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『清須会議』秀吉に天下取りの野心はあったのか?織田家崩壊の真相とは
本能寺の変の後、織田信長亡き織田家をどう取り仕切っていくのかを決めた清須会議。
近年では三谷幸喜さん脚本の映画『清須会議』の題材となるほど有名なエピソードですよね。
羽柴秀吉が天下取りに邁進した大きな出来事だったとも言われていますが、最近では次々と新説が生まれています。
改めて清須会議とはどのような会議だったのでしょうか。
今回は最近の研究を元に、清須会議に関わった人物の相関図や織田家崩壊の真相をわかりやすく解説していきます。
目次
清須会議と三法師の相関図
そもそも、清須会議がなぜ清須城で行われたのか疑問に思いませんか。
織田家の本拠地は安土城で、織田信長の嫡男・信忠の居城は岐阜城だったにも関わらず清須で会議をしたのには、信長の嫡孫・三法師の存在があります。
当時3歳の三法師は元々、父・信忠と共に岐阜城に住んでいました。
しかし本能寺の変で信忠が死去すると、明智方の勢力が多い美濃国の岐阜城は落とされてしまう可能性があったため、織田家の本領である清須へ一時的に避難していたそうです。
本能寺の変について詳しく知りたい方は、こちらの記事もご確認ください。
織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る
清須会議はなぜ清須で行われたのか
それでは、なぜ三法師のいる清須城にわざわざ集まったのでしょうか。
実は、清須会議が始まる前から三法師が織田家の跡継ぎになることが確定していたのです。
清須会議といえば、織田家の当主を誰にするか決める会議というのが通説でしたが、本当は天下人を継ぐ人を織田家の嫡流にすると信長が生前に決めていたようですね。
天皇家でも跡継ぎは嫡流だと決まっており、室町幕府の将軍も代々嫡流が継いでいることから、この考え方は常識的だと言えます。
かつての日本では天皇が崩御すると最も有力者が継ぐことになっていましたが、子供・兄弟・親戚と跡継ぎ争いが絶えなくなってしまったため、争いを防ぐためにも能力・実績などに関係なく嫡流が継ぐことになっていきました。
当然信長もそのように考えており、織田家を嫡流が継ぐならば、信長-信忠-三法師(後の秀信)の順番となるため、三法師が当主となるのです。
秀吉が三法師を推薦した通説は嘘なのか?
今までの清須会議では、織田家の当主の座を巡って信長の次男・信雄や三男・信孝が跡継ぎ争いをする中、秀吉が幼い三法師を当主に担ぎあげてみんなが従ったという考えが一般的でした。
しかし、秀吉が三法師を跡継ぎに抜擢したという説は、『川角太閤記』(川角三郎右衛門・作)という江戸時代初期に書かれた秀吉に関する逸話集から広まった話であり、秀吉が天下を取った後に逆算して書かれた話だと考えられます。
当時の一次資料では三法師の当主は確定しており、決して秀吉が三法師を擁護したわけではないのです。
織田家の当主が元々三法師に決まっていたのならば、新説の清須会議では何を決めたのでしょうか。
清須会議の本当の議題とは
清須会議の本当の議題は、当時3歳の三法師が成長して政務を執るまでの後見人(名代)を決めることだったと言われています。
ここで名代候補となった2名の相関図をわかりやすく説明します。
次男・織田信雄
元々織田家の跡継ぎは嫡流と決まっていたため、嫡男・信忠以外の兄弟たちはそれぞれ養子入りしています。
次男・信雄は伊勢の名門・北畠氏の養子となり、元々は北畠氏を継ぐ予定だった人物です。
また、母親は信忠と同じ生母の生駒氏とされており、信雄には母親の身分が信忠と同じというアドバンテージがあったのです。
京都御馬揃えでは、信忠80騎・信雄30騎・信孝10騎を率いていたと言われています。
京都御馬揃えとは?
