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織田家のルーツ!若き織田信長『下剋上』&『兄弟殺し』家系図も紹介
織田信長(おだのぶなが)は誰もが知っている有名な戦国武将で、大河ドラマはもちろん、ゲームやアニメ、漫画など、さまざまなコンテンツに登場しています。
一方、学校で習う歴史では、桶狭間の戦いから天下布武に飛躍したイメージが強く、それまでの戦いはあまり注目されていませんよね。
実は信長は桶狭間の戦いまでにも多くの難局を乗り越えており、その信長を生んだ織田家にも興味深い歴史があります。
今回は信長の若き日の戦いや兄弟殺しのほか、織田家の歴史とその家系図がどのように分裂してきたのかについて解説します。
織田信長や織田家のルーツについて興味がある人は、ぜひチェックしてみてください。
信長を生んだ織田家とその領地尾張とは?
織田信長は現在の愛知県西部に位置する尾張に生まれました。
尾張は伊勢湾に面した東海道における海運の要地であり、面積だけで見ると小さいものの、サイズ以上の生産力を持つ豊かな国と言われています。
かつては今川家や畠山家、美濃の土岐家など、源氏の名門が守護を任せられるほどの国で、信長の時代は足利一門の斯波家が守護を務めていました。
斯波家は尾張だけではなく、遠江や越前の守護も兼任していたる非常に有力な一族です。
守護は自分の領地に住む戦国大名と違って京都から指示を出しており、織田家はその守護である斯波家に代わって現地の指揮を執る守護代の一族でした。
ちなみに織田家はそもそも越前の武士であり、そのルーツは織田劔神社(おたつるぎじんじゃ)の神官ではないかと言われています。
斯波家の没落から織田家が分裂
尾張を治めてきた斯波家は、応仁の乱で起きた跡継ぎ争いによる弱体化で分裂していきます。
織田家の家系図も斯波家の弱体化に伴って分裂し、「大和守家」(清州城)と「伊勢守家」(岩倉城)に分かれます。
ちなみに大和守も伊勢守も非公式に名乗っている受領名に由来するもので、現代のハンドルネームのようなものです。
応仁の乱では斯波家の混乱に乗じて朝倉家が越前、今川家が遠江を乗っ取り、斯波家は遠江の奪還に乗り出しますが、今川家に敗北してしまいます。
このときに大和守家は遠江への出兵に反対して斯波家と争いますが、当主が戦死したことで大和守家は衰退していきました。
織田信長の家紋については、以下の記事で詳しくご紹介しています!
『織田信長の家紋7選!織田木瓜の由来や旗印との違い【2023年】』
信長の父・信秀の躍進
大和守家は応仁の乱をきっかけに衰退しましたが、この危機に織田因幡守家・織田藤左衛門尉家・織田弾正忠家の「三奉行」と呼ばれる分家が立ち上がり、大和守家の家系図はさらに分岐していきます。
このうちの弾正忠家は織田信長の先祖に当たり、信長の父である織田信秀(おだのぶひで)の時代から頭角を現しました。
ここからは信秀が尾張で勢力を拡大し、下剋上を成し遂げるまでを解説していきます。
松平・今川・斎藤との闘い
信長の祖父・織田信貞(おだのぶさだ)は、勝幡城を拠点に尾張の港町・津島を手に入れます。
信秀はそれを引き継いだ後、三奉行の1つである藤左衛門尉家を倒し、那古野城、古渡城と次々に城を手に入れ、斯波家をしのぐ尾張の実力者となりました。
着々と勢力拡大を進める信秀ですが、その前に三河の松平・美濃の斎藤・遠江の今川といった強敵が現れます。
紛争を解決することで周囲の信望を集めていた松平清康(まつだいらきよやす)は、藤左衛門尉家と弾正忠家との争いにも介入して藤左衛門尉家に味方しますが、そこで部下に殺されてしまいます。
それから松平家と弾正忠家は対立し、清康の息子・松平広忠(まつだいらひろただ)も父の仇である信f松平清康秀と戦うことになりました。
一方、尾張の北にある美濃では、守護の土岐家から斎藤道三(さいとうどうさん)が下剋上を果たします。
信秀は土岐家の求めに応じる形で道三との戦いを繰り広げます。
さらに遠江の今川義元(いまがわよしもと)も広忠の要請から織田家との戦いに乗り出し、信秀は3人の敵を相手にしていくのです。
信長の登場と信秀の死
信秀はまず今川に集中するため、織田信長と道三の娘・濃姫の政略結婚で美濃との争いを治めます。
しかし、信長の兄・織田信広(おだのぶひろ)が守る三河西部の安城城を義元の軍師・太源雪斎(たいげんせっさい)が落とし、信広は今川の人質となってしまいました。
