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佐々成政とは何者か?忠義と悲劇、戦国武将の知られざる実像に迫る
あなたは、主君への忠義と己の矜持(きょうじ)、そして時代の大きなうねりの中で、時に不器用に、しかし誰よりも力強く生きようとした武将の物語に興味はありませんか?
今回スポットライトを当てるのは、佐々成政(さっさ なりまさ)。織田信長の信頼厚い猛将でありながら、豊臣秀吉と激しく対立し、最後は悲劇的な最期を遂げた戦国武将です。
彼の名は、「さらさら越え」の壮絶な雪山踏破や、肥後国での大失態といったドラマチックなエピソードと共に語られることが多いですが、その人物像は一筋縄ではいきません。
この記事では、歴史ファンの方々に向けて、佐々成政の生涯を追いながら、彼の輝かしい武功、人間味あふれる逸話、そして彼が歴史に刻んだ重要な出来事の真相に迫ります。
なぜ彼は秀吉に屈し、そしてなぜ非情な運命を辿らなければならなかったのか?佐々成政の知られざる実像と、彼が生きた時代の息吹を感じていただければ幸いです。
目次
織田家臣時代:輝かしい武功と信長への諫言
佐々成政は、天文5年(1536年)頃、尾張国(現在の愛知県西部)に生まれたとされています。
若い頃から織田信長に仕え、その武勇は早くから際立っていました。
特に知られるのが、信長の親衛隊ともいえる「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭に抜擢されたことです。
母衣とは、騎馬武者が背中に背負う布製の武具で、矢を防いだり、戦場での存在感を示したりするものでした。
その筆頭を任されるということは、信長からの絶大な信頼と、成政自身の武勇がいかに優れていたかを物語っています。
実際、成政は姉川の戦いや長篠の戦いなど、織田家の主要な戦いで数々の武功を挙げ、その名を轟かせました。
また、成政は単なる武勇一辺倒の人物ではなかったようです。
有名な逸話として、信長が浅井長政・朝倉義景父子の髑髏(どくろ)に金箔を塗り、酒宴の席で披露した際、多くの家臣が言葉を失う中で、成政は「人の道に外れる行いでは、天下を治めることはできません」と諫言(かんげん:主君の過ちをいさめること)したと伝えられています。
これが史実かどうかは議論の余地がありますが、彼の一本気な性格や、主君に対しても臆せず意見する剛直さを示すエピソードとして、後世に語り継がれています。
一方で、短気な一面もあったと言われ、良くも悪くも裏表のない、人間臭い武将だったのかもしれません。
本能寺の変後:激動の時代と秀吉との対立
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、成政の運命も大きく揺れ動きます。
信長という絶対的な支柱を失った織田家では、後継者争いが勃発。
成政は、織田家の筆頭家老であった柴田勝家に与(くみ)しました。
これにより、同じく信長の後継者の座を狙う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明確に対立する立場となります。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れ、自害すると、成政は一旦秀吉に降伏し、越中(えっちゅう:現在の富山県)一国の所領は安堵(あんど:保証されること)されました。
しかし、これはあくまで一時的なもので、成政の胸中には秀吉への不信感が渦巻いていたことでしょう。
翌天正12年(1584年)、織田信長の次男・織田信雄(おだ のぶかつ)と徳川家康が反秀吉を掲げて挙兵すると(小牧・長久手の戦い)、成政もこれに呼応し、再び秀吉に反旗を翻します。
しかし、戦局は膠着(こうちゃく)し、信雄と家康が秀吉と和睦を結んでしまうと、成政は越中で孤立することになりました。
「さらさら越え」:伝説と史実のはざまで
秀吉との和睦を覆させ、再び家康を反秀吉の戦いに引き込もうと、佐々成政が決行したとされるのが、有名な「さらさら越え」です。
これは、天正12年(1584年)の厳冬期、成政が家臣数名だけを連れ、日本アルプスの険しい山々、特に立山連峰のザラ峠や針ノ木峠を越えて、浜松の徳川家康のもとへ向かったという壮絶な雪中行軍の伝説です。
「さらさら」とは、雪が衣服に触れる音とも、あるいはザラ峠の「ザラ」が転じたものとも言われています。
当時の装備で、標高2500メートル級の冬山を越えるのは、まさに命がけの行為。
このエピソードは、成政の並外れた行動力と執念を象徴するものとして、講談や小説などで度々取り上げられてきました。
しかし、この「さらさら越え」については、史実としての確証はありません。
成政が冬に信濃(しなの:現在の長野県)を経由して家康に会いに行った記録はありますが、具体的なルートが立山連峰であったかは不明です。
近年の研究では、比較的標高の低い飛騨(ひだ:現在の岐阜県北部)ルートを通ったのではないか、という説も有力視されています。
