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『武田勝頼の最期』度重なる裏切り、凛々しく天目山での自害
甲斐の虎・武田信玄(たけだしんげん)から武田家を引き継いだ武田勝頼(たけだかつより)。
信玄死後も織田信長(おだのぶなが)や徳川家康(とくがわいえやす)と渡り合い、信玄の時代を超えるまでに武田の支配領域を広げました。
一方、長篠の戦いの敗北から織田や徳川の反撃を抑えきれず、最後は家臣の裏切りによって武田家を滅ぼしたのも事実です。
武田家を滅ぼした暗愚のイメージが強い勝頼ですが、その最期に至るまでどのような物語があったのでしょうか。
今回は武田勝頼にスポットを当て、織田・徳川による甲州征伐から、勝頼が天目山で最期を迎えるまでの足取りを解説していきます。
また、裏切った家臣だけではなく、忠義を尽くして運命と共にした人物も非常に興味深いので、合わせてぜひご参考ください。
一門衆の裏切りから始まる武田崩壊
多くの優秀な家臣を配下に置き、領土拡大を進めてきた武田家。
その家臣の中には、武田家との血縁が強い一門衆と呼ばれる有力家臣もいました。
しかし、武田家の崩壊はこの一門衆の離反から一気に加速していきます。
まずは一門衆の離反やその背景、さらに勝頼を不利な状況に追い込んだ事件を解説していきます。
家中に動揺を与えた木曽義昌の離反
天正10年(1582年)2月1日、木曽義昌(きそよしまさ)の離反から武田家の崩壊は始まります。
補足:木曽義昌
義昌は、源平合戦で有名な木曽義仲(きそよしなか)の子孫を自称する「木曽」に根付いた国衆です。
降伏先の武田信玄の娘・真龍院殿を妻に娶り、武田家の一門衆として仕えていました。
そんな義昌が武田家を見限って織田についた背景として、前年に起きた高天神城の落城が関係していると言われています。
高天神城は岡部元信(おかべもとのぶ)が守将としてギリギリまで城を守り、勝頼にも援軍を求めていました。
しかし、当時忙殺されていた勝頼は援軍を送ることができず、結果的に勝頼が高天神城を見捨てたという話が広がってしまいました。
これが原因で武田領の最前線にいる武将は、「いざとなったら勝頼に見捨てられるかもしれない」と疑念を抱き始めます。
織田との最前線で戦っていた義昌も、勝頼への疑念から織田に寝返ったのかもしれませんね。
高天神城の戦いについてもっと知りたい方はこちらもぜひご参考ください。
https://sengokubanashi.net/person/okabemotonobu-takatenjinjo/
浅間山噴火が勝頼に追い打ち
義昌の離反から2週間後、次は浅間山が48年ぶりに噴火するという事件が起きます。
このとき信長は武田を力だけで攻めるのではなく、祈りの力で武田を調伏しようと考えていました。
そこで信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)に武田滅亡を直々に祈祷してもらうようにお願いし、このタイミングで浅間山が噴火しました。
この噴火で世の中の人は正親町天皇の祈りが届いて「天が武田滅ぶべしと言っている!」と思ってしまったのです。
偶然の噴火タイミングだったかもしれませんが、当時は「天道思想」という考え方があり、織田軍の士気は高揚し、武田軍は意気消沈してしまいました。
甲州征伐から追い詰められる武田勝頼
一門衆である義昌の離反や浅間山の噴火は武田家中に大きな衝撃を与え、武田勝頼は義昌討伐のために諏訪へ出陣します。
これを受けて信長も武田への総攻撃である甲州征伐を決定します。
甲州征伐
・駿河から徳川家康
・信濃から信長の嫡男・織田信忠
・飛騨から織田家臣の金森長近
・関東から織田と通じている北条氏政
それでは上記の甲州征伐によって、勝頼が織田や徳川に追い詰められていく流れを解説します。
信長の調略で援軍を送れない上杉
勝頼は甲州征伐に対応するため、同盟相手の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に援軍を要請し、織田との決戦に臨もうとします。
しかし、勝頼の期待に反して景勝は援軍を送ることが出来ませんでした。
このとき景勝は越後の有力な国衆・新発田重家(しばたしげいえ)の謀反に苦しめられていて、送りたくても援軍を送れなかったのです。
ちなみに、重家は織田の調略を受けて謀反を起こしたと言われており、信長の用意周到さが伺えます。
こうして上杉の援軍が来ない勝頼は、たった1人で織田・徳川・北条の総攻撃を迎え撃つことになりました。
織田・徳川の猛攻と梅雪の裏切り
甲州征伐から武田の武将は次々と織田に寝返り、武田領への侵攻が進んでいきます。
2月14日には織田の先発隊が飯田城を制圧し、17日には大島城が陥落して信玄の弟・武田逍遥軒(たけだしょうようけん)が逃亡。
さらに家康が駿府を制圧したタイミングで、徳川との最前線である江尻城を守っていた武田一門衆の穴山梅雪(あなやまばいせつ)も寝返りました。
実は梅雪は数年前から徳川と内通していたと言われており、あらかじめ織田に寝返る準備をしていたのかもしれませんね。
また、梅雪は人質として甲府にいた妻子も無事に回収しています。