信広は織田家の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)と交換されましたが、竹千代と安城城を失った信秀の権威は失墜し、血統の正統性がない部分を補っていた信望を失います。
この後、信秀は病で思うように政務が行えなくなり、信長が那古野城に入って政務を手伝い、信秀自身は末森城で信長の弟・織田信勝(おだのぶかつ)の補佐を受けながら指揮を執りますが、享年42歳の若さで死んでしまいました。
織田信長の尾張統一
信秀の死後は信長が引き続き那古野城で指揮を執り、弟の信勝が末森城で政務を行う体制が続きます。
当時19歳と若い信長は過去にうつけと呼ばれていたこともあり、周囲の不信感を拭えていませんでした。
ここからは信長が実力を持って支配の正統性を得ていく過程と、兄弟を殺して尾張統一を果たすまでを解説していきます。
大和守家との戦いから清州入城
まず信長と対立したのは家系図をたどると本家に当たる大和守家でした。
大和守家の宿老は、不信感から信長の排除を画策し、それに反対した斯波家当主の斯波義統(しばよしむね)を殺害します。
一方、信長は義統の息子・斯波義銀(しばよしかね)を保護することで、義統の仇を討つための大義名分を得ます。
大義名分のない大和守家には味方が集まらず、最後は信長に討たれてしまいました。
ここから信長は大和守家が拠点としていた清州城に入り、尾張全体を支配していくのです。
弟・信勝との対立
大和守家との戦いに勝利した信長の前に、次は弟の信勝が立ちはだかります。
信勝は「織田弾正忠達成」(おだだんじょうちゅうみちなり)と名乗り始め、織田家当主としての正統性を主張し始めました。
ちなみに「達」という字は大和守家が代々使っていた通字であり、本家の大和守家を支配する意味を現していたのではないでしょうか。
達成は信長よりも優秀と言われていたため、後に信長の重臣となる柴田勝家(しばたかついえ)も当時は達成を支持しています。
また、分家の伊勢守家も達成と協力して信長打倒を掲げ、同盟相手の道三も息子の斎藤高政(さいとうたかまさ)に裏切られて討たれます。
まさに絶体絶命の信長でしたが、稲生合戦で達成を降伏させて命までは取りませんでした。
敵を許さない冷徹なイメージがある信長ですが、身内には優しい意外な一面も見せています。
兄弟殺しからついに尾張統一
達成は名前を武蔵守信成(むさしのかみのぶなり)と改めて信長に臣従しましたが、再び信長に反旗を翻します。
なお、信成は信行(のぶゆき)と名乗っていた説もありますが、同時代資料では確認できていません。
信成の動きは勝家の密告により信長に露見して、一度は許した信長もさすがに2度目は許しませんでした。
信長は病気を装って呼び出した信成に毒を飲ませて殺し、信成と手を組んだ伊勢守家も倒します。
ついに信長は尾張統一を成し遂げ、戦国大名としての地位を確立するのです。
織田信長は戦国大名として、数々の政策を行ってきました。詳しくは以下の記事で解説しています。
『織田信長が行った政策の狙いは?政治や経済への影響をわかりやすく紹介』
あの桶狭間の戦いへ
信長が悲願の尾張統一を成し遂げた一方、信長に保護されていた斯波義銀は遠江の今川に助けを求めます。
これを知った信長は義銀を追放し、室町幕府の将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に謁見して尾張の国主として認めてもらいました。
血筋で正統性のなかった信長は敵対する勢力や兄弟を倒し、実力で尾張支配の正統性を勝ち取ることに成功したのです。
自立した1人の戦国大名となった信長ですが、その前には強敵の今川義元が立ちはだかりました。
そして信長はあの桶狭間の戦いから歴史に名を刻む偉人へと飛躍していきます。
織田信長と桶狭間の戦いについて詳しく確認したい方は、以下の記事も是非ご確認ください。
『桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは』
若き織田信長『下剋上』&『兄弟殺し』|まとめ
今回は織田信長のルーツに着目し、織田家の家系図が分岐していった過程や若き日の信長の戦いを解説しました。
一見、信長は桶狭間の戦いから順調に勢力を拡大したイメージが強いですが、それ以前にも多くの障壁があり、敵対勢力との戦いのみならず、ときには兄弟をも殺してきた歴史があります。
しかし、信長がその類いまれな才能で尾張を支配する正統性を獲得したことに間違いはありません。
信長のルーツや若き日の戦いを改めて知ることで、信長の時代をさらに面白く見ることができるのではないでしょうか。
▼主な参考文献