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鳥居強右衛門は実在したのか?「逆さ磔」にされた話は本当?
歴史好き・戦国時代好きの間で人気のある鳥居強右衛門。
大河ドラマ『どうする家康』では岡崎体育さんが演じたことで話題です。
しかし鳥居強右衛門は、実は一次史料には登場しない架空の存在なのではとも言われている人物なのです。
鳥居強右衛門は本当に実在したのでしょうか。
また「逆さ磔」にされたという有名な逸話は本当なのでしょうか。
今回の記事では、鳥居強右衛門について確認される資料に基づき、どのように言い伝えられてきたのか、本当に実在したのか徹底的に解説します。
目次
鳥居強右衛門はどんな人?
1575年(天正3年)の長篠の戦いで活躍したと伝わる鳥居強右衛門。
強右衛門は、奥三河の作手という地域の奥平氏の家臣でした。
作手・奥平氏に仕える家臣
奥平氏はもともと今川家に仕えていた国衆で、1564年に家康が三河を平定した際、松平家(のちの徳川家)に従属しました。
しかし1572年には武田信玄の調略を受け武田家に従属、三方原の戦いでは武田方として参戦していました。
ところが翌年信玄亡き後、家康の調略を受け家中が分裂。
家康の娘・亀姫が奥平信昌に嫁ぐという約束で、再び徳川家に従属したのが奥平家です。
鳥居強右衛門は、このような境目の国衆である奥平家に仕える農民か足軽だったのではないかと言われています。
長篠城での攻防
織田信長・徳川家康連合軍と武田連合軍との攻防が繰り返されていた1575年(天正3年)、三河国長篠城をめぐり合戦が起きました。
世にいう長篠の戦いです。
こちらではその経過と、鳥居強右衛門の活躍を解説します。
長篠城への籠城指示
織田・徳川連合軍と武田軍の攻防の続く中、家康は信長より最前線の長篠城への籠城の指示を受けます。
そこで家康が長篠城を任せたのが奥平信昌です。
家康は信昌と娘の婚姻を約束していたので、信頼できる身内として最前線を任せる決断をしたのでしょう。
長篠城の状況
この時の長篠城はもともと武田軍が抑えていたものの、家康が直前に攻略をした城でした。
この攻略の際、城がほとんど焼け落ちてしまったため防備はかなり薄く、城兵は200人程度しかいなかったと言われています。
しかし信長・家康軍は鉄砲200丁を装備し、兵糧米を入れ、なんとか長篠が持ち堪えられるよう準備をしていたようです。
対する武田勝頼軍は2万人とも言われており、長篠城は多くの鉄砲を装備しているとはいえ、たった200人の兵で2万人の攻撃に耐えていたということになります。
鳥居強右衛門伝説
流石にこのままでは落城してしまうと危惧した奥平信昌は、家臣たちに岡崎の家康のところへ援軍を要請してきて欲しいと言いました。
そこで名乗り出たのが鳥居強右衛門です。
強右衛門は辞世の句を読み、2万人の武田軍を潜り抜け、単身岡崎へ向かいました。
往復135kmを丸2日で走り切る
丸一日かけて岡崎に到着した強右衛門は、家康に援軍を要請します。
そして岡崎で休んでいくように言った家康の言葉を断り、またすぐ長篠へ戻ったと言われています。
岡崎から長篠までの距離は往復135キロといわれ、当時の舗装されていない道を強右衛門はわらじでひたすら走ったということになります。
険しい道のりを無事に長篠まで走り切った強右衛門ですが、長篠城に入る直前に武田軍に見つかり、捕らえられてしまいました。
「援軍はくる!」命を懸けて自軍を鼓舞
強右衛門は勝頼たちの尋問に、自分が援軍要請の使者であること、もうすぐ援軍が来ることを話しました。
その正直に堂々と話す様子に感心した勝頼は、強右衛門を召し抱える提案をし、強右衛門も了承しました。
そして、勝頼は強右衛門の最初の働きとして、「援軍は来ない」・「城を開け放て」と長篠城に向かって嘘をつくよう指示を出しました。
一度は承諾した強右衛門ですが、土壇場で約束を破り、「援軍は来る、家康様と信長様はこちらに向かっている、あと少しの辛抱だから頑張れ!」と長篠城の城兵たちを鼓舞したそうです。
城兵たちは戦意を高め、信長や家康が来るまで長篠城を守り切ることができたと伝わっています。
鳥居強右衛門の忠義の死
勝頼の怒りを買ってしまった強右衛門は、その場で殺されたとも、自ら死を望んだとも言われています。
いずれにしても使者の役割を果たし、死亡したと伝わります。
もしここで強右衛門が勝頼の指示通りに嘘をついていたら、長篠城は持ち堪えきれず、長篠の戦の歴史が大きく変わっていたかもしれません。
歴史の転換点を作ったという点で、鳥居強右衛門は立派だと後世に語り継がれています。
また、勝頼を前にしながらも「援軍は来るぞ!」と欺いたことも、素晴らしい忠義だといわれ忠臣として非常に人気のある人物です。
鳥居強右衛門は実在したのか?
