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豊臣秀吉は農民出身ではなかった!?藤吉郎が出世するまで人生を解説!
木下藤吉郎といえば後の豊臣秀吉ですが、農民という貧しい身分から天下人に上り詰めた人物として知らない人はいないくらい有名ですよね。
秀吉は織田信長の家臣として大出世していきますが、信長に仕える前の若き時代の藤吉郎については意外と知られていないのではないでしょうか。
実は秀吉が信長に仕える前の話はたくさんの史料に書かれているのですが、どれも信頼性がなく、作り話やおとぎ話のような作られた秀吉像が多く存在しているのが現状です。
確実に正しいと言える脚色のない史料がなく、実際に分かっていないことも多いですが、今回はそんな豊臣秀吉の前半生について解説します。
豊臣秀吉は農民出身ではなかったのか?
まずは豊臣秀吉の出自について見ていきましょう。
秀吉の1番初めの名前は日吉(日吉丸)だったと言われています。
江戸時代に書かれた「絵本太閤記」という秀吉の話を絵本にしたもの出所のため、真相は分かりませんが、大河ドラマ『秀吉』でも日吉と名乗っています。
そんな日吉の生まれはよく農民出身だと言われていますが、本当に農民の子供だったのでしょうか。
豊臣秀吉は農民の子?足軽の子?
秀吉の生まれには様々な説があり、農民出身や足軽出身、さらには天皇の落胤だったというとんでもない伝説まで存在しています。
農民から成りあがって天下人になったというサクセスストーリーがよく語られますが、最近では農民の子より足軽の子だったのではないかという説が有力です。
なぜなら秀吉は、父の死後に寺に預けられて修行するのですが、本当に農民の子であれば寺に子供を預けられるような経済力があったのか疑問が残りませんか?
当時の寺は現代で言う学習塾のようなイメージで、読み書きを学んだりする場でした。
寺に預けるにもお金が必要なため、秀吉の生まれはある程度戦でお金を稼いだ足軽や、裕福ではなくても最低限のお金がある家だったのではないでしょうか。
豊臣秀吉は天皇の落胤説
一方で天皇の落胤説については、恐らく秀吉本人の作り話だったと予想されます。
秀吉の母親がかつて宮仕えとして天皇や公家に仕えている時に子供を身籠り、仕事を辞めた後に生まれた子供だと、秀吉本人が出自を捏造したとも言われているのです。
これは秀吉が天下を取った後、農民や足軽から成り上がった奴だと出自を馬鹿にされないために流した噂だったのではないでしょうか。
当時は生まれや身分が重要視されたため、天下人としての正当性が欲しかったとも言えますよね。
やはり足軽の子供だったというのが現在の有力説となっています。
織田家に仕える前の豊臣秀吉
次に織田信長に仕える前の豊臣秀吉について紹介します。
父親が死去し、寺に預けられたことで秀吉のサクセスストーリーが始まるのですが、実はすぐに信長に仕えたわけではなかったようです。
針を売り歩く生活
初めは寺に預けられて勉強や修行をしていた秀吉ですが、やがて嫌気がさして寺を抜け出すと、その後は針を売って生活をするようになります。
当時は服を作るための木綿が急速に世間に広がった時期であり、木綿を作るために必要な針の需要が高まったことで良く売れたようです。
木綿というトレンドにいち早く気づき、針を大量に仕入れて稼いだ秀吉は、当時から頭が良く先見の明を持っていたのかもしれませんね。
今川家に臣従
その後は駿河に行き、今川家に仕えます。
秀吉といえば最初から信長に仕えて出世したと思われがちですが、実は織田家に行く前に既に今川家で侍になっていたのです。
実際に今川家の家臣・松下之綱という武将の元で働いていた秀吉。
何故その後、今川家を出奔したのかについては諸説ありますが、当時から有能で仕事ができた秀吉は松下之綱に可愛がられていたようです。
それ故に他の家臣達に妬まれていじめられてしまい辞めた説、または松下之綱からお金を盗んで逃げてしまった説などがあります。
大河ドラマ『秀吉』では、お金を盗んでしまった説が採用されていましたが、自ら盗んだのではなく盗んだ泥棒を追いかけるものの捕まえられず、このまま帰っても信じて貰えないと諦めて逃げていました。
