- 戦国BANASHI TOP
- 歴史上の人物の記事一覧
- 『戦国最強』武田信玄|将軍も騙された恐ろしすぎる軍略
『戦国最強』武田信玄|将軍も騙された恐ろしすぎる軍略
NHK大河ドラマ「どうする家康」では阿部寛さんが演じていた武田信玄。
戦国最強、そして戦国最凶とも言われる武将です。
「どうする家康」では桶狭間の戦いからストーリーが始まりましたが、実はまさにこの時期に武田信玄も上杉謙信と戦うなど歴史的にも非常に大きな出来事を起こしています。
その中には最強、そして最凶とも呼ばれる所以となる恐ろしい軍略が潜んでいたのです。
今回は戦国最強の武将と言われる武田信玄の恐ろしすぎる軍略について解説していきます。
あの有名な川中島の戦いの話が中心になっていますので、興味のある方はぜひチェックしてみてください。
目次
最強の軍略その1|武田信虎・信玄親子間での下剋上
武田信玄は甲斐の国(現在の山梨県)を支配する戦国大名ですが、もともとは信玄の父親である武田信虎が甲斐を統一して国を治めていました。
信虎は信玄のことを後継者として育てていましたが、信玄は信虎を追放して力ずくで武田家の当主となりました。
信虎と信玄の関係が不仲だったわけではないようですが、なぜ信玄は父親を追放したのでしょうか。
信虎は周囲の諸大名と対立していたことでしばしば経済封鎖を受けることがあり、これが甲斐国内で連年のように起きていた物価暴騰と飢饉に拍車をかけていました。
甲斐の人々は信虎に対して不満を募らせており、信玄は民による内乱を避けるべく父の追放に動いたと言われています。
父に代わり当主となった信玄でしたが、周囲との戦いはそのまま継続しました。
特に信虎の時から戦っていた信濃国(現在の長野県)へ侵攻することで、北へ北へと勢力を広げていきました。
甲斐国のためであれば実の父親さえも追放してしまう信玄の恐ろしさがここから感じとれますね。
最強の軍略その2|将軍をはめた武田信玄の罠
戦国最強の武将と呼ばれる武田信玄ですが、その最強・最大のライバルと言われているのが上杉謙信ですよね。
武田信玄と上杉謙信が幾度となく刃を交え、一騎打ちで戦ったとされるのが川中島の戦いです。
実際のところは分かりませんが、信玄が自分の軍配で謙信の刀を受けとめたという伝承が残っているほど激しい戦いが行われたとされています。
そんな川中島の戦いの中にも信玄の恐ろしい軍略が潜んでいました。
ここからは川中島の戦いが起きた理由と、その中に潜む信玄の軍略について解説していきます。
川中島の戦いはなぜ起きたのか
信玄が侵攻していた信濃国には村上義清や小笠原長時などの強敵が存在していました。
村上義清は一度、武田信玄の攻撃を防ぎきって撃退したことがあると言われています。
しかし信濃の国衆である真田幸隆の謀略によってあっさりと城を落とされてしまい、信濃から越後国(現在の新潟県)に亡命することになります。
また小笠原長時は室町幕府から正式に信濃国守護として認められていましたが、信玄に負けたことで越後に逃げることとなりました。
追い詰められた2人が頼ったのが越後で力を持っていた長尾景虎、のちの上杉謙信です。
村上義清と小笠原長時は自分たちがもともと持っていた信濃国の領地を奪い返すために上杉謙信を頼り、武田信玄への逆襲を行いました。
これが1553年(天文22年)に起きた第一次川中島の戦いであり、武田信玄と上杉謙信の因縁の始まりだと言われています。
最強の武将同士である武田信玄と上杉謙信がライバルになった理由についてはこちらの記事でも解説しています。
武田信玄と上杉謙信の戦い!二人がライバルになった理由とは!?
将軍・足利義輝の介入
こうして始まった川中島の戦いですが、この武田信玄と上杉謙信の戦いになんと室町幕府第13代将軍足利義輝が介入してきます。
この時期の将軍・義輝は幕府に仕えていた三好長慶によって京都から追放されたことで、近江国に亡命することになっていました。
将軍・義輝が窮地を脱するために頼ったのが越後の上杉謙信でした。
将軍までもが「謙信なら何とかしてくれる」と頼るということは、それだけ上杉謙信が強くて影響力がある武将だったということでしょう。
義輝は謙信に対して京都に上洛するよう要請しますが、この時の謙信は武田信玄との戦いの真っただ中でした。
謙信としては将軍の要請であればすぐにでも助けに行きたいところですが、信玄が越後を攻めてくるので上洛する余裕がありません。
上洛するためには一度武田との戦いを終わらせなければなりませんでした。
武田信玄が将軍に提示した停戦の条件
謙信の状況を理解した将軍・義輝は、武田信玄に対して停戦を命じ、武田と上杉の戦いを調停させることを条件に謙信へ上洛を催促しました。
将軍から停戦を命じられた武田信玄ですが、相手が将軍であろうが一切引けを取らず、それどころか信玄は将軍に対して見返りを求めました。
信玄は将軍に対して、上杉と停戦する代わりに自らを正式に信濃国の守護に任ずるように要求したのです。
もともと信濃国の守護は小笠原長時でしたが、信玄が倒して越後へ亡命したことで信濃守護はしばらく不在の状態でした。
そのため信玄は小笠原長時の後継として正式に信濃国守護に任じてもらえるなら、上杉との戦をやめると条件を出したのです。
追い詰められていた義輝は早く上杉謙信の力を借りて京都に戻りたかったので、仕方なく要求を受け入れて信玄を信濃国守護に任命しました。
将軍を利用した武田信玄