智将としてのイメージが強い梅雪ですが、このときは屈強な部下を集めて力づくで妻子を奪い返したそうです。
武田軍は崩壊し勝頼は新府城へ撤退
駿河の要であった梅雪の寝返りから危機感を強めた勝頼は、諏訪から甲斐の新府城に撤退します。
このとき勝頼の兵士は8千人ほどいたそうですが、度重なる離反で1千人にまで減っており、武田軍は織田・徳川との決戦前から崩壊が始まっていました。
戦に強いと言われた勝頼が戦わずに内側から崩れていく様子は、どこか悲しいものがありますよね。
また、抵抗を続けていた高遠城城主で勝頼の弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)は完全に孤立し、織田信忠からの降伏勧告を断って自刃しました。
駿河の田中城を守っていた依田信蕃(よだのぶしげ)は、徳川家家臣・大久保忠世(おおくぼただよ)との友情関係から、徳川に城を明け渡して降伏します。
武田勝頼の岩殿城への逃避行
織田・徳川の攻撃や裏切りでほとんどの味方を失った武田勝頼は、3月3日に新府城を放棄して岩殿城に移ることを決めます。
これは建造途中で十分な防衛戦ができない新府城から、防衛機能のある岩殿城に移ろうと考えた動きです。
ちなみに移動先は、前日の軍議で以下の2候補が上がっていました。
・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の岩殿城
・真田昌幸(さなだまさゆき)の岩櫃城
また、勝頼の息子である武田信勝(たけだのぶかつ)から新府城で自刃する提案もありました。
小山田の岩殿か、真田の岩櫃か
最終的に勝頼の宿老筆頭・跡部勝資(あとべかつすけ)が岩殿城への移動に決定したと言われています。
この理由については、側近の長坂釣閑斎から「小山田家は長く武田家に仕えている一族で信用できるが、真田は昌幸の祖父・真田幸綱(さなだゆきつな)の代から武田家に仕えており、日が浅く信用できない」との意見があって、真田家への移動が却下されたという話が残ってます。
「真田昌幸を信用すれば良かったのでは?」と思う方もいるかもしれませんが、実は昌幸は北条と書状をやり取りして真田家だけでも助かろうとしていたという逸話もあり、どちらにしても勝頼の最期となってしまったかもしれません。。
さすが「表裏比興」と言われた真田昌幸なだけはありますね。
小山田信茂の寝返り
3月5日には織田信忠軍によって諏訪大社が炎上し、3月6日には滝川一益(たきかわかずます)と森長可(もりながよし)の部隊が甲府を占領しました。
諏訪大社は武田家にとって守り神のような存在であり、母が諏訪氏の娘である勝頼にとってもその衝撃は大きいことがわかります。
一方、武田勝頼の一行は3月3日に新府城を出てから、10日になっても岩殿城にたどり着けていません。
実はすでに小山田信茂は織田に寝返ることを決めており、織田軍の到着までの時間稼ぎをしていたのです。
信茂は勝頼に使者を送り、迎えるための準備を進めていることと、先に人質として勝頼の下にいる妻子を渡すように求めます。
勝頼は要求を受け入れざるを得ない状況に置かれており、使者である信茂の従兄弟・小山田八左衛門(おやまだはちざえもん)と仲が良かったこともあって、信茂の妻子を返還。
結果として岩殿城に入る道は封鎖され、入城はかないませんでした。
天目山で最期を迎える武田勝頼
次々と側近が逃亡を始める中、勝頼は天目山(トクサ山とも言われる)に逃げ込んで自害し、37歳の生涯を終えたと言われています。
勝頼の首級は信忠の下へ送られ、家康も甲府で対面したと伝わっています。
記録には残っていませんが、長年のライバルである勝頼の首を見て家康はどんな思いを巡らせていたのでしょうか。
勝頼の忠臣・土屋昌恒
また、勝頼の最期については逸話があり、側近の土屋昌恒(つちやまさつね)が時間を稼ぐために細い崖で1人奮戦し、片手で蔓をつかみながら刀で敵を切り倒した「片手千人切り」という伝説が残っています。
勝頼に対する忠臣ぶりがわかる話ですよね。
勝頼の妻子も最期の時
勝頼の妻・北条夫人は勝頼から実家の北条家に逃げるよう言われましたが、それを拒んで勝頼とともに19歳でその生涯を終えます。
また、息子の信勝も父に従って16歳という若さで一生を終えました。
滅亡後の武田家がどうなったのかを知りたい方はこちらもぜひご参考ください。
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『武田勝頼の最期』まとめ
今回は武田勝頼にスポットを当て、武田家の崩壊からその最期までを解説しました。
信玄死後も勝頼は奮戦して武田家の領土を拡大しますが、織田・徳川の反撃に加え、度重なる家臣の裏切りが追い打ちをかけて武田家は一気に滅亡へと向かいました。
勝頼は強大な武田家を滅亡させてしまったことが注目されますが、時代の流れに抗いながらも奮戦し、最後まで付き従って忠義を尽くした人間がいたのも事実です。
武田勝頼について改めて知ることで、今まで見えて来なかった歴史の一面が見えるかもしれませんね。
武田勝頼の波乱に満ちた前半生を知りたい方は、こちらも合わせてぜひご参考ください。
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