本能寺の変の1年前に行われた軍事パレード
天皇や公家に見せて喜ばせた
当主の信忠には遠く及ばないものの、信孝よりは頭一つ抜きんでていたのではないでしょうか。
能力はさておき、生まれの面でとても恵まれていた信雄は、兄弟の中だけでなく織田一門の中でもかなり上のランクの人物だったと分かります。
三男・織田信孝
一方で、三男・信孝は信雄と同年生まれながら信雄の弟扱いでした。
生まれた日は信孝のほうが早かったという一説もありますが、母親の身分が低かったため三男という立場になってしまったようです。
織田家中のステータスでは信雄に及ばなかったものの、信孝には明智光秀を討伐した功績があります。
中国大返しをした秀吉のバックアップがあったとはいえ、曲がりなりにも総大将として光秀を討伐したため、父・信長と兄・信忠の仇を取ったという功績は織田家での立場にかなりの影響を与えたのではないでしょうか。
貴種性の信雄VS功績の信孝
清須会議での論点をわかりやすく言えば、名代の決め手を貴種性と功績のどちらにするかで、貴種性のある信雄と仇討ちで功績を上げた信孝の対決だったといえます。
通説ではよく、順番的には信雄であるもののバカ殿だったため能力的にしっかり者の信孝が候補になったと言われたりもしますが、これには根拠がありません。
戦国武将ならばもちろん功績だろうと思いがちですが、元々三法師への継承は貴種性だけで成立しているため、ここで功績の信孝を名代にしてしまえば貴種性だけで天下人が確定している三法師の存在が揺らいでしまうことになります。
しかし、血筋だけで信雄にしてしまっては逆に功績をないがしろにすることになり、功績で出世してきた家臣達の反感を買ってしまうことになります。
どちらを取っても難しいが故にせめぎあっていたのです。
光秀を討伐したのが信雄だったら何の問題もなかったのですが、信孝が功績を上げたことでややこしくなってしまったのですね。
結果、重臣達は名代を信雄にも信孝にもせず、貴種性も功績も取らないことで落としどころをつけました。
その代わりに、清須会議に参加していた重臣達(柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・堀秀政)5名の合議制で名代を代行することになったのです。
これでどちらの反感も買うことなくうやむやにしたということですね。
清須会議での領地割り
清須会議では名代決めだけでなく、重臣達・信雄・信孝それぞれの領地の再分配が行われ、織田家の新しい枠組みを作りました。
ここで秀吉の領地が多くなっているのは明智討伐の功績だと言えますね。
秀吉の軍事力がなければ明智討伐はできなかったため、清須会議での秀吉の発言力は相当なものだったと考えられます。
一方で勝家は筆頭家臣ながら明智討伐で功績を上げられなかったため、秀吉の元領地であった北近江をもらうことで落としどころをつけています。
かなり秀吉有利な領地割りではあるものの、本拠地の安土に近いという面では多少勝家にもアドバンテージがあるのではないでしょうか。
しかし、秀吉が京のある山城国を抑えているのが大きく、後の織田一門の相関図が変化していくのです。
織田信孝の行動が織田家崩壊の原因?
