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豊臣秀吉はどんな性格だった?史実の残るエピソードを紹介!
誰もが知る歴史上の大スター豊臣秀吉。
秀吉といえば陽気で人たらしというイメージがありますが、最近では悪人として描かれることが多くなっています。
大河ドラマ『どうする家康』の中でもサイコパス気味に描かれており、ムロツヨシさんが演じる笑いながらも目に光がない秀吉の姿はとても不気味で怖いですよね。
時代によって変化した秀吉のキャラクターですが、本当の秀吉はどのような性格だったのでしょうか。
今回は、豊臣秀吉の人物像の変遷を様々なエピソードと共に詳しく解説していきます。
目次
庶民のヒーロー豊臣秀吉
庶民から天下人に成りあがったヒーローという世間的な秀吉のイメージ。
実は小説や過去のドラマに影響されているのではないでしょうか。
まずは、秀吉を主人公にした大河ドラマで描かれた秀吉像について振り返ってみましょう。
豊臣秀吉の天下統一までの道のりについては、以下の記事で詳しく解説しています。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
大河ドラマで描かれた秀吉
『太閤記』は1965年に放映された大河ドラマで、俳優の緒形拳さんが主人公秀吉を演じました。
作中で描かれる秀吉は非常に人懐っこく、まさに人たらし。
緒形拳さんの演じる秀吉が好きだったという方もいるのではないでしょうか。
次に、1996年に放映された大河ドラマ『秀吉』では、俳優の竹中直人さんが主人公秀吉を演じました。
秀吉が発する決め台詞「心配御無用!」は当時の流行語となり、秀吉といえば竹中直人さんというイメージを持つ人も多いことでしょう。
このドラマでも、秀吉は『太閤記』同様に陽気な人たらしとして描かれました。
人たらしでみんなから愛され、どんどん出世していく姿は世間的な秀吉のキャラクターと一致していることが分かります。
江戸時代の史料で辿る豊臣秀吉の性格とは?
大河ドラマで描かれている秀吉はもちろんフィクションですが、歴史上の人物としての秀吉はどのような人間だったのでしょうか。
まずは比較的戦国時代に近い江戸時代の秀吉像を、当時の書物と時代の背景から紹介していきます。
江戸時代初期の庶民からみた秀吉
我々が知る秀吉像や数々のエピソードの原点と言われているのが、江戸時代初期に小瀬甫庵によって書かれた『太閤記』です。
小瀬甫庵といえば話を面白くするために嘘を書いていることで有名で、『三河物語』の作者・大久保彦左衛門も批判するほど。
全てを鵜呑みにはできませんが、『太閤記』での秀吉は忠義の人として語られており、自分を拾い上げてくれた信長に対して忠義を尽くしたため、信長の跡を継いで天下人になれたのだと書かれています。
これは目上の人を敬う儒学と天道思想に基づいています。
当時は、お天道様が見ているから良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こると考えられていました。
秀吉のキャラクターの基礎はこの時点で描かれていたのですね。
江戸時代後期の庶民からみた秀吉
時代は流れ、江戸時代後期になると武内確斎と岡田玉山によって『絵本太閤記』という読本が出版されます。
絵本で秀吉の生涯を描いたもので、人形浄瑠璃や歌舞伎化もされて当時の江戸の大ブームとなりました。
物語の特徴としては、小瀬甫庵の『太閤記』をベースに知略や人たらしという面がより強調された内容となっており、この秀吉像が当時の庶民に広く浸透したと言われています。
幕府からみた秀吉
江戸時代の庶民には『太閤記』や『絵本太閤記』で陽気な人・忠義の人というイメージが浸透する一方で、幕府側は秀吉のことをあまりよく思っていなかったようです。
『絵本太閤記』が大ヒットした暁には、幕府から版元に絶版にするよう命令が下ったというエピソードも残っています。
豊臣政権を倒して作った幕府ですから、秀吉が称賛されることによって幕府を批判されては困る事情もあるのでしょう。
幕府の学者として有名な新井白石の『読史余論』という書物の中では、秀吉が出世して天下人になれたのは単に運がよかっただけだと書かれています。
また幕府の公式書物である『徳川実紀』の中では、秀吉の人たらしで陽気な性格は全て計算だと書かれており、上司に取り入るために陽気なキャラクターを演じていたのであって心の底から陽気な奴ではないと批判しています。
幕府側は秀吉をシビアに評価しており、庶民と幕府の間で秀吉の評価が分かれていたようです。
庶民にとっては足軽から天下人になったヒーローですが、幕府としては秀吉に憧れて下剋上を起こされては困りますから評価が別れて当然とも言えます。
歴史上の人物をどの立場からみるかによって評価が分かれてしまうのですね。
幕末〜戦前は空前絶後の豊臣秀吉ブーム到来!
