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武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説
織田信長(おだのぶなが)に圧勝した伝説を持った武田信玄(たけだしんげん)。
信長のほかにも多くの武将と合戦をし、歴史に名を刻んだ数は多い人物です。
そんな信玄ですが、実は信玄の死因は戦によるものではなかったといわれています。
では一体どのような最期を迎えたのでしょうか。
今回は信玄の本当の死因や生涯、戦った有名な武将を解説しています。
信玄の残した名言も紹介しているため、座右の銘にしてみても良いでしょう。
信玄の歴史に触れたい方はぜひチェックしてみてください。
武田信玄は病気で最期を迎えたの?
戦国の世に大きな影響を与えた武田信玄ですが、一体何が原因で生涯の終止符を打つことになったのでしょうか。
ここからは信玄の死因や没年、生涯について解説していきます。
武田信玄の「本当の死因」
多くの戦に挑み、戦国の世に名を轟かせた武田信玄ですが、命が途絶えたのは戦の途中ではありませんでした。
信玄の本当の死因は「病気」。
詳しい病名は明かされておらず諸説ありますが、死因は肺結核・胃ガン・肝臓病だったのではないかといわれています。
信玄は自らの息が引き取る前に、「自分の命が途絶えた後は、3年間隠せ」といった言葉を残している話も有名な話です。
これは信玄の死を聞いた周囲からの侵略を防ぐものだったといわれており、命が途絶えてもなお「軍を守りたい」といった思いが感じられます。
武田信玄の没年
没年は1573年(天正元年)。
53歳だった武田信玄は信濃国伊那の駒場で息を引き取りました。
戦に長けており、実力はあの信長に圧勝するほど。病でなければその後も多くの功績を残したでしょう。
いくら大きな力を持っていた武将でも病には勝てず、人生の終止符を打つこととなりました。
武田信玄の生涯
今もなお人気の武田信玄ですが、これまでどのような人生を送っていたのでしょうか。
信玄の伝説は1521年(大永元年)から始まります。
1521年、武田信玄こと太郎は積翠寺にて誕生しました。
信玄は武・学に優れており、神童と呼ばれるほどの賢い人物に成長。
21歳になると父である武田信虎(たけだのぶとら)を追放し、自らが当主となったのも有名な話です。
なお、父を追放したのは以下の2点が理由ではないかといわれています。
父が弟を跡継ぎにしようとしたから
父である信虎が進める争いを止めようとしたから
兄である信玄を跡継ぎにするのは納得がいくものの、本人からすると「なぜ跡継ぎが弟なのだ」と疑問が生まれたのではないかというのが1つの説です。
納得がいかなかった信玄は跡継ぎになろうと父を追放したと考えられます。
また強い力を持っていた信虎が進める争いを止めようとしたのも説の1つです。
戦に疲れた兵を見て、「もう止めさせてあげたい」といった思いから追放したとも考えられるでしょう。
最後の戦い
武田信玄の最後の戦いは1573年(元亀4年)の野田城の戦いでした。
場所は今の愛知県新城市豊島。武田軍と菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が城をかけて行った戦いです。
勝負の末、白旗は武田軍に上がりましたが、その後信玄の病状が悪化。多くの戦で名を馳せた信玄でしたが、野田城の戦いが最後の戦いとなりました。
武田信玄はこちらの動画でも紹介しているので、ご興味のある方はぜひご覧ください!
