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なぜ?家康が『松平』から『徳川』に苗字を改姓した理由
江戸幕府を開き、長く続く泰平の世の礎を築いた徳川家康。
家康の姓は一般的に『徳川』が広く認識されていますが、元々の苗字は生家の『松平』でした。
家康はなぜ代々受け継がれている『松平』から『徳川』に改姓したのでしょうか。
そこには青年期の家康の政治的な思惑と苦労がありました。
今回の記事では、家康がなぜ『松平』から『徳川』に苗字を改姓したのか、改姓に至るまでの道のりを含めて解説していきます。
改姓に至るまでの松平家康の背景
家康が『松平』から『徳川』に改姓したのは、永禄9年・家康が25歳の時です。
この時に家康は苗字を変えると同時に本姓を『源氏』から『藤原氏』に改めました。
現代の感覚では本姓と言ってもピンとこないかもしれませんが、当時の武将は本性と苗字で2つの苗字を持っていたのです。
ではなぜ家康は2つの苗字を変える必要があったのでしょうか。
ここからは改姓に至るまでの松平家康の当時の立場について解説していきます。
三河平定と家康の立場
桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にして以降、一向一揆などで情勢が不安定だった三河を家康は永禄9年に平定しました。
しかし、平定したといっても力で抵抗勢力を抑えて成し遂げたものです。
この時点では、家康に三河の主としての公的な正当性はありませんでした。
主としての正当性がなければ、民衆の不安や抵抗勢力の台頭などが再び引き起こされる可能性があったのです。
正式な統治者となるべく三河守任官へ
家康が三河の主として公認してもらうには、さらに上の立場の人からの承認が必要でした。
そのため家康は、朝廷が任じる三河守という役職を望みます。
家康は三河守になることで、正当性のある支配者として国を落ち着かせようとしたのです。
『松平』から『徳川』に改姓するきっかけとは?
家康は三河守になるために動き出しますが、そのハードルは低くありませんでした。
ここからは家康が三河守になるための動きと、なぜ改姓することにとなったのかについて解説していきます。
関白・近衛前久に依頼
家康は三河守になるために関白・近衛前久に斡旋を依頼しました。
当時の家康からすると関白の近衛前久は雲の上のような存在ですが、家康は三河岡崎の出身で朝廷と繋がりを持っている誓願寺住職の泰翁(たいおう)に頼んで、泰翁から近衛前久に家康を三河守に推挙するよう依頼しています。
本来武士が官職を授かるためには、室町幕府の将軍に願い出て、将軍から朝廷に依頼するというのが通常の流れでした。
しかし、家康が三河守になろうとした時は、永禄の変で13代将軍・足利義輝が殺されて将軍不在となっている時でした。
そのため家康は泰翁に依頼して、朝廷に話を持っていったのです。
正親町天皇が示した難色
家康の三河守任官は正親町天皇にまで上がりますが、正親町天皇はこの話に難色を示します。
なぜ正親町天皇は難色を示したのか、理由は『松平』の出自です。
三河守は本来貴族がなる官職ですが、松平氏は出自がよくわからない地方の豪族であったため、正親町天皇は家康の三河守任官を許可しませんでした。
こうした経緯があり、家康は『松平』から『徳川』への改姓へと踏み切ります。
三河守任官への道
家康は三河守になるために『松平』から『徳川』に改姓しようとしますが、そのためには『徳川』に繋がる家系を示す必要がありました。
ここからは家康の家系と家康がどのようにして『徳川』になったのかを説明していきます。
源氏に繋がる先祖・世良田親氏
松平家には源氏に繋がる先祖・世良田親氏がいることを家康は主張しました。
親氏は松平信重の婿養子として松平家に入りましたが、家康はこの親氏の子孫ということになります。
親氏は源氏の流れを汲む、新田義貞でも有名な新田氏の末裔とされています。
真偽のほどははっきりとわからないものの、親氏は新田義重の子孫と言われており、家康の祖父・清康も一時は親氏の旧姓である世良田を名乗っていたことがありました。
この世良田氏は得川(とくがわ)氏の分家であり、得川氏は新田氏に繋がる家系です。
家康は苦し紛れではありますが、自分が源氏庶流新田氏の分家・得川氏に繋がる者であることをアピールしました。
起死回生の一手、藤原氏・得川家
得川氏の庶流であることを主張した家康ですが、それでも三河守任官の許可はおりませんでした。
そもそも得川氏自体が新田氏の分家であり、得川氏からどこかの国司や貴族を輩出した前例もないため、三河守としてふさわしくないと判断されたのです。
しかし、近衛前久はじめ貴族達が記録を探したところ、万里小路家という貴族の家から得川家の分家から『藤原氏』になった一族がいるという記録が見つかり、得川の名前で貴族になった人物がいるということがわかりました。
『藤原氏』の得川家となれば、家康も三河守になれるかもしれないということで、家康は『藤原の得川家康』と名乗ることにします。
かなり強引ではありますが、結果的に家康はこれで念願の三河守になることができました。
なお、家康は征夷大将軍になる時に本姓を『源氏』に戻しております。やはり自分は源氏の人間であり、鎌倉幕府や室町幕府のように源氏の人間が幕府を開くことに拘りがあったのかもしれません。
徳川なのか?得川なのか?それとも松平?
松平氏の先祖にいるのは『得川』ですが、家康が名乗っているのは『徳川』です。
『得川』を『徳川』に変えたのは家康本人で、その理由は定かではありませんが、『徳』という字に何か思うところがあったと推測されます。
実際に貴族達の記録では『得川』としばらく記載されておりますが、家康が出世していくに従って、『徳川』が浸透していったようです。
ちなみに室町幕府15代将軍・足利義昭は、家康が『徳川』を名乗ってからも書状などで『松平』と呼んでいました。
通常、武士が官職に任官されるためには室町幕府を通さなければいけなく、将軍の許可を得ずに三河守になった家康のことを、義昭は快く思っていませんでした。
また、義昭は自身の抵抗勢力と通じている近衛前久と折り合いが悪く、近衛前久を通して三河守になったことも家康を認めたくない一因だったようです。
しかし、義昭と織田信長の関係が悪化すると、義昭は少しでも自分の仲間を増やすために家康のことを『徳川』と呼ぶようになりました。
なぜ?家康が『松平』から『徳川』に苗字を改姓した理由|まとめ
三河平定に始まり、紆余曲折を経て『松平』から『徳川』に苗字を改姓した家康。
家康が本当に源氏に繋がる血筋なのか、先祖に貴族がいたのかの真偽ははっきりとしていませんが、家康にとって三河守は本姓や苗字を変えてでも手に入れたかった称号でした。
『松平』から『徳川』の改姓は数ある家康の苦労の中の一つに過ぎませんが、こうした苦労の踏み重ねを経て家康は天下人となりました。
徳川家康の壮絶な人生の最期については、以下の記事で詳しく解説しています。
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