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『ほぼ武士!最強の商人『茶屋四郎次郎』天下町人筆頭に上り詰めた男』
商人という立場からは想像できないほどの活躍も記録に残る「茶屋四郎次郎」。
戦場を武士のように駆け巡り、特に伊賀越えでは徳川家康(とくがわいえやす)を無事に三河へ帰還させた功績が有名です。
大河ドラマ「どうする家康」では中村勘九郎さんが演じていて、とても強い存在感にも感じました。
今回は、そんな茶屋四郎次郎が天下町人筆頭に上り詰めるまでの活躍や茶屋家のその後、四郎次郎の意外なルーツなどについて解説していきます。
目次
生まれた家は武士?茶屋四郎次郎のルーツ
商人のイメージが強い茶屋四郎次郎ですが、実はそのルーツは武士の家系と言われています。
武士の家からいかにして商人となり、徳川家康と繋がったのでしょうか。
まずは四郎次郎のルーツから生まれるまで、さらに足利将軍までが関係している「茶屋」の由来について迫っていきます。
父は元・武士の中島明延
茶屋四郎次郎の父・中島明延(なかじまあきのぶ)は元々武士であり、信濃の守護・小笠原氏に仕えていました。
この明延は後に武士を辞めて、京都で茶屋という呉服屋を始めます。
呉服屋でありながら、なぜ「茶屋」と名乗ったのでしょうか。
この理由には当時の室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が関係しています。
義輝は京の町に出かけると明延の店でよくお茶を飲んでいたそうで、この義輝の習慣が「茶屋」と呼ばれるきっかけになったと言われているのです。
家康と同い年の茶屋四郎次郎
天文11年(1542年)に茶屋四郎次郎は明延の息子として誕生しました。
本名は中島清延(なかじまきよのぶ)で、「茶屋四郎次郎」は代々当主が名乗った通称です。
ちなみに四郎次郎は家康と同い年と言われています。
京都で商売をする中で年が同じ家康と気が合い、三河でも商売をして仲良くなったのかもしれませんね。
徳川家康とともに戦場を駆ける茶屋四郎次郎
徳川家康との関係を深めてその偉業を支えた茶屋四郎次郎。
商人でありながら活躍の場は戦場が多かったと伝わっており、ときには命を危険にさらすような場面もありました。
ここからは四郎次郎の戦場における活躍や、家康の命を救った伊賀越え事件などについて解説していきます。
ほぼ武士?53回の戦で活躍した商人
四郎次郎は三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、小牧長久手の戦い、小田原征伐など、生涯53回の戦いで家康とともに活躍したと伝わっています。
もちろん商人である四郎次郎は槍働きではなく、食糧や槍、鉄砲といった軍需物資の調達をしていました。
そして最前線にいるため、長篠の戦いでは敵の攻撃を受けて負傷したという商人らしからぬ逸話も。
一般的な商人のイメージとは違い、甲冑を身に着けて武士のように戦場を駆け巡っていたようですね。
このような活躍が認められ、四郎次郎は家康から「橘の家紋」を賜っています。
どうする家康でも描かれた長篠の戦いの真相について、以下の記事で解説しておりますので、是非確認してみてください。
長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説
戦場の活躍は脚色の可能性も?
実はここまでの活躍、「茶屋四郎次郎由緒書」という四郎次郎の子孫が江戸時代に書いた本の話であり、脚色だった可能性も指摘されています。
家康の活躍を書いた三河物語などには同じような記録はなく、四郎次郎の活躍は一次資料にも残っていません。
四郎次郎の一族は江戸時代に有力な商人となっていたため、子孫が先祖を良く見せようとしたことも考えられます。
徳川家康の伊賀越えで歴史の表舞台に
茶屋四郎次郎の名が歴史の表舞台に出るのは、家康の伊賀越えからです。
伊賀越えとは?
織田信長(おだのぶなが)が本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)に討たれた後、堺にいた家康が光秀の追跡から逃れるため、伊賀を通って三河に帰った逃避行。
四郎次郎が道中で金銀財宝を渡して家康の安全を確保し、無傷で三河に帰ることができたと伝わっています。
伊賀越えについては諸説ありますが、四郎次郎の働きが貢献したことは間違いないでしょう。
秀吉・家康の間で大活躍する茶屋四郎次郎
商人としての立場を最大限に生かしながら戦国の世で飛躍する茶屋四郎次郎。
家康とのつながりをさらに強める一方、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下においてもうまく商売を拡大します。
ここからは家康と秀吉の間での立ち回りや海外との貿易など、多方面に広がる四郎次郎の活躍を紹介します。
隠密御用として上方で情報収集
家康と秀吉が戦った「小牧長久手の戦い」が起きると、京都に基盤を持っていた四郎次郎は家康の「隠密御用」として活躍しました。
商売をしながら上方の情報を集めて、浜松の家康に伝えるスパイ的な活動をしていたそうです。
やがて家康が秀吉に臣従して上洛する際は、茶屋四郎次郎の邸宅が家康の宿泊地に選ばれました。
そこには秀吉も訪れることがあったそうで、四郎次郎が2人の和解に貢献したことも考えられますね。
朱印船貿易や江戸の町割でも活躍
文禄元年(1592年)、四郎次郎は朱印船貿易にいち早く参加して独占し、巨万の富を築いたと言われています。
朱印船貿易とは?
秀吉から認可を受けたことを示す「朱印状」を使って海外と行う貿易。
一方、家康の江戸転封では江戸の町割にも関わっていたそうです。
京都で商売をしていた四郎次郎の知識が、後に大都市となる江戸の礎を築いたのかもしれません。
天下町人筆頭から没落する茶屋家
秀吉と家康という2人の権力者に認められて権勢を誇っていた茶屋四郎次郎ですが、慶長元年(1596年)に享年55歳で病没してしまいます。
働き過ぎが祟ったのか、あまりにも早い生涯の終わりですね。
四郎次郎の仕事はその子孫に引き継がれ、江戸時代には将軍御用達の呉服屋として天下町人筆頭にまで上り詰めました。
しかし、茶屋四郎次郎が4代目、5代目となったころの寛永12年(1635年)、3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)が出した「異国渡海禁令」で状況は一変します。
これによって日本人の異国への渡海は禁じられて鎖国が加速し、貿易で得ていた利益が激減して茶屋家は一気に没落しました。
最強の商人『茶屋四郎次郎』|まとめ
今回は徳川家康の下で活躍した商人・茶屋四郎次郎を解説しました。
商人でありながらときには武士のように戦場を駆け巡り、いち早く参入した朱印船貿易で巨万の富を築いたその功績は、最強の商人と呼ぶのにふさわしいものではないでしょうか。
一方、天下町人筆頭にまで上り詰めた茶屋家ですが、時代に翻弄されて表舞台から消えていった姿は、盛者必衰の悲しさも感じられます。
大河ドラマ「どうする家康」で活躍も描かれた四郎次郎ですが、他作品でも注目してみると面白い存在の一人かもしれません。
▼主な参考文献