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【全員苦労人!】源頼家・足利義詮・徳川秀忠…二代目の将軍たちがやったこと
「将軍」と聞いて、初めに思い浮かべる歴史上の人物は誰でしょうか?
「徳川秀忠」といった二代目将軍を連想する方は少ないかもしれません。
源頼朝(みなもとのよりとも)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・徳川家康(とくがわいえやす)と言った初代将軍を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
歴史小説「極楽征夷大将軍」の主人公が足利尊氏であるように、注目を浴びやすい存在である初代将軍と言う存在。
極楽征夷大将軍とは?
小説家・垣根涼介による足利尊氏を主人公とした歴史小説。第169回の直木賞受賞作品。
そんな偉大な彼らの跡を継いだ二代目将軍の活躍について、意外と知られていません。
そこで今回は二代目将軍のやったことに注目して解説していきます。
とても興味深いエピソードも多く、暗愚・無能な二代目といった印象が変わるかもしれません。
目次
徳川秀忠たち二代目将軍
まずは、初代将軍と二代目将軍をわかりやすくまとめてみました。
幕府 | 初代将軍 | 二代目将軍 |
---|---|---|
鎌倉幕府 | 源頼朝 | 源頼家 |
室町幕府 | 足利尊氏 | 足利義詮 |
江戸幕府 | 徳川家康 | 徳川秀忠 |
有名で偉大な初代将軍に対して、影の薄い二代目将軍という印象でもありますよね。
そんな二代目将軍たちですが、それぞれの興味深いエピソードや功績を見てみましょう。
ポンコツな独裁者?鎌倉幕府二代将軍・源頼家
源頼朝(みなもとのよりとも)を父に持つ鎌倉幕府二代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)。
教科書にすら数行程度しか登場しない為、やったことが何かも説明しづらい人物ではないでしょうか。
その上、暗愚・無能・独裁者といった不名誉な印象が付いて回る不憫な人物でもあります。
しかし、彼はただの暗愚だった訳ではなく、悲惨な末路が運命付けられていた悲しき二代目なのではないかと言われています。
そんな源頼家の征夷大将軍としての人生を詳しくみていきましょう。
父・源頼朝の突然の死
源頼家は18歳という若さで急遽、征夷大将軍に就任。
父・源頼朝が突然の死を迎え、二代目継承の地盤が固まっていない状態で、実績がないにも関わらず将軍への就任を余儀無くされました。
初代将軍・源頼朝が偉大だったとは言え、その嫡男というだけで御家人を統率するのは難しく、本来であれば武功をあげてからの将軍継承が望ましいとされています。
そもそも源頼朝が平氏を倒した後だったため、敵がおらず、武功をあげることが出来ない環境下で元服している源頼家。
そんな源頼家に対して尊敬の念を抱き切れない鎌倉幕府の御家人たちは、独裁を防ぐ為に合議制での政務運営を提案し、実行します。
源頼朝も出陣した源平合戦の終着・壇ノ浦の戦いについてはこちら
壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説!平家軍の敗因はなんだった?
適当に所領を決めた?離れる御家人たちの心
源頼朝が独裁に近い政務状態を維持出来たのは、源平合戦に自ら出陣し、戦で武功をあげている経験と実績が御家人たちに認められ、尊敬されていたからです。
若くして将軍に就任した源頼家も、父と同じような独裁に近い幕府体制を望んでいたと考えられますが、経験も実績もない彼に尊敬の気持ちを抱ける御家人は多くありません。
更に、御家人たちの合議制による政務にも難色を示し、強引な方針を押し通そうとした為、不満の声が段々と大きくなっていました。
中でも、御家人同志が所領を巡って揉めていた際に、地図上に適当な線を引いて所領を決めてしまったと言うエピソードは有名です。
加えて自身が気に入った若い御家人で側近を固めるなど、身勝手な振る舞いに拍車がかかっていた源頼家。
そんな彼に近づく死の気配。
23歳という若さで亡くなった彼の最期は悲惨なものでした。
修善寺での悲惨な最期
源頼家は修善寺にて幽閉された後、御家人に当たる北条家の人間により殺されています。
ちなみに、北条家は母である北条政子の生家でもあるという悲劇。
もしも源頼朝の存命時に将軍継承の準備を行っていれば、この悲劇は避けて通ることができたかもしれません。
自身の行いだけでなく、資質やタイミングにも恵まれなかった悲運の二代目・源頼家。
彼の死後、弟の源実朝(みなもとのさねとも)が三代目の将軍に就任しますが、暗殺された為、源頼朝の血縁者による鎌倉幕府の統治は終わりを告げました。
父親が優柔不断!室町幕府二代将軍・足利義詮
室町幕府初代将軍・足利尊氏の跡を継ぎ、二代目将軍となった足利義詮(あしかがよしあきら)。
南北朝統一・金閣寺を建立した三代目将軍・足利義満と比較すると聞き馴染みのない名前に思えてしまうかもしれません。
足利尊氏は戦の強いカリスマ的な人物として知られますが、政務に関しては決断が鈍く、優柔不断であったと言う見方があります。
そんな優柔不断な父をサポートし、大胆な政策で南北朝統一への布石を打ったのが足利義詮。
29歳の時に父・足利尊氏が病没し、二代目将軍となっています。
足利尊氏が生前に行っていた政務の尻拭いをしたのも彼。
ただ、実はその役割を元々は足利尊氏の弟・足利直義(あしかがなおよし)が担っていました。
