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徳川家康の死因は戦ではなく胃がん?鯛の天ぷらを食べすぎた説も調査
徳川家康は1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、同年「武家諸法度」で諸大名を統制、以降264年も続く江戸時代すなわち徳川家による日本全土の支配を実現した人物です。
しかしそのときすでに家康は高齢で、翌年に亡くなっています。
では、家康はどのように生涯を過ごし、亡くなったのでしょうか。
戦国の世を生きた人物ですので戦が原因で亡くなったかというとそうではないのです。
徳川家康の死因は胃がんや鯛の天ぷらを食べ過ぎたためなど、様々な説があります。
当記事では、徳川家康の死因の真相や亡くなった場所、そして家康の生涯を振り返ります。
徳川家康の死因は?
徳川家康の死因は胃がんとも鯛の天ぷらを食べ過ぎたためとも言われています。
晩年の病状や天ぷらを食べたタイミングなどから真相に迫ります。
徳川家康の死因|①胃がん
江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』には家康の晩年の病状が書かれています。
家康の病状は「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書かれています。
家康のこの病状が胃がん患者に多く見られる症状であることから、家康の死因は胃がんであったとされています。
2代目将軍の秀忠も家康の孫にあたる水戸光圀も、消化器系のがんが原因で死去しています。
徳川家はがん家系だったのかもしれませんね。
徳川家康の死因|②天ぷらを食べ過ぎた
家康は鯛の天ぷらを食べ過ぎて食中毒で亡くなったとする説が長く信じられてきました。
調査したところ、京で評判になっている新しい料理があると紹介され、現在の静岡県藤枝市にある田中城で食べています。
家康が鯛の天ぷらを食べたのが1月21日の夕食で、亡くなったのが4月17日でした。
鯛の天ぷらを食べた日から亡くなった日までの間に約3か月もの日数があるのです。
仮に死因が食中毒であるとすると、これほどの日数がかかっているのには無理があります。
このため、現在では家康が鯛の天ぷらを食べたことと亡くなったことの直接の因果関係はないと考えられています。
健康に人一倍気を使っていた家康
家康は健康に人一倍気を使っていました。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康の句として有名ですね。
家康は少しでも長く生きて天下を取る機会を待とうとしたと言われています。
現代風に言えば過ぎた健康オタクだったわけです。
そして大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたのが74歳の時でした。
健康に人一倍気を使い、長生きできたからこそ実現できた天下取りだったと言えます。
家康は当時としては長寿の75歳まで生きました。
徳川家康の死因|③関ケ原の戦いですでに死亡していた
家康は関ケ原の戦いですでに死亡していたという説もあります。
そしてのちに江戸幕府を開いたのは家康ではなく入れ替わった別人であり家康の影武者であったとするいわゆる「影武者説」です。
しかし、影武者説については歴史的史料を用いる際の正当性・妥当性に欠け史料批判の誤りが多くあることから否定的な見解が多いようです。
徳川家康が亡くなった場所は?
家康は1615年4月17日、駿府城で75歳で亡くなっています。
駿府は家康が19歳まで生活した場所で、のち江戸城に入ったりと変化がありましたが、晩年には駿府を「大御所政治」の拠点の地と定め、駿府城に戻ってきます。
駿府城は現在の静岡県静岡市にあり、今は駿府城公園として公開されています。
『徳川実紀』によると家康は辞世の句として以下の2首を詠んでいます。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
徳川家康は何歳まで生きた?家康の生涯を振り返る
家康の生涯を振り返ってみます。
生涯 | 出来事 |
---|---|
1542年(1歳) | 岡崎城主松平弘忠の嫡男として岡崎城で生まれる |
1549年(8歳) | 父親の広忠が暗殺される |
1557年(16歳) | 関口義広の娘である築山殿と結婚する |
1560年(19歳) | 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元に勝利 |
1566年(25歳) | 三河国を統一 |
1575年(34歳) | 織田信長と連合して長篠の戦いで武田勝頼を討ち取る |
1582年(41歳) | 本能寺の変で信長が自害する |
1600年(59歳) | 関ヶ原で石田三成ら西軍を討ち取る |
1603年(62歳) | 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く |
1607年(66歳) | 駿府城を築く |
1616年(75歳) | 4月17日に駿府城で亡くなる |
家康は1542年12月26日に、岡崎城主松平弘忠の嫡男として岡崎城で生まれました。母親は水野忠正の娘・大子、家康の幼名は「竹千代(たけちよ)」でした。
しかし松平氏と水野氏の関係が敵対性を持つようになったため大子は離縁され、家康は3歳で母親と生き別れになります。
家康は数え6歳の時、松平氏と敵対する織田氏に捉えられ、人質として2年間尾張国で過ごします。
その後人質交換で解放されますが、岡崎城ではなく駿府に行くことになります。
1555年に家康は元服し、1558年には初陣の戦を経験、1560年には桶狭間の戦いで先鋒を任されました。
1561年には家康は織田信長と同盟を結び、1566年までには三河国を統一、信長の死後は信長の後を継ぐ豊臣秀吉の家臣となります。
1590年の北条氏の降伏後、豊臣秀吉は関東の安定のため、家康を関東に移封し、江戸城を本拠地とすることになります。
1600年の関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍が完勝、西軍を率いていた石田三成は捉えられ、処刑されました。
徳川家康と石田三成について詳しく解説している記事もございますので、合わせてご覧ください。
徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較
このとき西軍のものであった領地は東軍諸将に分配され、家康は400万石になる一方、豊臣氏は65万石で家康は天下人、豊臣氏は一大名という状態になりました。
1605年に家康は将軍の職を嫡男秀忠に継がせ、1607年には駿府城に移り「大御所政治」を始めます。
その後も家康にとって豊臣氏は脅威でしたが、1614年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼしました。
そして1615年に「武家諸法度」を制定し諸大名を統制、ついに家康は日本全土の支配を実現しましたが、翌1616年に駿府城で亡くなっています。
家康は健康に人一倍気を使い、ついには日本全土の支配を実現、当時としては長寿とされる75歳まで生きています。
徳川家康の死因は戦ではなく胃がん?鯛の天ぷらを食べすぎた説も調査|まとめ
日本全土の支配を手中にし264年も続く江戸時代を築いた徳川家康ですが、その生涯は人質になったり家臣になったり移封させられたりとなかなかに波乱万丈だったと言えるのではないでしょうか。
それでも最後に天下人となれたのは、健康に人一倍気を使い、戦乱の世の中で当時としては長寿の75歳まで生きぬき、好機を待つ姿勢が功を奏したわけです。
そして家康の死因は胃がんで亡くなった説が最も有力だと考えられています。
健康オタクだった家康ですので、未然に防げる病気には対処できても、がん家系であったことと体の衰えからはさすがに逃れられなかったということなのでしょう。
▼主な参考文献