そんな中、信孝が勝手に領地増長する事件が起こります。
この後織田家の相関図は2つの派閥に分かれ、賤ヶ岳の戦いといった織田家中の内乱が起こるのですが、そのきっかけを作ったのは秀吉だけでなく実は信孝にも原因があると言えます。
兄弟同士の国境争い
清須会議の領地割りで信孝は美濃国を与えられたのですが、隣国であり信雄が治める尾張国との境界に不満を抱いていたようです。
元々は国切りで分けたのですが、境界付近を流れる川が氾濫などによってその都度形が変わってしまうため、土地の形が一定ではありません。
そこで信孝は、清須会議で決めた国切りではなく大河切りで実際の川が流れているところを境目にすることで少しでも領地を広げようとしました。
これで信雄・信孝は兄弟ながらいがみ合う仲になってしまうのです。
しかし最終的には宿老達によって話し合われた結果、元通り国切りで境界を決めることになり、信孝の要求は通りませんでした。
信孝が勝手に政権を主導
さらに信孝は、三法師を岐阜城に置いていることをいいことに政権を主導し始めます。
名代は合議制で行うため必要ないと清須会議で決まったにも関わらず、まるで名代のように振る舞い始めるのです。
元々三法師は安土城に入り政権をふるう予定でしたが、安土城が焼失したため復興するまでの間、一時的に信孝のいる岐阜城にいました。
しかしそれをいいことに職権を乱用し、公家などに対して領地を安堵する書状を『弌剣平天下』の印判を使って勝手に送っていたようです。
あたかも天下人のように振る舞う信孝に対し、いい感情を持たなかった秀吉。
元々合議制だと決めたにも関わらず、信孝は清須会議で決まったことを無視しているのですから当然とも言えます。
また山城国を支配している秀吉にとって、公家とのやりとりに首を突っ込んできた信孝を良くは思わないでしょう。
信孝の秀吉への抵抗とも考えられますが、こうして信孝と秀吉は競合していくのです。
秀吉と勝家の対立~織田家相関図の変化~
信孝は秀吉と競合するために、筆頭家老の柴田勝家にも接近しました。
実際に勝家は未亡人となっていた信長の妹・お市の方と再婚し、織田家との関係を一層深くしていくのです。
織田家の相関図では信孝が力を蓄えて行く中で、秀吉も負けてはいません。
秀吉が積極的に動き出したことで、次は勝家と対立することになります。
信長の葬儀を強行
秀吉は早くから信長の葬儀を提案しますが、勝家は秀吉の主導に不満を持っていたため、葬儀に難色を示していました。
しびれを切らした秀吉は、秀吉の子・羽柴秀勝(信長の四男・五男とも言われ、秀吉の養子となっている)を喪主として葬儀を強行したのです。
強行とはいっても家老の丹羽長秀や池田恒興は葬儀に賛同しているため、多数決では秀吉のほうが圧倒しています。
勝家の求心力が足りなかったとも言えますね。
結果、秀吉が葬儀を強行したことによって勝家と秀吉の対立は深まることになるのです。
勝家・信孝VS秀吉・信雄
そして、秀吉は信孝に三法師の移動を要求します。
安土城の修復は完了していないものの、住める状態には戻っていました。
しかし信孝はこれに反対し、勝家も信孝の肩を持つ発言をしたことで、信孝と秀吉の対立も深まっていきます。
秀吉としては清須会議での決定事項を無視しまくる信孝をこれ以上手に負えないと判断し、池田恒興と談合して正式に名代を立てることにしました。
こうして再び名代候補として秀吉に担ぎ上げられたのが信雄です。
これによって織田信雄・羽柴秀吉・池田恒興・丹羽長秀VS織田信孝・柴田勝家・滝川一益という相関図となり、織田家の勢力がわかりやすく真っ二つに分かれてしまうのです。
織田を取り巻く人々の思惑が絡まりあった結果、後の信孝の死や柴田勝家の滅亡に繋がっていくことになります。
『清須会議』秀吉に天下取りの野心はあったのか?織田家崩壊の真相とは|まとめ
清須会議は秀吉と勝家で語られがちですが、そこには織田家の思惑があり決して秀吉の独り勝ちというわけではなかったのです。
わかりやすく言えば、秀吉が思い通りに織田家を動かしていたわけではなく、織田信孝の動きが織田家の分裂と没落の原因を作ったことになります。
信孝の動きによって秀吉の天下が盤石になってしまうとはあまりにも残酷ですよね。
秀吉は明智光秀を倒して天下人になる野心こそあったとは思いますが、清須会議の時点で織田家をすぐに乗っ取ろうという気持ちはなかったのではないでしょうか。
一方で、信孝は信長時代に四国征伐を名乗り出たほど野心のある人物でした。
織田家の相関図から分かる通り、母親の身分によるステータスを払拭したい思いがあったのかもしれませんね。
ある意味、実力で成り上がった秀吉と根本は似ていたが故に対立してしまったのかもしれません。
清須会議を語るうえで、信孝の存在がもっとクローズアップされてもいいのではないでしょうか。
清須会議の後、どのようにして秀吉が天下統一を果たしたのかが知りたい方は、是非こちらも併せてご覧ください。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説