- 戦国BANASHI TOP
- 歴史上の人物の記事一覧
- 武田信玄と上杉謙信の戦い!二人がライバルになった理由とは!?
武田信玄と上杉謙信の戦い!二人がライバルになった理由とは!?
戦国最強武将との呼び声高い武田信玄と上杉謙信。
この二人は、川中島の戦いで5度にも渡って死闘を繰り広げている「永遠のライバル」としても有名です。
そんな武田信玄と上杉謙信とはどんな武将だったのか?そして、なぜこの二人が何度も戦うことになったのか?
このテーマについてわかりやすく解説します。
目次
武田信玄が武田家当主になるまで
両雄のうち、まずは武田信玄について解説します。
そもそも信玄の生まれた武田氏とはどのような一族なのか、信玄はどのようにして武田家の当主となったのかを見ていきましょう。
清和源氏の名門・武田氏
武田氏というのは、武家の名門である清和源氏の流れを汲んでいる一族です。
武田信玄の先祖は、源頼朝の鎌倉幕府設立にも協力しており、初代室町幕府将軍・足利尊氏にも仕えていました。
こうして武家の名門として代々甲斐国(現:山梨県)を治めてきたのが武田氏です。
武田氏の没落~上杉禅秀の乱~
そんな武田氏にも力を失っていた時期がありました。
きっかけは室町時代後期に起きた上杉禅秀の乱です。
これは、鎌倉公方(室町幕府の関東統治機関のトップ)である足利持氏に対し、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉禅秀が反乱を起こして敗れた事件です。
この時、武田氏は敗れた上杉禅秀に味方していたため、武田氏はしばらく不遇の時代を過ごすことになります。
武田氏を再興した父・武田信虎
そんな武田氏に、強烈なリーダーシップを発揮して名門を再興に導いた男が現れます。
武田信玄の父・武田信虎です。
彼は北条・今川といった周辺の勢力と幾度も戦を繰り返し、甲斐一国を統一することに成功します。
戦上手な彼は、甲斐一国に飽き足らず、ついには信濃国(現:長野県)にまで勢力を伸ばそうとします。
武田信玄のクーデター
戦いに明け暮れる信虎に対し、徐々に家臣や民の心は離れていきます。
そんな中登場するのが信虎の息子・武田信玄です。
彼はなんと、実の父親である信虎を甲斐国から追放してしまいます。
信玄がクーデターを起こした理由としては、戦を重ねる信虎に家臣の不満が溜まっていた、信虎が信玄の弟・信繁に跡を継がせようとしていた等諸説あります。
武田家第19代当主・武田信玄
ここからは、いよいよ武田信玄が甲斐国を治めるようになってからの話です。
信玄の領国統治や、ライバル・上杉謙信との5度に渡る「川中島の戦い」など、有名なエピソードも交えて解説していきます。
武田信玄の政治(内政・外交)
武田家当主となった武田信玄は、度重なる戦で疲弊した国を豊かにすべく、内政に力を入れていきます。
内政面では、信玄が行った2つの有名な施策があります。
1つ目は治水事業である「信玄堤」です。
これは、川の氾濫を抑えるために川の流れをコントロールする目的で作られたもので、現在でも一部が現存しています。
もう1つが「甲州法度次第」と呼ばれる分国法の制定です。
戦国時代には、戦国大名が自らの領地に特有の法律である分国法を制定する例が存在します。
甲州法度次第には、喧嘩両成敗など、今川氏の分国法「今川仮名目録」からの影響も見て取れます。
特筆すべきは、甲州法度次第の適用対象には信玄自身も含まれており、たとえ信玄であっても法度に違反した場合は処罰されるという点です。
また、外交面では、これまで何度も戦ってきた北条・今川と「甲相駿三国同盟」を結び、甲斐国周辺の敵を減らすことに成功します。
風林火山
皮肉なことに、信玄は追放した父・信虎のやろうとしていた信濃侵攻に着手します。
ここで信玄は、有名な「風林火山」の旗を使います。
「はやきこと風のごとし しずかなること林のごとし しんりゃくすること火のごとし うごかざること山のごとし」を意味する風林火山の旗を掲げた信玄は連戦連勝。
信濃侵攻は順調に進んでいきます。
余談ですが、信濃侵攻の際に滅ぼした諏訪家の姫を信玄が側室として娶って産ませた子が、後に信玄の跡を継ぐ武田勝頼です。
武田信玄を破った男・村上義清
このように勢いに乗る武田信玄を何度も退けた信濃の武将がいます。
それが村上義清です。
村上義清は、上田原の戦いで武田信玄に圧勝。信玄は重臣を何人も失う屈辱的な大敗を喫しました。
信玄は村上義清に何度も退けられますが、真田信繁の祖父である真田幸隆の活躍もあり、最終的にはなんとか攻略することに成功します。
川中島の戦い勃発
武田信玄に敗れた村上義清が頼ったのが、越後国(現:新潟県)の上杉謙信です。
この救援要請に謙信が応えるという形で勃発したのが、戦国最強武将の2人がぶつかった川中島の戦いです。
信玄は、最初から謙信と戦うつもりで信濃に侵攻したわけではなかったのです。
越後の龍・上杉謙信
もう1人の雄・上杉謙信について解説します。
武田信玄と並んで戦国最強との呼び声高い上杉謙信。
川中島の戦いで武田信玄と死闘を繰り広げた終生のライバルですが、彼の生い立ちを見ていくと、意外にも戦国武将になるべくしてなった訳ではなかったのです。
お坊さんになるはずだった長尾景虎
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、鎌倉公方の補佐役・関東管領の上杉氏の家臣にあたる長尾家に誕生しました。
