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徳川家康の妻は何人いた?ハーレムすぎる!妻多すぎ問題
戦国大名の重要な仕事の一つに「跡継ぎを残す」というものがあります。
乳幼児死亡率も高かった当時、戦国大名は家を存続させるため跡継ぎ候補として男子を何人も生む必要がありました。
こうした理由から、一夫一妻が常識の現代とは異なり、この時代の大名は何人もの妻を娶(めと)るのが普通でした。
中でも、徳川家康の妻は本妻・別妻あわせて20人以上いたと言われており、戦国大名の中でもかなり多い部類だと言えるでしょう。
今回の記事では、何人もいる家康の妻の中から、特に有名・重要な人物をピックアップし、彼女たちの産んだ子供とあわせてご紹介します。
また、戦国時代に存在した本妻と別妻との決定的な権限の違いについても解説していきます。
徳川家康の本妻
はじめに徳川家康の本妻たちを解説します。
家康の何人もいる妻のうち、なんと本妻と呼ばれているのはたったの2人だけなのです。
家康はこの2人の本妻との関係にはとても頭を悩ませていた様子が伺えます。
築山殿
徳川家康の本妻といえばこの人、築山殿です。
大河ドラマ『どうする家康』では「瀬名」という名前で登場している女です。
彼女は1559年に家康の長男・信康、1560年に長女・亀姫を産んでいます。
成長した亀姫は、三河国・遠江国の境界付近を領有していた奥平氏と家康との同盟締結の証として、奥平信昌という武将のもとに嫁いでいます。
信康・亀姫の2人の子は家康が今川家から独立する前に誕生していますが、家康独立後は築山殿との間に子供が生まれることはありませんでした。
家康が今川家を裏切る形で独立したことによって、今川の親戚筋にあたる築山殿との関係が急速に悪化。
信康・亀姫と立て続けに生まれたにも関わらず、その後彼らの間に一人も子が生まれなかったのはこうして夫婦仲が冷えきってしまったことが理由だとする説が一般的です。
大河ドラマ『どうする家康』作中では家康独立後も仲睦まじい様子が描かれていますが、こうした事情もあって実際のところは不仲だったのかもしれません。
しかし、築山殿と信康が謀反を企てたといわれる信康事件が起きてしまい、徳川家康の命によって築山殿と信康は死んでしまいます。
最初の本妻と息子が二人とも亡くなってしまったこの事件は、家康の人生でも最も悲劇的な事件だったといえるでしょう。
信康事件については、他の記事でも解説しているので、是非こちらも合わせてご覧ください。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
朝日姫
家康の本妻・築山殿と嫡男・信康が立て続けに死んだ「信康事件」後、家康が娶った次の本妻が朝日姫です。
彼女は羽柴秀吉の妹にあたる人物です。
1584年の小牧長久手の戦いでぶつかって以降関係が悪かった家康と秀吉でしたが、家康サイドから秀吉に同盟を申し込み、1586年に秀吉の妹・朝日姫を本妻に迎えることで同盟が結ばれました。
結婚した当時、朝日姫はなんと44歳。家康は45歳でした。
朝日姫は若い頃に別の人物のもとに嫁いでおり、何らかの理由で離縁したのち家康と再婚したものと考えられます。
家康と朝日姫は晩婚だったこともあり、2人の間に子供は生まれていません。
ほどなくして朝日姫は死去しており、家康との夫婦関係も長くは続きませんでした。
夫婦仲についてですが、この婚姻については政略結婚の色が強いため、あくまで形だけの夫婦だった可能性も指摘されています。
また家康と朝日姫は別居していたと思われ、あまり仲は良くなかったのかもしれません。
『どうする家康』でも朝日姫と家康の関係がどのように描かれるのか楽しみですね。
そして、この朝日姫を最後に家康は本妻を持つことはありませんでした。
天下取りを支えた徳川家康の別妻たち
ここからは家康の別妻たちをご紹介します。
家康の別妻は、実に20人以上いたと言われており、2代将軍・徳川秀忠などはこの別妻たちから生まれているのです。
まずは家康が天下を取るまでに娶った別妻の中で重要な人物を紹介し、それにあわせて戦国大名の本妻と別妻の決定的な権限の違いについても解説します。
西郡局
西郡局は、築山殿存命中に娶った別妻です。
『どうする家康』では「お葉」という名前で登場していました。
徳川家康が三河統一を目指していた最中の1565年、西郡局は家康のもとに嫁ぎました。
