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徳川家康の次男・結城秀康はなぜ2代目将軍になれなかったのか?
徳川家康の次男であり、江戸幕府2代目将軍・徳川秀忠の兄でもある結城秀康。
文武に秀でた才能を持っていながらも2代目将軍になることができなかった人物です。
なぜ結城秀康は将軍になることができなかったのでしょうか。
通説では秀康の母親の身分が低かったからだと言われていますが、実は秀康の生涯を追ってみると母親の身分は関係ないことが分かります。
今回は結城秀康の生涯を追いながら、秀康がなぜ将軍になれなかったのかについて解説していきます。
結城秀康について興味がある方はぜひチェックしてみてください。
目次
不遇な幼少時代を送った結城秀康
幼少期は、不遇な扱いを受けていたと言われている結城秀康。
まずは結城秀康がどのような幼少期を送っていたのかについて見ていきましょう。
結城秀康の母親
結城秀康の母親はお万の方という女性で、三河にあった神社の神主の子として生まれた人物です。
お万の方に関する資料は乏しく、詳しいことは分かっていませんが、徳川家康の正室である築山殿の侍女として仕えていたと言われています。
家康の目に留まったお万の方は家康との間にお義伊(後の秀康)という男児を授かりますが、このことは徳川家では歓迎されませんでした。
当時、当主がどの側室と子どもを作るかを決める権限は正妻にあり、正妻が認めた相手との子どもだけが一族の正式な一員として認められていました。
お義伊は築山殿の許可を得られることなく生まれた子どもだったため、築山殿は激怒してお万の方を処罰したとも言われています。
お義伊は父親である家康とも簡単に会うことはできず、幼年期は不遇な扱いを受けていました。
豊臣秀吉の養子となった少年時代
お義伊の状況が急転したのが、1584年(天正12年)に起きた小牧長久手の戦い後です。
豊臣秀吉と対立した徳川家康でしたが、最終的には秀吉の条件をのんで和睦することになります。
その和睦の条件として、お義伊は秀吉のもとに人質として送られました。
幼年時代は家康の子として認められずに冷遇されていたお義伊でしたが、成長したら今度は政治の道具として秀吉のもとに送られることになります。
お義伊は秀吉の養子となり、秀吉の名前をもらって秀康と名乗るようになりました。
その時に秀吉が書いた公式な文書の中では、秀康は「家康嫡子」と書かれており、元服した後も「徳川三河守」と書かれています。
つまり秀吉のもとに人質として行った時点では、秀康は家康の後継ぎとして見られていた可能性が高いことが分かります。
豊臣秀吉の養子に行った時点では、秀康が徳川家康の嫡子とされていたことが分かると、母親の身分が低いという理由で生まれた時から徳川家の後継ぎとして認められていなかったという説には疑問が生じてきますね。
小牧長久手の戦いについてはこちらの記事でも解説しています。
『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説
結城家の養子となった秀康
こうして豊臣秀吉の養子となった秀康でしたが、さらに彼の立場を複雑にしてしまう出来事が起こります。
それは結城家への養子入りでした。
ここからはどのような経緯で秀康が結城家の当主となったのかについて解説します。
結城家とは?
結城家はもともと鎌倉幕府の御家人だった結城朝光を祖とする一族です。
朝光は容姿端麗であり弁がたつことで有名で、源頼朝からも信頼されていたため鎌倉幕府下で出世していった武将です。
結城家とは鎌倉幕府から代々続く関東の名門大名でした。
政治的な思惑のもと結城家の当主になった秀康
1590年(天正18年)に豊臣秀吉が北条氏を攻撃した小田原合戦によって北条氏が滅びた後、その時の結城家当主であった結城晴朝は、秀吉の一族を養子として迎え入れることを望みました。
秀吉にはちょうどその頃、側室である淀君との間に鶴松という男児が誕生していました。
秀吉は将来的には鶴松に家督を譲ろうと考えていたため、その時秀吉のもとにいたたくさんの養子を整理したいという気持ちがあったようです。
さらにその頃の徳川家康は領地替えで関東に転封していますが、見知らぬ土地を治めることに困難を抱いていました。
そのため家康は、実子である秀康が関東の名門である結城家の当主となって結城家との関係性を築くことで、結城ブランドを利用して関東の支配を強化できるのではないかと考えます。
結城・豊臣・徳川の考えが合致したことで、秀康はまたも政治の駒として結城家に養子入りすることとなりました。
そして秀康はすぐに結城晴朝から家督を継いで、結城10万石を治める大名となったのです。
こうして一国を治める主となった結城秀康でしたが、石高10万石というのは家康の家臣たちとあまり変わらず、一大名にしては少ないものでした。
徳川家康の息子で豊臣秀吉の養子でもあり、結城家の当主でもあった秀康でしたが、その扱いは独立した大名とは言いにくいものだったとされています。
大名となっても複雑な立場にあった結城秀康
結城家の当主となった結城秀康でしたが、その立場は非常に複雑なものでした。
ここからは、秀康が結城家の大名となった後にどのような立場に置かれていたのかについて見ていきましょう。
結城秀康は羽柴家一門から抜けていなかった?
豊臣政権下では、羽柴結城少将と呼ばれていた結城秀康。
少将というのは当時秀康がついていた左近衛権少将という官職のことです。
名字は羽柴結城ということで、秀康の名字には豊臣秀吉の名字であった羽柴がついていました。
つまり秀康は羽柴一門という扱いを受けながら、結城家の家督を継いでいたことになります。
徳川家康からの軍事命令も受ける結城秀康
秀康が結城家を継いだ年、東北では東北最大規模と言われる葛西大崎一揆が勃発します。
葛西大崎一揆とは?
