- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由
【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由
関東の大大名・北条家が豊臣秀吉に敗北したことで有名な「小田原征伐」。
既に全国の大名を従えており、天下人同然だった秀吉に対して徹底抗戦を選んだ北条氏の決断は、後世の我々から見ればあまりにも無謀です。
通説では、小田原征伐は「小田原評定」という言葉もある通り、北条氏政が優柔不断だったが故に滅ぼされてしまったという説明がなされることが多い印象です。
しかし、この北条氏政は、かの武田信玄・上杉謙信とも戦った戦国武将です。
彼が本当にそんな単純な理由で秀吉に挑み、滅ぼされてしまったのでしょうか。
今回は、圧倒的不利にも関わらず秀吉と戦うことを選び、滅んでいった北条氏の決断の真意に迫りたいと思います。
豊臣秀吉による小田原征伐のきっかけ
まずは、この小田原征伐がなぜ起こったのかを順を追って解説します。
北条氏は、一度は秀吉への従属を決めていたのです。
そこから様々なトラブルが発生し、小田原征伐へと繋がってしまいました。
まずは、秀吉の逆鱗に触れることにもなった、小田原征伐の発端となった事件からわかりやすく解説します。
北条家が秀吉に臣従
秀吉と北条との戦いの発端には、「表裏比興の者」で有名な真田昌幸が大きく関わっています。
もともと北条の領土だった土地に、昌幸が領有を主張し占拠するという一件がありました。
北条は秀吉に対し、昌幸の不法を訴えますが、秀吉は「真田領(沼田・岩櫃)の1/3を真田に、2/3を北条に」との妥協案を提案します。
北条氏はこの提案を受け入れ、北条氏の事実上の当主であった北条氏政は秀吉への臣従を決断しました。
北条家の猪俣邦憲が真田領を占拠
こうして、北条氏政は秀吉に挨拶すべく上洛の準備を始めます。
秀吉はこの時、氏政が上洛の約束を反故にした場合、徳川家康らに陣触れ(出陣命令)を出すことも示唆していたようです。
しかし、ここで事件が発生します。
北条の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸の城であった「名胡桃城(なぐるみじょう)」を勝手に占拠してしまいました。
これは、北条と真田の領土を区分した秀吉の裁定を無視する行動です。
名胡桃城占拠の理由は?
この名胡桃城占拠には、北条にも言い分がありました。
まず、名胡桃城内で城主と家臣が対立。
家臣が城主を討つべく上杉景勝に援軍を要請しますが、それに対抗した城主が、北条家臣の猪俣邦憲に救援を依頼したことで事件が発生したと言うのです。
ただし、この時は秀吉が全国の大名に「惣無事令」を出しており、大名間の私的な戦闘を禁じています。
事情があったにせよ、秀吉に断りもなく名胡桃城を占拠した彼らの行動は、秀吉にとって許されるものではなかったでしょう。
この一件が、北条と秀吉との対立の火種となるのです。
秀吉の最後通告と北条の弁明
名胡桃城事件に加えて、北条がなかなか上洛してこないこともあり、業を煮やした秀吉は氏政に対して、主に4つの最後通告を突きつけます。
それを受けて、北条家当主・氏直も弁明。
名胡桃城事件に端を発した秀吉と北条の対立はどのような方向に向かっていくのでしょうか。
この章では、秀吉の北条への警告と、それを受けた北条の対応についてわかりやすく解説します。
秀吉の最後通告
①誅伐される予定だったのを許した
第一に、「本来であれば北条を誅伐する予定だったのを、北条と婚姻同盟を結んでいた家康の仲介で許してあげただけだ。その立場を忘れるな」というようなことを秀吉は言っています。
②領土問題の解決・③名胡桃城事件
秀吉は「②真田昌幸との領土問題を秀吉が解決してあげたにも関わらず、③なかなか上洛してこない上に、名胡桃城事件のような不手際まで起こすとは何のつもりだ」と、北条に対して不快感を表しています。
④秀吉は天下人=正しい
4つ目に、「秀吉は天下人であり、秀吉は正義である」という主張を長々と書き連ねています。
関白にまで登りつめ、天下人となった秀吉に歯向かうような真似をするなど言語道断であると断罪しています。
北条氏直の弁明
この秀吉の最後通告に対しては、氏直も必死に弁明をしています。
上洛の遅れについては、「上洛の準備に手間取っていることは報告済みであり、秀吉も承諾してくれたはずだ」と反論。
これに加えて、小牧長久手の戦い後に秀吉側から家康側に人質が送られたことを引き合いに出し、「身の安全が保証されるよう、北条にも人質を送って欲しい」と強気な要求も出しています。
また、名胡桃城事件に関しても、「領地を奪う目的の軍事行動ではなく、秀吉との約束を反故にしたわけではない」と弁解しています。
秀吉と北条、共に軍備
こうした裏でも、北条は秀吉の攻撃に備え、しっかりと軍備を整えていたようです。
また、氏直の弁明を受けた秀吉も、名胡桃城事件の当事者処罰と早急な上洛を条件に許す姿勢も見せつつも、北条討伐に向けて各大名に陣触れを出しています。
この時の秀吉と北条は、お互いに歩み寄る姿勢は見せていたにも関わらず、他方では戦への準備もしているという、なんとも不思議な状態でした。
小田原征伐へ
秀吉の小田原征伐は、秀吉と北条が真っ向から対立した結果起こった衝突というよりは、お互いに歩み寄る姿勢を見せながらも、なし崩し的に発生した戦いという性格を持っていると言われています。
なぜ秀吉は北条の征伐へと踏み切ることになったのでしょうか。
圧倒的兵力差こそありましたが、北条には北条なりの勝算もあったようです。
最後に、小田原征伐が始まる過程と、実際の合戦の様子などをわかりやすく解説します。
主戦派?和睦派?