松下之綱は秀吉を失った後も今川家の家臣だったのですが、桶狭間の戦いで今川義元が破れると、没落していく今川家で苦しい生活を強いられました。
一方で秀吉は信長の元で出世していきますが、天下人になるとお世話になった松下之綱のことを大名に取り立てたという心温まるエピソードも残っています。
織田家に仕えた豊臣秀吉の出世エピソード
松下家を離れた豊臣秀吉はついに織田信長の家臣になります。
無名の秀吉が出世する第一歩として、信長の草履を温めたというエピソードは有名ですよね。
寒い雪の日に信長が出かける際、懐で温めた草履を差し出した秀吉の気遣いを信長が気に入ったと言われています。
清須城の石垣を3日で修復
さらには、清須城の石垣を3日で修復したというエピソードもあります。
ある日清須城の石垣や壁が壊れ、修繕するもののいつまで経っても終わらない事態に、自分ならば3日で修繕できると名乗り出たのが秀吉。
実際に大工達をチーム分けして修理の担当場所を指示、さらに一番早いチームに褒美を出すことを約束し、チーム同士で競争させることによって全然進まなかった修繕が本当に3日で終わってしまったという逸話が残っています。
まさに秀吉のリーダーシップ能力の高さを表すエピソードですね。
昔から家臣を生まれに関係なく実力で選び戦ってきた信長にとって、秀吉が農民出身でも足軽出身でも関係ありません。
有能ならば使うというスタンスで秀吉の評価を高めていったのです。
墨俣一夜城で大出世
そして、秀吉の大出世を語る上で最も有名な出来事といえば墨俣一夜城ですよね。
その名の通り、たった一夜で城を建てたという伝説的な話です。
斎藤道三亡き後の斎藤家と織田家の争いの中で、美濃国を攻める上で拠点となる城が欲しかった信長ですが、中々築城が進みません。
織田家の重臣である佐久間信盛や柴田勝家が戦いに勝っては城を建てる陣地を確保するのですが、強い斎藤軍によって毎回すぐに追い返されてしまうのです。
そこでまたしても墨俣城の築城に名乗り出た秀吉。
強い重臣達が軒並み作れなかった城をどのような方法で作り上げたのでしょうか。
川並衆の協力
これまた伝説に近い話ですが、秀吉は城を作るために川並衆と呼ばれる川を使って物を運ぶ運送業を行っていた者達の力を利用したと言われています。
そこに絡んでいた有名な人物として、後に秀吉の部下となる蜂須賀小六がいました。
秀吉は川並衆と蜂須賀小六に、川を使って物を運搬する技術を応用して城を作って欲しいと依頼するのです。
墨俣で戦い、陣地を確保してから城を建て始めてはいつものように斎藤軍に追い返されてしまうと思った秀吉は、先に城を作っておけばよいのだと考えました。
山の上のほうであらかじめ木を切り、現代で言うプレハブのように城のベースを先に作っていきます。
そして川に下ろして川並衆を使って運ぶことで、墨俣ではベースを組み立てるだけで城が完成するという仕組みですね。
この方法で墨俣城の築城は大幅にスピードアップし、敵に襲われる前に城を作りあげることができたのです。
この功績から、秀吉は信長に一目置かれる存在になりました。
そしてこの先は織田家の主要な戦いに大将として出陣し、柴田勝家や丹羽長秀といった重臣達と肩を並べて活躍していくのです。
豊臣秀吉は農民出身ではなかった!?藤吉郎が出世するまでの人生を解説!|まとめ
豊臣秀吉が有名になるまでの前半生はいかがでしたでしょうか。
織田家に仕える前は針を売り歩いて生計を立て、その後今川家に仕えていたことにも驚きでしたが、様々なエピソードから秀吉の優秀な一面が垣間見えましたよね。
若き頃から先見の明や統率力があり、その後大出世したことにも納得できます。
そんな秀吉の生まれは農民ではなく足軽の子供だったのではないかと言われています。
真相は分かりませんが、いつか秀吉の前半生をじっくりと描いた作品が見られるといいですね。
秀吉の天下統一から死因までを知りたい方はこちらも合わせてどうぞご参考ください。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
▼主な参考文献