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大河ドラマで人気!日本一の兵・真田信繁は何故『真田幸村』になったのか?
大河ドラマ「どうする家康」で日向亘さんが演じ、新たなる強敵と謳われる真田幸村(さなだゆきむら)。
父・真田昌幸(さなだまさゆき)、兄・真田信幸(さなだのぶゆき)も登場し、更に目が離せない展開が続いています。
2016年には大河ドラマ「真田丸」の主人公に選出され、堺雅人さんが熱演。
戦国武将を題材にしたコンテンツにおいても忠義の武将として圧倒的な人気を誇り、一般的にもその名が広く知れ渡っています。
そんな彼の名前は真田信繁(さなだのぶしげ)から幸村に変更されたものであると言われていますが、「幸村」は後世に創作されて付けられた名前で、本人が名乗っていたわけではないとされる説が存在するのも事実です。
何故、日本一の兵・真田信繁は幸村になったとされるのか?
今回はその理由や根拠について解説していきます。
目次
何故『真田幸村』になったのか、考えられる要因
真田信繁が幸村へ名前を変えたタイミングとして考えられるのは1600年(慶長5年)・関ヶ原の戦いから 1614年(慶長19年)・大阪冬の陣勃発までの間です。
真田信繁が大坂夏の陣にて討ちとられ、生涯を終えたことを鑑みると、幸村であったとされる期間はかなり短いことが分かります。
何故、わざわざ名前を変える必要があったのか?
その要因について、考えていきましょう。
真田信繁や豊臣家の最期である、大阪の陣について詳しく知りたい方はこちらもあわせてご確認ください。
大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!?
兄と敵対関係に!関ヶ原の戦いで敗北した真田親子
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦い。
天下分け目の大戦といわれ、豊臣方である西軍と徳川方である東軍との一大決戦として有名です。
結果として関ヶ原の戦いでは西軍として参戦し、敗北した真田信繁ですが、真田家が挑んだ関ヶ原の戦いには複雑な背景が存在しました。
その背景とは、徳川家臣・本多忠勝(ほんだただかつ)の娘を正室とする兄・真田信幸が、東軍へ味方をしたというもの。
父・真田昌幸と真田信繁は西軍へ、兄・真田信幸は東軍へ。
親兄弟で袂を分つことになった決断をした場所にちなんで、犬伏の別れとして語り継がれる真田家の有名な逸話です。
関ヶ原の戦いに敗北した真田昌幸・真田信繁は徳川家康(とくがわいえやす)の命により現在の和歌山県・九度山で謹慎させられます。
兄・真田信幸が徳川家康に「幸」を奪われる
関ヶ原の戦いに勝利した真田信幸ですが、真田家の通字であり父と同じ「幸」の字を捨てるよう、徳川家康に促されました。
真田家では代々「幸」「昌」「綱」の字が通字とされており、その字を捨てるということは、父との決別を意味しました。
通字とは?
祖先から代々伝えてつける文字
しかし、徳川家康への忠義を示す必要があった為、真田信幸は泣く泣く「幸」の字を捨て、真田信之へ改名。
真田信繁は、真田家の通字を引き継いでいない為、それを貰いたかった気持ちもあるのではと推察されています。
父・真田昌幸の死
武田信玄への忠誠を誓った知将・真田昌幸。
そんな彼が亡くなったのは1611年(慶長16年)と言われています。
関ヶ原の戦い後、九度山での謹慎生活を余儀なくされていた昌幸ですが、ついに赦免されることなく、最期を迎えます。
父の死と、徳川家と豊臣家の対立が幸村の運命を大きく変えていくのです。
何度も主君変えをして生き残ってきた真田昌幸については、こちらの記事をご確認ください。
どうする家康解説!生き残りの天才『真田昌幸』家康を翻弄する”表裏比興の者”
豊臣家への忠義を貫いた大阪の陣
兄は「幸」の字を失い、「幸」の字を持つ父は亡くなりました。
そんな折、徳川家と豊臣家の関係が緊張感を増しているという情報が真田信繁の元へ届きます。
ここで「真田幸村」へ名を改めたとされています。
豊臣家への忠義を貫くため大阪の陣へ参戦を決意し、幸村として大いに戦ったとされる幸村。
幸村への改名が史実であるとしたら、彼の豊臣家を守り抜く覚悟・父の遺志を受け継ぐ想いが並々ならぬものであったことが伺えます。
徳川家を呪う妖刀?大河ドラマ・ゲームでの幸村改名の描かれ方