家康と西郡局の間には「督姫」と呼ばれる女子が生まれており、のちに家康と北条氏との同盟締結のため北条氏直のもとに嫁ぐことになります。
ただし、督姫の生年については1565年説と1575年説があり、詳細はわかっていません。
小督局(お万)
次に紹介する別妻は「お万」という呼び名でも知られる小督局(こごうのつぼね)です。
彼女は、1574年に家康の次男・結城秀康を生んでいます。
家康の長男・信康は前述の信康事件で早くに死んでいたため、順当に行けば次男の秀康が家康の継承者となるはずですが、彼が徳川の名字を名乗っていないことからも分かるように、実際に2代目将軍となったのは三男の秀忠でした。
この理由についてはいくつかの説があります。
1つ目は、秀康が双子で生まれたのが原因ではないかという説。
当時双子は不吉なものとして忌み嫌われており、秀康は生まれながらにして「いわくつき」とされてしまった可能性があるのです。
2つ目は、秀康の出生を本妻の築山殿が認めなかったという説。
この時代、別妻のうち誰が夫の子を生むことができるかの決定権を持っていたのは本妻でした。
つまりこの場合、お万が生んだ秀康を家康の子と認知するためには築山殿の許可が必要だったのです。
戦国大名といえども好き勝手に子供をもうけることはご法度だったんですね。
秀康は、家康が築山殿から許可を得ることなく生まれたために長らく不遇の扱いを受けていたとも言われています。
彼はのちに羽柴秀吉の養子となり、秀吉から一字貰って「羽柴秀康」と名乗るようになりました。
その後は関東の名門・結城家の跡継ぎとなり「結城秀康」として広く知られるようになります。
西郷局(お愛)
続いては、家康最愛の女とも言われた、「お愛」の名で知られる西郷局です。
『どうする家康』では広瀬アリスさんがキャスティングされ、瀬名の次のヒロインとして期待されています。
彼女の出自ははっきりとしたことがわかっていませんが、おそらく西郷氏と呼ばれる国衆の養女となっていたところを家康に娶られたのではないかと言われています。
1579年、のちの江戸幕府2代将軍となる三男・秀忠を出産します。
西郷局が秀忠を身ごもった頃は前述の信康事件が起こる直前だったため、家康と築山殿の関係は最悪だったと考えられます。
この状況では家康が築山殿から秀忠出生の承認を得ることは難しかったでしょうが、家康はこうした正規の手続きを経ずに勝手に秀忠を認知しています。
そしてほどなくして信康事件が発生。
新たな跡継ぎ候補の男児が生まれたことにより、家康は容赦なく信康を切り捨てる決断ができたのかもしれません。
家康最愛の女とも言われる西郷局ですが、この翌年の1580年にも四男・忠吉を生んでいることからも、立て続けに貴重な男子を生んだ彼女が家康に寵愛されたのも納得ですね。
良雲院
1580年には良雲院と呼ばれる女との間に振姫という女子を授かっています。
振姫は、はじめは蒲生家に嫁いだのち、夫の死後に浅野家に再嫁。
このようにして有力大名のもとに何度も嫁ぎました。
徳川家康・関東移封後の別妻たち
ここからは、徳川家康が秀吉の命で関東へと移ったあとの別妻の解説です。
この頃の家康は50歳を超える高齢でしたが、それでも何人もの別妻を娶り、子供をもうけています。
晩年に差し掛かる家康が彼女たちに生ませた男子たちは、のちに徳川幕府を支える御三家の祖となりました。
太平の時代に生まれ戦を知らない彼らは、武官というよりは文官的な役割を果たしていくことになります。
茶阿局
まずは茶阿局(ちゃあのつぼね)。可愛い名前ですね。
彼女は1592年に松平忠輝を出産しています。
ただし、家康と忠輝はあまり仲が良くなかったとも言われています。
相応院
1600年には、相応院と呼ばれる女との間に徳川義直をもうけています。
義直は九男でしたが、のちに初代尾張藩主となります。
徳川御三家の一つ・尾張徳川家の祖になったということですね。
養珠院
養珠院との間には、1602年に徳川頼宣・1603年には徳川頼房が誕生しています。
のちに頼信は初代紀州藩主、頼房は初代水戸藩主となり、九男・徳川義直とあわせて徳川御三家を形成することになります。
徳川家康については、他の記事でも解説しているので、是非こちらも合わせてご覧ください。
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ここでご紹介した以外にも、阿茶局・英勝院・お夏の方など、実に何人もの妻を持っていた徳川家康。
跡継ぎを残すことが重要な戦国大名とはいえ、これほど多くの妻がいたとは流石は天下人。
男としては羨ましい限りですね。