いずれにせよ、敵中を突破し、厳寒期に長距離を移動してまで家康に再挙を促そうとした成政の行動は、彼の秀吉への強い対抗意識と、状況を打開しようとする必死の思いの表れと言えるでしょう。
残念ながら、家康を説得することはできず、この決死行は実を結びませんでした。
歴史的重要性としては、この行動自体が戦国武将の気概を示す逸話として記憶される一方で、結果的に成政の孤立を深め、後の運命に繋がったとも言えます。
また、この時期の北陸は上杉景勝の脅威にもさらされており、成政は多方面での困難な状況に置かれていたのです。
豊臣秀吉への臣従と一時の安堵
「さらさら越え」の努力も虚しく、孤立無援となった佐々成政に対し、天正13年(1585年)、ついに豊臣秀吉は大軍を率いて越中に侵攻します(富山城の戦い)。
圧倒的な兵力差の前に、成政は抵抗らしい抵抗もできず、織田信雄の仲介もあって降伏。
一命は助けられたものの、越中一国の所領は没収され、ごく一部を除いて召し上げられました。
その後、成政は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加えられます。
御伽衆とは、主君の側近くに仕え、話し相手や相談役を務める役職で、かつて敵対した武将がこの役に任じられることもありました。
秀吉としては、成政の武勇や経験を評価しつつも、自身の支配下に置くことで監視する狙いもあったのかもしれません。
この時期、成政は摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北部と兵庫県南東部)にわずかな領地を与えられ、大坂で過ごすことになります。
天正15年(1587年)には、秀吉から「羽柴」の名字を与えられました。
これは、秀吉が一定の評価を与え、豊臣政権の一員として取り込もうとした証と見ることもできます。
このまま静かに時を過ごしていれば、彼の運命も変わっていたかもしれません。
肥後の太守へ:新天地での試練と悲劇の序章
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われました。
この戦いで何らかの功績があったのか、あるいは秀吉の別の思惑があったのか、佐々成政は戦後処理において、驚くべきことに肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)を与えられれます。
当時の肥後国は、長年の戦乱で荒廃し、国衆(くにしゅう)の力が非常に強い地域でした。
彼らは独自の勢力を持ち、中央からの支配に反発することも少なくありませんでした。
秀吉は、こうした複雑な土地の統治を、あえて外様(とざま:古くからの家臣ではない者)であり、かつて敵対した経験も持つ成政に任せたのです。
これには、成政の武断的な統治能力に期待したという説や、あるいは失敗を前提とした「地ならし役」として利用したという冷徹な見方も存在します。
いずれにせよ、成政にとっては再起をかけた大きなチャンスであると同時に、非常に困難な任務の始まりでした。
彼は肥後に入国するにあたり、秀吉から「三年間の検地(けんち:田畑の面積や収穫量を調査すること)禁止」などの指示を受けていたとも言われています。
これは、性急な改革を避け、現地の状況を慎重に見極めるようにとの配慮だったのかもしれません。
肥後国衆一揆:理想と現実の乖離、そして破滅へ
しかし、佐々成政は肥後国主として、その期待に応えることができませんでした。
肥後に入国した成政は、秀吉の指示を待たず、あるいは軽視したのか、早々に強引な検地を断行しようとします。
これは、一日も早く領国を掌握し、実績を上げて秀吉の信頼を得たいという焦りがあったのかもしれません。
しかし、この性急な改革は、土地の支配構造を根本から揺るがすものであり、肥後の国衆の猛烈な反発を招きました。
天正15年(1587年)後半、隈部親永(くまべ ちかなが)らを中心に、肥後の国衆が一斉に蜂起します。これが「肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)」です。
一揆の勢いは凄まじく、成政は自力でこれを鎮圧することができませんでした。
結局、秀吉は九州の諸大名に鎮圧を命じ、大規模な軍事行動によってようやく一揆は鎮められましたが、その代償は大きなものでした。
この一揆の原因については、成政の失政(性急な検地)が直接的な引き金であることは間違いないでしょう。
しかし、より大きな視点で見れば、秀吉政権による九州国分(九州の領地配分)そのものに対する国人衆の不満が根底にあったとする説も有力です。
彼らにとってみれば、長年守り続けてきた土地の権利が、中央から来た新しい支配者によって一方的に変えられることへの抵抗だったのです。
この肥後国衆一揆は、戦国時代から近世へと移行する過渡期における重要な事件と位置づけられています。
それは、戦国時代に特有のあり方であった戦国大名「惣国家」の中に国衆の地域国家が存在する重層的複合国家の終焉を象徴し、近世大名による一元的な支配へと繋がっていくからです。
また、この一揆で農民が多く武器を取って戦ったことが、後の「刀狩令(かたながりれい)」発布の一因になったとも言われています。