ここまでで真田信繁が名前を変えた要因として考えられるものを確認しました。
では、実際の史料には幸村の名前が残っているの?と疑問に感じる所ですが、先に創作作品上での幸村改名にまつわるストーリーを確認してみましょう。
正確に改名の理由が判明しているわけではない為、様々な解釈が存在しますが、その中で、大河ドラマ・真田丸と戦国ゲーム・戦国大河のストーリーを解説します。
もしかしたら、ドラマやゲームで描かれていることが実際に起こっていたかもしれないと考えると、わくわくしますよね。
息子にくじをひかせた!大河ドラマ・真田丸
2016年放送の大河ドラマ・真田丸。
三谷幸喜さんが手がけた2004年放送「新撰組!」、2022年放送「鎌倉殿の13人」と並んで、三谷大河と呼ばれる3作品のうちの1つでもあります。
このドラマにおいて、幸村の名前の由来はどのように描かれたのでしょうか。
生前に父から受け継ぐよう伝えられた「幸」。
これまでの人生において自分と関わりのあるキーワードを羅列した上で、くじ引きにして息子に選ばせた「村」。
この2つを組み合わせ、「幸村」とし、大阪に向かう為、九度山を抜け出すというストーリーでした。
ミスター武士道もおすすめの戦国ゲーム・戦国大河
ミスター武士道もおすすめの戦国ゲーム・戦国大河にも、真田幸村は登場します。
このゲームにおいての幸村の由来はどういったものなのでしょうか。
まずは、兄・真田信之から奪うほど徳川家康が忌み嫌った「幸」。
そして、徳川家に仇なす妖刀・村正の「村」。
これらを組み合わせて、徳川家を脅かす存在として「幸村」を名乗ったというのが、戦国大河でのストーリーです。
本人が幸村と名乗っていた?史料・記録上の幸村
真田信繁について、幸村改名の理由として考えられる要因と、創作作品上での描かれ方について紹介しました。
そこで気になるのが、史実ではどうだったの?という点。
実は、幸村改名については未だに諸説あるのが現状で、決定的な史実の確認は出来ていません。
しかし、史料の中には「幸村」の文字が確認できるものや、本人が名前を記したとされる書状もある為、そちらについて解説していきます。
幸村について確認できる記録
「幸村」について確認できる記録は軍学者・北条氏長(ほうじょううじなが)による「難波戦記」と真田家臣・西村孫之進(にしむらまごのしん)の証言とされる「慶元記」があります。
それぞれ1672年(寛文12年)と1633年(寛永10年)に記されたとされるため、真田幸村が亡くなった後に記されたものであることが分かります。
その為どちらも信憑性は低いとされていますが、江戸時代に真田幸村の呼び名が浸透していたことは、間違いないようですね。
兄・信之が藩主を務めた松代藩の記録
徳川方の武将として生き残った兄・真田信之が藩主を務めた松代藩の記録でも、「幸村」を確認することができます。
幕府に提出する為に家系図をまとめたような史料・重修諸家譜(ちょうしゅうしょかふ)と、真田家臣が記した・滋野通記(しげのつうき)です。
1775年(寛政7年)に記された滋野通記では、生前の真田信之が「真田信繁が九度山へ謹慎後に改名した」と言っていたとされています。
ただ、全て当時に書かれたものではない為、信憑性には欠ける情報とされています。
存在する?本人が幸村の名前を記した書状
実は、彼自身が「幸村」の名を印した書状があるとされています。
お世話になったお寺・蓮花定院と真田家臣・宮下藤右衛門へ宛てた書状です。
しかし、原本が存在しておらず、写しを確認しても、同時代の他の書状と比較した時に使われていない表現がされていたり、花押も他の書状と違うことから、こちらも信憑性には欠ける史料であるとされています。
大河ドラマで人気!日本一の兵・真田信繁は何故『真田幸村』になったのか?
|まとめ
今回は真田信繁は何故『真田幸村』になったのか?について、解説しました。
江戸時代にヒーローとして持て囃された真田幸村という名前を、実際に本人が名乗っていたかは未だに解明されていません。
大河ドラマを始めとする歴史を題材にした作品においても、様々な描き方がされています。
しかし、幸村に変更したとされる要因として父の死や兄の名前という部分が考えられることから、彼が義に厚い人物であったことが想像できます。
48歳まで名をあげることの無かった幸村の生涯と、壮絶な最期についてはこちらの記事で解説しています。
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