小田原征伐に協力しなかった葛西晴信・大崎義隆の領地を豊臣秀吉が没収し、新たに領主となった秀吉の家臣の木村吉清・清久父子に対して、葛西氏・大崎氏の旧臣らが反発して起こした一揆のこと。
この一揆の討伐に秀康も出陣するのですが、その出陣要請をしたのが徳川家康でした。
一揆の前線で戦っていた蒲生氏郷と伊達政宗から援軍要請を受けた家康は、秀康に対して出陣するように要請したのです。
つまり結城秀康は羽柴家一門であり結城家の後継ぎでもありながら、軍事的には家康の要請も受けていたことになります。
このようにあらゆるところに属していた秀康は、非常に複雑な立場に置かれていたことが分かりますね。
結城秀康は五大老の候補に挙がっていた?
豊臣秀吉の死後、嫡男である豊臣秀頼が政権運営をするまでの間、代行して政務にあたった五大老と呼ばれる大名らがいました。
その大名とは、徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家です。
この中に結城秀康を入れて六大老にするという話もあったと言われています。
家康が自分の派閥を拡大するために秀康をねじ込もうとしていたのかもしれませんが、秀康自身が大名として評価されていた可能性もありますね。
また、秀吉の死後に福島正則や加藤清正から攻撃された石田三成が、政務を辞職して自分の領地に戻ろうとするのですが、その時に護衛を務めたのが秀康だったという話もあります。
秀康は秀吉の養子だったことで、秀吉のもとで古くから仕えている家臣に対してそれだけ顔が利く人物だったのでしょう。
関ヶ原の戦いでの活躍
1600年(慶長5年)に起きた天下分け目の戦いとも言われる関ヶ原の戦いでは、結城秀康は徳川方として出陣しますが、本戦には参加していませんでした。
そもそも関ヶ原の戦いは、徳川家康が上杉景勝を討伐するために会津に向かって出陣した際に石田三成が挙兵したことで家康がきびすを返し、関ヶ原で激突した戦いでした。
秀康も最初は上杉討伐に参加していたため、関ヶ原の戦いが起きた後も上杉景勝を見張るように家康から説得され、関東に残ることになったのです。
関東にいる武将には伊達政宗や佐竹義宣がいましたが、家康は両者を信用できなかったため、上杉の抑止力になれるのは秀康しかいませんでした。
また、関ヶ原の戦いは豊臣政権下での勢力争いという側面も持っていたため、秀吉の養子であった秀康が関東に残って目を光らせることで、家康は秀吉の遺志を継いで戦っているという大義名分をを示すことができるという理由もあったのかもしれません。
こうして秀康は見事に上杉を抑えるという役目を果たし、武将としての器量と統率力を発揮したのです。
関ヶ原の戦いで活躍した名将2人を比較した記事もございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較
なぜ結城秀康は2代目総軍になれなかったのか?
関ヶ原の戦いでは本戦には出陣しなかったものの、見事に徳川家康の期待に応えた結城秀康。
しかし、家康の後継者として江戸幕府2代目将軍になることはありませんでした。
ここからは関ヶ原の戦い後の結城秀康を追いながら、なぜ秀康が将軍になれなかったのかについて解説します。
越前藩主となった結城秀康
関ヶ原の戦い後、秀康は越前国(後の福井県)68万石の大名となりました。
10万石から68万石となる大出世ではありましたが、地方に転封することになります。
また嫡男である松平忠直が松平姓を名乗ったことから、越前松平家の祖は結城秀康だと言われています。
結城秀康が2代目将軍になれなかったのは状況的に仕方がなかった?
武功を挙げたにも関わらず、なぜ結城秀康は家康の後継ぎとして将軍になることができなかったのでしょうか。
1つの理由として、「状況的に仕方がなかったから」だと考えられます。
徳川家康の側近である本多正信は、将軍の素質があるとして秀康の方を後継ぎに推薦したと言われています。
それでも秀康が将軍になれなかったのは、能力や母親の身分は関係なく、ただ2代目将軍の適任者が秀忠だったのではないでしょうか。
もともと秀康は家康の嫡男という扱いを受けていましたが、それは豊臣政権下におけることでした。
豊臣秀吉がいなくなって関ヶ原の戦いによって家康が天下を取ったのですから、家康の基盤をそのまま引き継ぐことができる人材の方が家康にとって都合がよかったのではないかと考えられます。
つまりそれはずっと家康のそばにいた人物で、それが秀忠だったのです。
秀康は幼い頃から秀吉の養子に行き、その後も結城家を継いだりと家康から離れていた期間が長く、徳川家に代々仕える家臣との関係性も稀薄でした。
その秀康が急に徳川家を継ぐとなっても上手く機能しないでしょう。
幼い頃から家康のそばにいて譜代の家臣たちからも囲まれていた秀忠が後を継いだ方が、政権の移譲もスムーズにいくのではないかと家康は考えたのではないでしょうか。
秀康がこれまで置かれてきた複雑な立場が、徳川家の後を継ぐことを難しくしたのかもしれません。
徳川家康の次男・結城秀康はなぜ2代目将軍になれなかったのか?|まとめ
徳川家康の次男でありながらも、将軍になることはできなかった結城秀康。
その理由として、通説では母親の身分が低かったからだと言われていましたが、幼い頃から政治の駒として複雑な立場に置かれていたことが大きな要因なのではないかと考えられます。
家康は2代目に権力を移譲することに非常に力を入れていたため、秀忠の指南役として長年家康に仕えていた本多正信を任命しています。
つまり家康の側で家康のやり方をずっと見ていた人物として、家康にとっては秀忠こそ2代目将軍に最適だったのでしょう。
もし豊臣政権下が長く続いていて、結城家に養子入りするという話もなければ秀康は徳川三河守として徳川家を継いでいたかもしれませんね。