成政の失敗は、結果的に秀吉の天下統一政策を推し進める契機の一つとなったのです。
非情の結末:武人・佐々成政、その最期
肥後国衆一揆の責任を問われた佐々成政の運命は、あまりにも過酷なものでした。
天正16年(1588年)、成政は弁明のために大坂へ呼び出されますが、秀吉は面会すら許さず、摂津尼崎(あまがさき)の法園寺(ほうおんじ)に幽閉。
そして、同年閏(うるう)5月、切腹を命じられました。享年53歳前後とされています。
秀吉が成政にこれほど厳しい処分を下した理由については、諸説あります。
単に一揆を招いた失政の責任を問うだけでなく、他の大名への見せしめや、豊臣政権の支配体制を確立するための非情な判断があったと考えられます。
前述したように、あえて成政を困難な肥後に送り込み、「地ならし役」として利用した後、切り捨てたという冷徹な戦略を見て取る研究者もいます。
成政の最期は壮絶だったと伝えられています。
切腹の際、短刀を腹に突き刺し、横一文字にかき切った後、自らの内臓を掴み出して天井に投げつけたというのです。
これが事実であれば、彼の無念さや怒り、そして武人としての最後の意地がいかばかりであったか、想像に難くありません。
この逸話は、彼の剛直で激しい気性を示すものとして、江戸時代の講談などで語り継がれました。
辞世の句は、「このごろの 厄妄想(やくもうそう)を 入れ置きし 鉄鉢袋(てっぱちぶくろ) 今破るなり」とされています。
「最近の災難や悪い考えを詰め込んでいた、この鉄の鉢のような自分の身体(袋)を、今こそ破り捨てるのだ」といった意味でしょうか。
ここにも、彼の無念や、世の無常を感じさせる響きがあります。
成政の死後、彼の家族もまた厳しい運命を辿りました。
一説では、彼が秀吉に反旗を翻した際、人質として京都にいた次女とその乳母が処刑されたとも言われています。
直系の子孫は途絶えたとされますが、傍系の子孫は存続し、水戸黄門として知られる徳川光圀に仕えた儒学者・佐々宗淳(さっさ むねきよ、十竹)などがいます。
なお、豊臣政権の重鎮であった豊臣秀長(とよとみの ひでなが:秀吉の弟)が、成政の処遇にどのように関わったのかは、史料が乏しく詳細は不明です。
秀長は穏健派で調整能力に長けた人物とされますが、この時期の九州国分や一揆の処理において、彼がどのような立場であったか、成政に対して直接的な影響を及ぼしたかは、今後の研究が待たれるところです。
佐々成政とは何だったのか?現代に語りかけるもの
佐々成政の生涯を振り返ると、彼の人物像は一言では語り尽くせない多面性を持っています。
まず、卓越した武勇。
織田信長の親衛隊筆頭として数々の戦功を挙げたことは、疑いようのない事実です。
そして、主君信長にさえ諫言したといわれる一本気で剛直な性格。
これは、時に頑固さや融通の利かなさとして現れたかもしれませんが、彼の武人としての矜持の表れでもあったでしょう。
一方で、不器用さや状況判断の甘さも指摘されます。
「さらさら越え」に象徴されるような、困難な状況を打開しようとする執念は称賛に値するものの、それが必ずしも的確な戦略眼に基づいていたとは言えません。
肥後での統治失敗は、彼の性格的な焦りや、時代の変化についていけなかった悲劇とも言えるでしょう。
しかし、越中富山時代には、常願寺川(じょうがんじがわ)の治水事業に力を入れ、「佐々堤」と呼ばれる堤防を築くなど、領国経営における治績も残しています。
単なる武骨者ではなく、民政にも意を配る一面があったことは記憶されるべきです。
成政にまつわる伝説も、彼の人物像を豊かにしています。
例えば、富山に残る「早百合姫(さゆりひめ)伝説」。
これは、成政が側室の早百合が不義を犯したと疑い、惨殺してしまうものの、後に無実と知り後悔するという悲恋物語です。
また、この伝説に関連して、立山に咲く「黒百合(くろゆり)」の花は、早百合姫の怨念が化したもの、あるいは成政がその恨みを鎮めるために植えたものといった話も伝わっています。
これらの伝説は、史実とは異なる部分も多いでしょうが、成政という人物が、人々の記憶の中でいかにドラマチックに捉えられてきたかを示しています。
佐々成政は、織田信長という絶対的なカリスマの下でその能力を最大限に発揮しましたが、信長の死後、新しい時代を築こうとする豊臣秀吉の巨大な力の前に、翻弄され、そして最後は押し潰されてしまった武将と言えるかもしれません。
彼の生き様は、組織の中で忠誠を尽くすことの意義と難しさ、時代の変化に対応することの重要性、そして時に理想と現実の間で苦悩する人間の姿を、現代の私たちにも問いかけているようです。
まとめ
佐々成政の生涯は、戦国乱世の厳しさと、そこに生きた武将たちの多様な生き様を私たちに教えてくれます。
輝かしい武功を誇りながらも、時代の波に乗り切れず、悲劇的な最期を迎えた彼の物語は、多くの歴史ファンの心を惹きつけてやみません。
その不器用ながらも一途な生き方は、ある種の共感や哀愁を誘うのかもしれません。
佐々成政という武将を通じて、戦国時代という魅力的な時代に、さらに深く分け入ってみてはいかがでしょうか。