景虎の父・長尾為景は、とても戦が強く、主君である上杉氏よりも力を持つことに成功します。
当時、あちこちで反乱が起きていた越後国を力で抑えようとしていた為景でしたが、ほどなくして死去。景虎の兄にあたる長尾晴景が跡を継ぎます。
晴景は病弱だった上、好戦的な父とは対照的にあまり戦が好きなタイプではなかったため、家臣たちからの求心力を失ってしまいます。
そうして彼らの期待は晴景の弟・景虎に向けられます。
景虎はこの時何をしていたかというと、寺に入って僧侶としての道を歩んでいました。
景虎は仏門に入りながらも戦のことばかり考えていたらしく、その知略はとても評判になっており、家臣たちに担ぎ上げられる形で景虎は長尾家の当主になります。
関東管領・上杉謙信の誕生
当時の関東管領は弱体化しており、北条氏による度重なる攻撃に遭っていました。
北条氏の大名・北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政は、既に戦が強いと評判だった長尾景虎に救援を要請。
景虎は上杉憲政に関東管領の肩書と上杉の名字を与えられ、ここに関東管領・上杉謙信が誕生します。
こうしたイレギュラーな形で上杉氏を継いだ謙信だったので、武田信玄は謙信を関東管領と認めず、「長尾」と呼び続けたという逸話もあります。
川中島の戦い・その後~武田信玄編~
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで何度も激戦を繰り広げることになりますが、明確な勝敗はつかず、両者痛み分けといった形で収束します。
川中島の戦いによって多大な犠牲を払った2人の最強武将は、その後どのような生涯を送ったのでしょうか。
まずは武田信玄と武田家のその後を見てみましょう。
駿河侵攻
武田信玄は、それまでの信濃侵攻から路線を変更し、今川氏の支配する南の駿河国(現:静岡県)へと侵攻を開始します。
今川氏とは、当主の今川義元と前述の甲相駿三国同盟によって良好な関係を築いていましたが、桶狭間の戦いで義元が討死。
子の氏真の代になり今川家は急速に弱体化します。
衰退する今川家を見た信玄は、同盟を反故にして今川領の駿河に侵攻したのです。
義信事件
武田信玄の嫡男、つまり跡継ぎ候補No.1の武田義信は、三国同盟の証として今川家の女性を妻にしていました。
つまり、義信にとって今川家は妻の実家であり、大事な親戚であるため、駿河侵攻には反対の立場でした。
こうして父信玄と対立した末、義信は殺されてしまいます。
嫡男を失った武田家は、本来跡を継ぐ予定ではなかった勝頼が信玄の次の当主になります。
突然の病死・武田家滅亡
駿河侵攻を終えた武田信玄は、今度は西に目を向け、織田信長や徳川家康と戦っていくことになります。
三方ヶ原の戦いでは後に天下をとる徳川家康に大勝しました。
そんな中、信玄は突然病死してしまいます。
武田信玄の急死の原因について、詳しくは以下の記事をご確認ください。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説
勝頼の代になり、長篠の戦いで織田信長に敗北した武田家は滅亡することになります。
武田家の滅亡については以下の記事で詳しく解説しているので、気になる方は是非ご確認ください。
滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた?
川中島の戦い・その後~上杉謙信編~
続いては、川中島の戦いで武田信玄と痛み分けをした上杉謙信のその後を解説します。
謙信も織田氏や北条氏と戦うことになりますが、奇しくもライバル・信玄と似たような最期を迎えてしまいます。
戦国最強武将・上杉謙信の最期と、彼の死後上杉家がどうなったのかを見ていきましょう。
手取川の戦い
川中島の戦い後も、上杉謙信はあちこちで戦うことになります。
織田氏とは一時は同盟関係を築いていましたが、ほどなくして決裂し、手取川の戦いと呼ばれる戦いに発展します。
この戦いでは織田家の猛将・柴田勝家を打ち負かしています。
謙信、急死 御館の乱
戦いに明け暮れる上杉謙信ですが、信玄同様、病により急死してしまいます。
謙信には子がおらず、跡継ぎを定める前に急死してしまったため、上杉家に跡継ぎ争いが勃発します。
謙信の甥の上杉景勝と養子の上杉景虎が争い、最終的に景勝が勝利します。このお家騒動を御館の乱といいます。
この争いにより上杉家は弱体化。謙信の時代の権勢は見る影もなくなってしまいました。
子の勝頼の時代に織田信長に滅ぼされた武田家同様、上杉家も信長に狙われますが、本能寺の変により信長が死去。間一髪で滅亡は避けられました。
上杉家はその後も存続していくことになります。
ただ、一部では、上杉謙信は女性だったのでは?という説があります。詳しくは以下の記事をご確認ください。
上杉謙信は本当は女性だった?女性説の起源や根拠、エピソードまとめ
武田信玄と上杉謙信の戦い!二人がライバルになった理由とは!?│まとめ
織田信長や徳川家康も恐れた戦国最強武将として名高い武田信玄と上杉謙信。
この2人が川中島で5度にも渡って戦い、後に終生のライバルと呼ばれるようになったきっかけは偶然の積み重ねだったようです。
今でも多くの人に愛されるこの両雄ですが、順風満帆に家督を継いだわけではなく、下剋上により苦労して手に入れた当主の座だったんですね。
皮肉にも、武田家・上杉家ともに、絶対的カリスマの急死という形で滅亡・または弱体化に陥ることになりました。
▼主な参考文献