武田信玄が勝負した有名な武将とは
武田信玄の最期は病によるものではありましたが、倒れる前までは多くの武将と剣を交え、伝説を残していきました。
その中で有名な武将は以下の3人です。
- 上杉謙信
- 織田信長
- 村上義清
中には信玄に冷や汗をかかせた人物や幾度も交戦した人物もいます。
ここからは信玄と勝負した武将3人を見ていきましょう。
上杉謙信
上杉謙信(うえすぎけんしん)は上杉家16代目の当主になった戦国武将で、武田信玄との戦いの記録が多く残されている人物の1人です。
謙信はもともと信玄との交流はありませんでしたが、村上義清(むらかみよしきよ)に助けを求められて後の合戦につながります。
信玄のほかにも、信長とも合戦を行った人物です。
武田信玄と上杉謙信は幾度も戦っていた
村上義清の助けの声を聞き、武田信玄との交戦を決めた謙信ですが、これまでに何度も戦っていた事実があります。
信玄と謙信の主な戦いは以下の5つです。
- 川中島の戦い
- 葛山城攻め
- 利根川の対陣
- 野尻城攻め
- 石倉城攻め
特に川中島の戦いは12年もの間に5度にも渡る長い戦いをしており、信玄と謙信の有名な戦歴ともいえます。
長きに渡った合戦になったことから両者負けず劣らずの実力を持ち、これほどまでに長い合戦になったと考えられるでしょう。
織田信長
信長も徳川家康(とくがわいえやす)と共に、武田信玄と戦ったことで有名な人物です。
信長と家康が信玄と戦ったのは三方ヶ原の戦いでした。
この戦いは信玄の裏切り行為から発展した合戦で、信長・家康軍に圧勝した歴史があります。
病によって戦況が傾いてしまいましたが、病なく戦を続けられていたら、さらに信長・家康軍を攻められたかもしれません。
なぜ織田信長を裏切った?
武田信玄と信長はお互いの子供・孫・養子を婚姻・婚約させるほどの同盟関係にあったものの、なぜ裏切る形になったのでしょうか。
それは家康との対立や信長の比叡山の焼き討ち、謙信との良好な仲が関係しているといわれています。
信玄は仏門に入っていたため、信長によって行われた比叡山の焼き討ちは黙って見ていられません。
それに加え、家康との仲にヒビが入ったことや、信長と謙信の仲を良く思っていなかったことが重なって裏切りに発展したのではないかといわれています。
村上義清
村上義清は信濃の武将で、1501年(文亀元年)に誕生しました。
自身が武田信玄に負けたことで謙信に戦いを頼んだことや、謙信と共に戦った人物として名のある武将です。
信玄にとって義清は大きな壁になったといえる人物で、信玄の歴史に影響を与えた人物でもあります。
何度も武田信玄を破った実力者
義清といえば何度も武田信玄を破ったことで有名な人物です。
連勝中だった信玄を破り、信玄の元にいた人物を多く減らしたのも義清でした。
しかし真田幸隆(さなだゆきたか)が信玄のサポートをしたことで、義清は敗れ悔しい思いをします。
信玄の攻略によって敗れてしまったものの、信玄にとって壁となった人物には変わりないでしょう。
武田信玄が残した名言
武田信玄が残した言葉は座右の銘にしたり、会社経営の教訓にしたりして、今もなお受け継がれています。
信玄が残した名言は以下の2つです。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
どちらの言葉も信玄らしさが感じられる名言です。
ここからは名言と共に意味を確認していきます。
大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
「世の中の流れに身を任せ、自分を見つけ出していく。上辺だけでなく、本音で生きよう。」といった意味が込められている武田信玄の辞世の句です。
多くの戦いに挑み、剣で語ってきた信玄ですが、心の中には何か思いを抱えていたのでしょうか。
または信玄自身が上辺ではなく本音で過ごしており、その楽さを伝えたかったというのも1説として考えられるでしょう。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
「人の力は立派な城を築き出せる」といった意味が込められた武田信玄の言葉です。
信玄は人材育成に力を入れていた人物といわれており、城を組織に見立てて、その周りを人で囲えば立派な城に値するといった意味を持ちます。
1人で突っ走るのではなく、周囲をよく見て組織を作っていたことが感じられる言葉です。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説|まとめ
死因は病気で最期は病には勝てなかったものの、多くの武将と交戦し、歴史に名を刻んできた武田信玄。どの戦いにおいてもストーリーがあり、波乱万丈な人生を送ってきたように感じます。
特に義清との戦いでは信玄の負けず嫌いさが物語っており、戦略を考え抜いて勝ちに導いた戦いになったのではないでしょうか。
だからこそ今も人気のある武将の1人なのかもしれません。