鳥居強右衛門は一次史料にない人物のため、存在を疑問視する声があるのも事実です。
「援軍は来る!」と敵軍を欺き、長篠城を救ったというドラマチックなエピソードも本当にあったかどうかはわかりません。
しかし強右衛門についての史料や絵図が戦国時代に近い時代に残されていることからも、強右衛門は実在していたとみて間違いはないのではないでしょうか。
鳥居強右衛門の言及が確認されている資料について詳しく解説していきます。
鳥居強右衛門伝説の出所
鳥居強右衛門伝説の元になっているストーリーは、『甫庵信長記』・『三河物語』に書かれています。
どちらも強右衛門と同じ戦国時代を生きた人が書いているものなので、この話は全く根も葉もない噂ではないのではと考えられます。
また、この2作以前に成立した『権現様一代記』という史料にも、強右衛門は登場するようです。
2代目鳥居強右衛門は関ヶ原の戦いで活躍
さらに、強右衛門には2代目鳥居強右衛門という後継ぎがいます。
初代強右衛門の死後、2代目強右衛門は100石の領地を賜り、武士の身分となりました。
1600年の関ヶ原の戦いの際には、戦いの首謀者である安国寺恵瓊を捕縛したという手柄も伝わっています。
また、奥平家に嫁いだ家康の娘・亀姫は子である奥平忠明へ、2代目鳥居強右衛門を重用するよう申し付けたとも伝わっています。
2代目がいるということは、初代もいると考えて間違い無いでしょう。
落合佐平次旗指物
鳥居強右衛門が長篠城の城兵たちを鼓舞したとき、磔にされていたという説があります。
磔にされながらも城兵たちを励ます強右衛門をみて感動した落合佐平次が、その時の様子を自分の戦に行く時の旗差し物に書かせたと伝わっています。
この旗指物は代々落合家が使用しており、大坂の陣で使ったと思われる旗も残っています。
「逆さ磔」にされた話は本当?
鳥居強右衛門は武田軍に捕らえられた際、「逆さ磔」にされていたという説があります。
しかし「逆さ磔」にされたという話は、現在は否定されています。
なぜ「逆さ磔」と言われるようになったのかを解説します。
逆さ磔説の出所
落合佐平次旗指物の絵図は、実は頭が下の「逆さ磔」の絵図だったという説があります。
この説は旗が収められていた箱に、『鳥居強右衛門逆磔図』と書かれていたため出てきたのではないかと考えられています。
他にも『南紀徳川史』にも、強右衛門は逆さ磔にされたという伝承があるそうです。
実際箱に書かれ、史料にもあるため、強右衛門は逆さ磔にされたのではという説が流布したようです。
また、旗にかかれた絵図にリアリティがあると言った方もいるようです。
旗をよく見ると髪の毛や体の毛が逆立つように描かれており、手の先が上向きになっている点から、実は逆さ磔の絵図だったんだと言ったようです。
しかしこの説は、旗の棒を指す「袋乳」の位置が逆さ磔の図になる向きではなかったため否定されています。
鳥居強右衛門は実在したのか?「逆さ磔」にされた話は本当?|まとめ
長篠の戦いの武勇伝で人気になった鳥居強右衛門。
大河ドラマ『どうする家康』でも岡崎体育さんによって非常にドラマチックに描かれました。
一次史料にないため、彼の実在を疑問視する声があるのも事実です。
しかし近しい時代の史料や絵図が残されていることから、鳥居強右衛門は実在したといって間違い無いでしょう。
また、「逆さ磔」にされたという説は否定されていますが、壮絶な最期を遂げた、後世に名を残す立派な武人であったことに違いはないのではないでしょうか。
▼主な参考文献