そんな彼女の後半生について、見ていきましょう。
徳川家康の側室・徳川秀忠の母親としての後半生
於愛の方(西郷局)の生涯は、身を寄せていた藤正尚と言う武将の元へ徳川家康が訪れたことから、一変します。
徳川家康がわざわざ訪れていると言う点から、藤正尚の身分もそれなりに高かったのではないかと推察されていますが、詳しいことは分かっていません。
徳川家康は藤正尚の家で於愛の方(西郷局)を見かけて一目惚れし、1578年(天正6年)に側室として迎え入れました。
その際、於愛の方(西郷局)は、叔父にあたる西郷清員(さいごうきよかず)の養女になる、という段階を経て、徳川家に嫁いでいます。
西郷清員(さいごうきよかず)とは?
・於愛の方(西郷局)の夫・西郷義勝の死後に断絶した西郷家の宗家を継いだ武将。
・徳川家康の重臣・酒井忠次の妹婿としても知られる。
・長篠の戦いにて、酒井忠次が指揮をとった鳶ヶ巣砦の奇襲にも参加していた。
わざわざ西郷清員の養女となってから徳川家に嫁いだ理由は、父・戸塚忠清が今川家に仕えていた為見栄えが悪かった・酒井忠次の妹婿の娘にすることで、家柄に箔をつけたとする見方がありますが、詳細は分かっていません。
1579年(天正7年)4月には、後の徳川秀忠・長丸を出産。
徳川秀忠は非常に温和で、穏やかな人物として知られており、母親に似て、仁柔な性格であったと伝わっています。
ただ、それは、良い意味だけでなく、仁柔にすぎると徳川実紀では辛口な評価をされてししまっています。
徳川実紀とは?
・徳川家の公式記録書
徳川秀忠と松平忠義を出産し、徳川家を語る上で外すことが出来ない女性となった於愛の方(西郷局)ですが、その人生は若くして終わりを迎えてしまうのです。
於愛の方(西郷局)の最期と死後の逸話
於愛の方(西郷局)の死については、実はよく分かっていません。
しかし、於愛の方(西郷局)が亡くなる頃、徳川家と豊臣家の関係は一触即発状態であったため、豊臣家の陰謀を疑う声が挙がることもしばしば。
徳川家康の天下統一・徳川秀忠の将軍就任を見届けることなく、この世を去った於愛の方(西郷局)。
彼女の最期と、その後について、分かりやすく解説していきます。
徳川秀忠に会えずに迎えた最期
於愛の方(西郷局)は、徳川秀忠10歳の年・1589年(天正17年)に駿府城にて亡くなったと言われています。
実はこの時期、於愛の方(西郷局)は、豊臣秀吉により、人質として上洛するよう申しつけられていました。
これには、小牧・長久手の戦い後、徳川家と豊臣家の間が、かなり高い緊張関係にあったという背景があります。
豊臣家に臣従するに当たり、嫡男・徳川秀忠と側室・於愛の方(西郷局)を人質として差し出すよう伝えられた徳川家康。
しかし、於愛の方(西郷局)はこの頃既に体調を崩しており、上洛は難しく、徳川秀忠のみが、京へ向かいました。
徳川秀忠が京に上っている間に、於愛の方(西郷局)は亡くなったと言われています。
死後も愛され続けた於愛の方(西郷局)
戦に人生を翻弄された前半生でしたが、後半生は徳川家康に寵愛され、駿府城にて亡くなった於愛の方(西郷局)。
多くの人に愛された彼女に関するこんな逸話が残っています。
生前、自身の眼が悪かったことから、盲目の女性を庇護したと伝わる於愛の方(西郷局)。
彼女の死後、東海道周辺に住んでいた盲目の女性達が、駿府城の竜泉寺を連日参ったと言うのです。
竜泉寺には、於愛の方(西郷局)のお墓があったと考えられており、彼女が多くの者に慕われていたことが分かります。
徳川家康は未亡人好き?
徳川家康の女性の趣向について、未亡人好きというイメージをされる方も多いかもしれません。
しかし、徳川家康が20人以上の側室を抱える中で、未亡人は3人のみでした。
20人以上いたと言われる徳川家康の側室について、以下の記事で詳しく解説しています。
徳川家康の妻は何人いた?ハーレムすぎる!妻多すぎ問題
また、戦国時代は、男性が戦で亡くなることが珍しくなく、夫を戦で亡くした女性も多かったため、そういった女性を側室として迎えることは、戦死者遺族の保護という側面もあったのではないかと推察されています。
それに、既に子を産んだ経験のある女性であれば、後継を出産できる可能性も高いため、未亡人を側室として迎えるのは、理に適っていると言えるでしょう。
徳川家康の側室について
徳川家康は、20人以上の女性を側室として迎えたことで有名です。
於愛の方(西郷局)を始め、後に豊臣秀吉の養子となる結城秀康(ゆうきひでやす)の母・於万の方(おまんのかた)など、勇猛な武将の母となった者がいる一方で、小牧・長久手の戦いに徳川家康とともに出陣したと伝わる阿茶の局(あちゃのつぼね)など、子どもを産んでいないにも関わらず重用された側室も存在します。
このことから、徳川家康にとっての側室が、後継を産ませることのみを目的としたものではない、特別な存在だったことが分かります。
未亡人3人!織田信長の側室事情
ここで、8人いたと言われている織田信長の側室事情についても、見ていきましょう。
意外にも、3人の未亡人を側室として寵愛。
織田信忠(おだのぶただ)・織田信雄(おだのぶかつ)・五徳(ごとく)の母として知られる側室・生駒吉乃(いこまきつの)も、未亡人だったと言われています。
未亡人を側室として迎えることは、珍しいことではなかったことが分かります。
『於愛の方(西郷局)』多くの家族を失った戦争未亡人!』|まとめ
於愛の方(西郷局)は、戦国の世に翻弄され、多くの家族を失うという壮絶な経験を経て、2代将軍・徳川秀忠を出産し、その母として後世に名を残した人物ということが分かりました。
そんな状況の中でも、優しさを忘れず、人々の心を癒していた存在であったことが、死後のエピソードからも伺えます。
彼女の存在は、徳川家康にとっても、生涯忘れられるものとなったことでしょう。
そんな優しい彼女がもしも長生きしていたら、徳川家康の天下統一と、徳川秀忠の将軍就任を、誰よりも喜び、2人の支えとなり続けたことでしょう。