正式に信濃守護に任じられたことで戦いをやめるのかと思いきや、信玄はなんと上杉謙信との戦いを続行しました。
信玄が戦いを継続するなら謙信も自分を頼っている武将を見捨てることはできないため、結局和睦は失敗に終わりました。
なぜ和睦をするという条件で信濃国守護に任命されたにもかかわらず、信玄は戦いを継続したのでしょうか。
これが信玄の最強の武将たる所以とも言えます。
信玄は「信濃国守護に任じられたからには信濃を脅威から守る義務があるため、村上や小笠原などの反武田勢力を倒す必要がある」と主張したのです。
つまり最初から上杉謙信と和睦するつもりなどなく、将軍を利用して信濃侵攻に対する正当性をつけようとしたのでした。
将軍さえも騙してしまおうと目論んでいた信玄は、やはり只者ではない最強の武将と言えますね。
こうして信玄は信濃国守護という正当性を得た上で上杉謙信と戦っていくことになるのです。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ち!第四次川中島の戦い
将軍・義輝による再三の上洛要請があったため、上杉謙信は武田との戦いは継続しているもののついに上洛します。
この上洛によって謙信は正式に越後国主に任じられ、さらに関東を治める権限のある関東管領の後を継ぐことが許されるなどさまざまな特権が与えられました。
無理にでも謙信が上洛した理由としては、これから武田家や関東の北条家と戦っていく中で、武田が信濃国の守護になったように周囲と戦う正当性を得たいという思惑があったのかもしれません。
さすが最強の武将とも言われる武田信玄のライバルですね。
大義名分を得た謙信が信玄を倒すために信濃に侵攻したことで起きたのが、最も激しい戦いだったとされる第四次川中島の戦いです。
総大将の謙信自らが信玄の本陣に突入し、切りかかった謙信の刀を信玄が軍配で受けとめるという有名な一騎打ちのシーンもあったとされています。
この戦いによって信玄は、厚く信頼を寄せていた弟の武田信繁や側近として活躍していた軍師の山本勘助など多くの重臣を失いました。
そしてこの第四次川中島の戦いを機に武田と上杉が直接対決することは金輪際なくなりました。
最強の軍略その3|息子よりも国の利益を取った武田信玄
こうして上杉謙信との戦いが一段落したのですが、武田信玄はまた新たな局面に立たされることになります。
それが今川義元が戦死してどんどん力が弱くなっていた今川家との関係の変化でした。
ここからは桶狭間の戦い後の武田家と今川家の関係の変化と、それによって起きた武田家の親子間の争いについて見ていきます。
今川氏真への疑念
甲斐の武田信玄・相模の北条氏康・駿河の今川義元は、1554年(天文23年)にそれぞれの国への不可侵を誓った三国同盟を結んでいました。
桶狭間の戦いで義元が戦死して今川氏真が家督を継いだ後も、信玄は今川家との同盟関係を維持していく方針を取っていました。
しかし「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」が起きたことによってその考えが変わってしまうのです。
遠州忩劇とは?
今川領の遠江国(現在の静岡県浜松市)で井伊直親や飯尾連龍などの国衆らによる謀反・離反が頻発したこと。
これによって信玄は自国である遠州の国衆さえも治められない今川氏真に対して疑念が生じていきます。
そして氏真への信用を失くした信玄は、駿河制圧を検討し始めました。
甲斐には海がないため、駿河を制圧できたら国が潤うのではないかと考えたのかもしれません。
さらに信玄は織田信長からの誘いがあったことで、織田家との関係をより強固なものにするために婚姻同盟を結びます。
こうして信玄の四男である四郎勝頼と信長の養女が結婚することとなりました。
義信事件の勃発
織田家との関係を良好にするために結んだ婚姻同盟でしたが、信玄の長男である義信にとってそれは裏切り行為でした。
義信の妻は今川家出身であったこともあり、自分の義父である今川義元を殺した信長と手を組んだ信玄に対して義信は反抗します。
一方信玄は頼りにならない氏真よりも織田家と関係を持った方が良いという考えを持っていました。
こうして親子の溝が深まると、義信は今川派の家臣たちとともにクーデターを計画しました。
信玄がかつて父・信虎にしたように、義信も力ずくで信玄を追放して家督を奪い取ろうとしたのです。
しかしこのクーデターは起きる前に情報が漏れたことで失敗に終わりました。
義信の近臣たちは大量に処刑され、義信も寺に幽閉されて数年後に自害します。
義信の死によって武田家と今川家をつないでいた人物がいなくなったことで、両者は完全に手切れとなりました。
こうして信玄はあの手この手を使って自分の領地を拡大していったのです。
その後の信玄の戦いや死因などについてもっと知りたい方は、こちらの記事も確認してみてください。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説
『戦国最強』武田信玄|将軍も騙された恐ろしすぎる軍略|まとめ
上杉謙信の最大のライバルであり戦国最強の武将とも言われる武田信玄。
若き信玄は父親を追放して武力で当主の座を奪い取りました。
その後は将軍を自分の策のために利用し、後継者として期待していた嫡男でさえも自分に歯向かうものなら幽閉して、最終的には自刃させるほど追い込んでまで国の利益を優先させました。
自分の野望のためなら手段を選ばないのが信玄の最強たる秘訣なのかもしれませんね。