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【真田幸村】ニート生活から脱し、48歳でヒーローとなった男
日本人に古くから愛されるヒーロー・真田幸村。
大阪の陣で大軍・徳川家康を相手に戦い、家康をぎりぎりまで追い詰めるも討ち死にしてしまう、その散り際の美学に人気の理由があります。
あまり知られていないですが、幸村が活躍したのは48歳の時の大阪の陣だけといっても過言ではありません。
その上、大阪の陣より前は山でニート生活を強いられていたのです。
「真田幸村とは、どのような人物だったのか?」
「なぜニート生活を送っていたのか?」
48歳まで名をあげることの無かった幸村。その生涯と壮絶な最期を解説します。
真田昌幸の次男として出生
真田幸村は1567年、真田昌幸の次男として生まれました。
兄には真田信幸がいます。
父・昌幸は武田家に仕えており、長篠の戦いにも武田軍として参戦したと伝わります。
父・真田昌幸は「表裏卑怯の者」
武田家が滅びた後の真田昌幸は、なんとか真田家を残すために、めまぐるしく従属する武将を変え続けました。
そのため策略家として「表裏卑怯の者」とあだ名されていました。
「表裏卑怯」とは裏表があって卑怯なやつという意味ですが、戦国時代には策謀家として評価する褒め言葉でもあり皮肉でもありました。
真田昌幸について詳しく解説している記事がございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
どうする家康解説!生き残りの天才『真田昌幸』家康を翻弄する”表裏比興の者”
真田家が豊臣家に従属
豊臣秀吉が関白となりいよいよ天下統一となった頃、真田家は豊臣家に仕えることとなります。
この時豊臣家に人質として送られたのが、他でもない真田幸村でした。
豊臣秀吉の家臣になる
天下人・秀吉の下で才能を見込まれた幸村。
ただの人質では勿体無いと、秀吉の家臣として働くことになるのです。
1590年・24歳の時には、小田原攻めで初陣を飾りました。
補足:小田原攻め
豊臣秀吉と秀吉に反抗する関東の北条家との間に起こった戦いのこと。
北条氏直が小田原城を開城、降伏したのち自害させられた。
残念ながら幸村に目立った活躍の記録はありませんが、北条氏は滅亡し豊臣軍は勝利を治めました。
また1592年・幸村26歳の時文禄の役が起こります。
補足:文禄の役
豊臣秀吉が領土拡大のため朝鮮へ出兵した戦いのこと。
文禄の役では予備要員として日本に待機していたようで、こちらでも残念ながら目立った活躍はなかったようです。
その後、28歳の時には秀吉から知将として認められていた大谷吉継の娘と結婚しています。
関ヶ原の戦いで兄・信幸と別離
1600年・34歳の時、関ヶ原の戦いが勃発します。
現在の岐阜県・関ヶ原を舞台にした、天下分け目の戦いともいわれるこの合戦。
秀吉の死後、力を大きくしていた徳川家康を中心とする東軍と、家康に反発する石田三成を中心とする西軍との戦いが繰り広げられたのです。
犬伏の別れ
この関ヶ原の戦いの際、真田幸村は兄・信幸とはなればなれになってしまいます。
世にいう犬伏の別れです。
父・真田昌幸の策略で、昌幸と幸村は西軍で石田三成と共に戦い、本多忠勝の娘で家康の養女と結婚していた兄・信幸は東軍として徳川家康と共に戦うこととしたのです。
どちらが勝っても真田家は存続できるという算段ですが、悲しいことに兄弟、そして父子が敵同士となってしまいました。
家の存続のため別れを選んだ真田父子の、痛切な想いを感じられるエピソードです。
真田幸村と昌幸の活躍した第二次上田合戦
関ヶ原の戦いと同時期に第二次上田合戦が繰り広げられます。
真田家の持つ上田城で徳川秀忠率いる30000人の大軍を、昌幸・幸村父子はわずか3000人ほどの兵で迎え撃ったのです。
父・昌幸は上田城で秀忠を挑発、様々な策略を駆使し、秀忠の大軍を足止めします。
徳川軍に大打撃を与え、ついに上田城攻略を諦めさせることに成功しました。
秀忠は急ぎ関ヶ原へ向かいましたが、本戦には間に合わず、遅刻をしてしまったのです。