幕末になると、世の中では尊王攘夷思想が広がります。
尊王攘夷とは天皇を敬って海外からやってくる異人を排除せよという考えのことです。
同時に秀吉が称賛されて大ブームが巻き起こるのですが、尊王攘夷と秀吉にどのような関係があるのでしょうか。
尊王攘夷と秀吉の関係
幕末に頼山陽作の『日本外史』という源平から徳川に至る経緯を記述した書物が流行するのですが、この作中で秀吉は勤王家だと書かれています。
また、吉田松陰の『正気の歌』という世の中の時勢を嘆く歌の中でも、秀吉を尊王攘夷のシンボル的存在である楠木正成と並べて尊敬しています。
尊王攘夷思想によって秀吉が称賛されたのは、秀吉が勤王家であるという考えが広まった影響だと言えるでしょう。
しかし、一次史料に秀吉が勤王家であったとされる記述はありません。
秀吉が勤王家だったという情報はどこから生まれたのでしょうか。
秀吉は勤王家だったのか?
尊王攘夷思想の原点として水戸学と呼ばれるものがあり、水戸学では南朝が正統、北朝は邪道だとされています。
南北朝時代とは足利尊氏率いる北朝と後醍醐天皇率いる南朝が争った時代のことで、最終的には統合されて北朝・足利尊氏の室町幕府が続きます。
あくまで考察ですが、室町幕府を倒した信長と秀吉は邪道とされる北朝を倒したともいえるため、勤王家だと考えられるのではないでしょうか。
朝鮮出兵が秀吉ブームの追い風に
黒船の来航で尊王思想と共に攘夷思想が広まると、秀吉の行った朝鮮出兵によってさらに人気が加速します。
朝鮮出兵とは秀吉が明の征服を目指して行った戦争で、全国の大名から協力を仰ぎ大規模な戦力で行ったものの最終的に大きな結果を得ることはできませんでした。
一般的には大失敗だと言われていますが、当時は華夷思想と呼ばれる中国を世界の中心とする考えの中で、明に喧嘩を売り海外に日本の武威を見せつけた秀吉の行動は肯定的に捉えられていました。
実際のエピソードとして、明治政府は徳川幕府時代に整備されていなかった豊国社という秀吉の神社を再興しています。
幕末から明治にかけて高まった秀吉人気ですが、この時代は人たらしで陽気な人物像よりも朝鮮出兵で海外と戦ったことがより一層評価され、この人気は第二次世界大戦で日本が敗北するまで続きました。
戦後~現代の新たな豊臣秀吉像
戦後になると、世の中の思想が変わったことで新しい秀吉像が生まれます。
帝国主義が崩れた敗戦後は秀吉の朝鮮出兵を称賛できなくなってしまったのです。
戦後の小説では、秀吉の栄光の生涯を描く上で朝鮮出兵が後味を悪くしてしまうため、歳のせいにしたり話を濁したりして書かれることが多くなりました。
朝鮮出兵が黒歴史に
大河ドラマ『太閤記』の原作となった吉川英治の『太閤記』という小説では、中途半端なことに小牧・長久手の戦いまでしか描かれていません。
連載終了は1945年で第二次世界大戦が終わったタイミングでした。
おそらく朝鮮出兵を称賛しようと書き始めたところ、日本軍の敗戦によって朝鮮出兵をかっこよく描けなくなり断念したのではないかと言われています。
大河ドラマ『秀吉』の中では朝鮮出兵のエピソードを描いていますが、信長の意思を引き継ぐという前向きな名目で描かれていました。
一次資料にはない創作ですが、信長は本能寺の変が起こらなかったら大陸に進出しようとしていたため、その事業を引き継いだのではないかという考え方が採用されています。
庶民のヒーローから悪人へ
陽気で人たらしな性格で立身出世し、海外出兵で武威を示すというかつてのスーパーヒーロー像が崩壊した今、残った事実は立身出世だけとなった秀吉。
立身出世という部分だけを切り取ると、陽気な奴だというのは世間の幻想であり、本当は出世のためなら手段を選ばない冷酷な奴だったのではないかという考えが浮上してくるのです。
最近の大河ドラマ『軍師官兵衛』・『真田丸』・『麒麟が来る』の中でもダークな秀吉が描かれており、最近の秀吉像が悪人に変わりつつあることが分かります。
『徳川実紀』や山田風太郎の『妖説太閤記』で書かれた計算づくしのサイコパスという異説に回帰し、秀吉のイメージが悪くなっているのが現状です。
豊臣秀吉はどんな性格だった?史実の残るエピソードを紹介!|まとめ
豊臣秀吉の人物像は時代の思想や立場によって大きく変化してきたことが分かりました。
江戸時代に庶民の間で広まった陽気で人たらしな性格も、幕府や現代に広まった冷酷でサイコパスな一面も、視点を変えればどちらも秀吉の性格なのではないでしょうか。
現代社会でも部下が上司にへりくだって腹の内を見せないことがあるように、最近のダークな秀吉はある意味真実の秀吉に近いのかもしれませんね。
今後も時代の移り変わりと共にさらに新しい秀吉像が生まれるかもしれません。
▼主な参考文献