当時の北条家は、主戦派と和睦派で真っ二つに割れていました。
主戦派には、北条家の事実上の当主であった氏政と氏輝・氏邦がいました。
反対に、当主の氏直や、秀吉との取次を任されていた氏親は秀吉との和睦を主張。
このように、北条家中で対秀吉路線が決まらないまま滅ぼされてしまったと言われることがあります。
ただし、これに関しては同時代の一次史料は存在せず、基本的には和睦派で統一されていたとも言われています。
上洛が遅れて秀吉に人質を要求したのも、あくまで身の安全の確保のためであり、上洛の準備は進めていました。
また、秀吉に弁明している間は追加の軍事行動は一切行っておらず、むしろ「秀吉の命令があるまでは戦わないように」と家臣を制していることからも、氏政らも決して対秀吉主戦派という訳ではなかったようです。
なぜ小田原征伐は起こった?
では、北条がなぜ素直に秀吉に臣従せず、結果的に秀吉と衝突して滅ぼされることになったのでしょうか。
北条としては、無条件で秀吉と和睦してしまうと、その後の扱いも悪くなってしまう恐れがありました。
この一連の北条の行動を見ていると、できるだけ良い条件での和睦を模索していたのではないかと推察されます。
北条の勝算
北条氏も大軍勢を持っていたため、そう簡単には負けないだろうとの思惑があったと思われます。
『北条家人数覚書』という秀吉側の史料によると、北条は総勢3万5千騎もの軍勢を持っていたとされています。
「3万5千人」ではなく「3万5千騎」であるため、額面通りに読み取れば「騎馬武者が3万5千」という意味になりますが、実際には3万5千の正規兵+雇われの兵をあわせて5万人の兵がいたとも言われています。
さらに、北条が支配していた関東には、なんと50以上もの支城がありました。
そして、極めつけは北条氏の本拠地・小田原城です。
当時の小田原城は「総構え」とも呼ばれる、戦国時代最大の城郭を備えていました。
「総構え」とは、城郭だけではなく、城下町ごと城砦として取り囲むという超大規模な機構のことで、秀吉をもってしても力では落とすことができなかった、まさに鉄壁の要塞だったのです。
以上のように、大軍勢に加えて堅固な総構えの小田原城も有していた北条氏には、いくら天下人の秀吉でも簡単には落とせないだろうとの算段はあったのでしょう。
また、結果的には当てにはなりませんでしたが、東北には氏直と交友関係のあった伊達政宗もおり、彼の力も借りれば「判定勝ち」には持ち込めるのではないかという計算はあったのかもしれません。
秀吉の大軍勢・戦国オールスター
先程ご紹介したとおり、北条には3万5千騎の正規兵がいたという話があります。
しかし、天下人・秀吉の陣立ては、なんと22万2000騎とされており、まさに桁違いの軍事力を誇っていました。
小田原征伐に参加した秀吉軍の内訳を見てみると、徳川家康・織田信雄・前田利家・上杉景勝といった、まさに「戦国オールスター」とでも言うべき豪華なメンバーが揃っていました。
人数にして30万人はいたとも思われます。
北条の支城は瞬く間に落とされ、50以上もあった城のうち残ったのは小田原城と忍城(おしじょう)の2つだけでした。
武田信玄・上杉謙信といった猛将たちを退けてきた北条でしたが、さすがの秀吉には歯が立たなかったようです。
【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由│まとめ
圧倒的兵力差がありながらも秀吉との戦闘を選んだ北条の決断についてわかりやすく解説しました。
いくら総構えの小田原城や50もの支城を擁していても、やはり秀吉相手には敵わなかったようです。
これまで「暗愚」と言われてきた北条氏直ですが、天下人・秀吉率いる「戦国オールスター」に立ち向かったという点では、「最後の戦国大名」と言ってもいいのではないでしょうか。
今後、氏直の再評価が進むことに期待したいと思います。
▼主な参考文献