なぜ足利義詮が足利尊氏のサポートを行うことになったのか、原因になった出来事について、詳しくみていきましょう。
兄弟の対立・観応の擾乱
足利尊氏の弟であり、足利義詮の叔父に当たる足利直義と言う人物。
室町幕府が開かれた当初は、足利尊氏を将軍としつつも、兄弟での二頭政治体制を敷いていたのが実情でした。
兄と違い戦は強くないものの、前例を大事にしつつ、物事をすぱっと決めることが出来る足利直義。
兄弟での二頭政治体制は円滑に機能しているかに思えました。
しかしお互いに不足している部分を補い、室町幕府を盛り立てていたはずの兄弟仲は次第にこじれ、対立。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を経て弟を失った足利尊氏は、政務面での自身の力不足を理解していたのでしょう。
嫡男・足利義詮に政務を任せることとするのです。
大胆に北朝を再生!足利義詮の後半生
やったことについて印象の薄い足利義詮ですが、非常に図太い性格で、大胆な采配を振るったと言われています。
例えば、観応の擾乱の際には、関東からの敵襲に備えるため対立状態にあった南朝への降伏を決断。
北朝を解散させ、天皇・三種の神器も南朝へ献上した上で、近畿からの攻撃を回避し、関東にて再起を計ろうとしていた足利直義軍を鎮圧しました。
その際、南朝からは降伏の許しを得ていない状態であったにも関わらず、許しを得たと触れて周り、南朝が降伏を受け入れざるを得ないよう仕向けました。
しかもその後、かなり強引な手を使って北朝を再生させています。
大胆な政策で南北朝統一の基盤を築き上げた足利義詮ですが、38歳にて病没しました。
その存在が室町幕府に及ぼした影響はかなり大きいものだったと言えるでしょう。
完璧ではない父のもとで育ったからこそ、このような振る舞いが出来たのかもしれませんんね。
関ヶ原の戦いに遅参!江戸幕府二代将軍・徳川秀忠
徳川家康と聞けば、誰もが江戸幕府初代将軍であることを思い浮かべますよね。
その三男・徳川秀忠(とくがわひでただ)こそが江戸幕府二代将軍となる人物です。
関ヶ原の戦いに遅参したイメージが強すぎるあまり、無能な将軍だったと考える方も多いかもしれませんが、晩年の徳川秀忠の振る舞いまで確認していくと、そのイメージとは違った人物像が見えてきます。
徳川秀忠について、詳しくみていきましょう。
徳川家康大激怒!天下分け目の大戦の本体を率いる
徳川秀忠は、真田家の足止めを喰らって関ヶ原の戦いに遅参し、徳川家康に激昂されたというエピソードが有名ですよね。
そこまで徳川家康が激昂した理由として、源頼家の歴史を繰り返さない為であったと考えられています。
源頼家は実績のない将軍だったため、御家人達の心を掴むことが出来ず殺されてしまいました。
そのような悲劇を繰り返さないために、徳川秀忠には戦による武功をあげてもらう必要があったのです。
関ヶ原の戦いでは徳川軍本体を率いる総大将を任せ、実績をあげるための舞台を整えていました。
徳川家康としては、これ以上ない機会を与えたにも関わらず、関ヶ原の戦いに遅れて参加すると言う大失態を犯してしまった徳川秀忠を叱りつけずにはいられなかったのでしょう。
しかし関ヶ原の戦い後、徳川秀忠はその失敗を挽回していくのです。
異例の将軍就任
異例なケースでの将軍就任を27歳で果たした徳川秀忠。
どういった所が異例なのかと言うと、将軍就任時に先代将軍・徳川家康が存命であった所です。
これは関ヶ原の戦いで大きな実績を挙げられなかった徳川秀忠を将軍にし、源頼家の二の舞になることを恐れた徳川家康の奇策。
徳川秀忠が、大御所・徳川家康に相談する形で政治的な決断を行なった期間を通じて、徳川家康の死後も幕府運営を安定して継続させました。
ただ父の言いなりだった訳ではなく、自身の意見も申し立てた上で、経験を積んだとされています。
実は有能だった?大御所としての徳川秀忠
徳川秀忠は38歳の時に父・徳川家康が亡くなると、より手を強めた政治を行ったと言われています。
具体的には、以下のような政策を取りました。
政策
・自分の弟を蟄居
・キリシタン禁令強化
・福島正則(ふくしままさのり)や本多正澄(ほんだまさずみ)と言った有力家臣を改易
特に強気な政策として注目されるのが、重臣であろうと問題があれば容赦はしない強気な姿勢で合計41名の家臣を改易したということ。
流石に苦言を呈す家臣もいたようですが、その手を緩めることはありませんでした。
45歳になると、父に倣い、将軍職を三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に譲り、大御所となります。
大御所になったタイミングで、手を緩め、積極的にお茶会に参加するなど柔和な態度をとるようになりました。
幕府を繋いでいく為に、立場によって人当たりの加減を調整する工夫を凝らしていたのかもしれませんね。
【全員苦労人!】源頼家・足利義詮・徳川秀忠…二代目の将軍たちがやったこと|まとめ
今回は二代目の将軍たちがやったことについて解説しました。
初代将軍に注目する機会はあっても、二代目将軍について調べる機会は多くはないですよね。
機会を設けて調べてみると、影が薄くなってしまいがちな二代目の将軍たちにも葛藤やドラマがあることが分かりました。
二代目将軍で将軍家が潰えた歴史はない為、先代から繋がれた経験や地位を三代目将軍に繋いでいく役割も担っていた彼ら。
二代目将軍たちの人間としての行いから学び、現代を生きる私たちの経験を、どのように後世に繋いでいくか考えていきたいですね。