命を救われるも山でのニート生活へ
関ヶ原の戦いで昌幸・幸村父子のついた西軍は敗北。
敗戦した上、徳川秀忠に戦への遅刻という恥をかかせた昌幸・幸村父子を、勝者・家康が許すはずがありません。
本来なら処刑されてしかるべき状況です。
しかし、徳川家に仕えていた兄・信幸やその義父に当たる本多忠勝の嘆願もあり、命だけは助けられ、昌幸・幸村父子は九度山へ追放されることとなりました。
山に追放された幸村が侍として活躍することは、当然一切許されません。
畑仕事などをするのみで、まさにニートともいえる貧しい生活を強いられていたようです。
そんな中、幸村45歳の時、父・昌幸が病死してしまいます。
「表裏卑怯の者」とあだ名された男が山中で衰弱し亡くなったとは、いかに無念なことだったでしょうか。
考えただけでも胸が苦しくなりますね。
関ヶ原の戦いで活躍した名将について、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較
大阪の陣の勃発
1614年、真田幸村が48歳の時、方広寺鐘銘事件を契機とした大阪冬の陣が勃発します。
関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府の征夷大将軍となった徳川家康が、大阪城を拠点とする豊臣家をついに滅ぼそうとした戦いです。
豊臣家への忠誠を忘れていなかった幸村は、山での貧乏生活を脱出し大阪城へ入るのです。
大阪城には行き場を失ったかつての英雄たちが集まっていました。
領土回復を主張した幸村でしたが、大阪城主・豊臣秀頼、秀頼の母・淀殿の方針により、数に劣る豊臣軍は大阪城に籠城し、大阪城で徳川軍を迎え撃つことになりました。
大阪冬の陣で真田丸を構築
淀川や大和川だけでなく、多くの砦に囲まれた大阪城は大変堅固な城でした。
しかし南側は防御力が低く、幸村始め多くの武将が南側から攻め込まれるのではと考えていました。
そこで幸村が大阪城の南側に築城した出城が真田丸です。
真田丸に徳川軍を引き寄せ一網打尽にするという作戦で、数千人しかいなかった真田丸に対し、徳川兵は1万以上の被害を被りました。
いかに幸村の策略が優れ、また武将として強大だったかがわかりますね。
和睦の成立
大阪冬の陣で豊臣家を滅ぼすことができなかった徳川家は、停戦に持ち込みます。
豊臣家は存続を許されるも、大阪城の堀を埋め、出城である真田丸も壊すよう命を受けました。
丸裸の大阪城。
これ以上戦うことは不可能になってしまったのです。
大阪夏の陣の勃発
翌年の夏、再び徳川家が大阪城に攻めてきました。
しかし、大阪城には堀もなければ、真田丸もありません。
幸村は城を出て戦いました。
その際、一戦を交えたのが伊達政宗です。
幸村は伊達政宗を高く評価し、4人の妻や子供達を政宗に預けました。
幸村に従って戦い続けた長男・大助以外は、政宗の元で生き延び、伊達家の家臣として真田の名前を残していきました。
幸村には、主君である豊臣家が負けてしまう未来が見えていたのかもしれませんね。
大阪の陣については以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!?
徳川本陣に突撃、「日の本一の兵なり」
多くの勇猛な武将が討ち死にしていく中、幸村は決死の覚悟で徳川本陣に突撃します。
家康の首をとる決意の下、手近な少数の兵での突撃でした。
家康を切腹寸前まで追い込んだ幸村でしたが、ついに家康の首をとることは叶わず、力尽きてしまったのです。
真田幸村の壮絶な最期を知った豊臣方。
幸村のことを「日の本一の兵なり」と称賛したと伝わります。
【真田幸村】ニート生活から脱し、48歳でヒーローとなった男|まとめ
山でニートのような生活を送り、日の目を見ることのなかった真田幸村。
48歳という人生の最後でやっと活躍し、後世に語り継がれるヒーローとなりました。
勝てる戦とは思っていなくとも、敵を最後まで追い詰める。
その最期はまさに散り際の美学を感じます。
もし、幸村がもっと早くに生まれていたら?という歴史のIFもまた興味深いかもしれませんね。
▼主な参考文献