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『中宮定子』一条天皇に愛された悲劇のプリンセス
一条天皇の寵愛を一身に受けた藤原定子(ふじわらのさだこ/ていし)は、中宮としての華やかな生活は長く続かず、一族の没落と共に若くしてこの世を去った悲劇の女性として知られています。
一般的には、彼女や彼女の生まれた中関白家の凋落・藤原道長の台頭という時代の流れに翻弄されるがままだったという印象が強いかもしれません。
しかし、藤原定子は、ただの薄幸で貧弱な女性ではなく、自身に降りかかる災難に対しても強い意志を持って逆らい、必死に運命に抗おうとしていたことが伺えるのです。
今回は、そんな不幸に見舞われながらも力強く生きた、藤原定子の生涯について解説します。
一条天皇に入内…定子と中関白家の栄光
藤原定子は藤原道隆の娘として生まれ、成長するとすぐに一条天皇に入内しました。
定子は、その生涯を通じて世間からの冷たい批判に晒され続けますが、そうしたビハインドはこの入内の時には既にあったようです。
父・道隆の強引なやり方で定子は皇后になることができましたが、皮肉にもこれが定子へのバッシングの始まりでした。
この章では、藤原定子が一条天皇の皇后となった経緯と、その後の定子の実家・中関白家の栄光の日々についてご紹介します。
強引な立后でバッシング
一条天皇の妻となることができた定子ですが、この時の定子の立場は天皇の正妻である「皇后」ではなく、より立場の低い「女御」でした。
当時のルールにより、先々代の皇后の后「太皇太后」・先代の天皇の后「皇太后」・現役の天皇の后「皇后」のいわゆる「三后」のみが皇后として扱われることとされていました。
この頃は天皇の代替わりのスピードが早く、第63代・冷泉天皇の后・昌子内親王と第64代・円融天皇の皇后だった遵子が存命だった上、女御の詮子も皇子を産んだ妻として特別に皇太后の称号を与えられていたため、三后に空きがない状況だったのです。
本来であればこの三后のうち誰かが崩御しない限りは定子を皇后とすることはできなかったのですが、定子の父・道隆はこのルールを破って定子を「中宮」として立后してしまいました。
「中宮」とは、本来皇后が住まう場所を指す言葉でしたが、次第に皇后そのものを指す呼び名となっていきました。
道隆はこれに目をつけ、「中宮」を皇后と並ぶ新たな称号として位置づけ、そこに定子を入れるという強引な手法を思いついたのです。
このやり方では、前例を重んじる保守的な平安貴族たちの理解を得られるはずもなく、道隆の弟である道長ですらも、定子の立后を祝う式典への参加を拒否したほどです。
定子は負けず嫌い?
こうして、娘を一条天皇の后にすることに成功した道隆とその家族・中関白家は、世間の冷たい逆風に晒されながらの栄光の日々が始まります。
彼らの華やかな日々は、定子に仕えた女房・清少納言の『枕草子』に記述されています。
その中でも定子と清少納言らの楽しいひとときが伺える「雪山の賭け」の話をご紹介しましょう。
12月のある日、大雪が降り、テンションが上がった定子と清少納言たちは、家来の侍なども動員して大きな雪山を作らせました。
出来上がった雪山を見た定子は「雪山はどれぐらいの期間保つでしょうか?」と発言。
周りにいた女房たちが口々に早めに解けると予想する中、清少納言は「正月を越えても保ちます」と返します。
こうして、各自が雪山の残り具合を予想して賭け、定子が勝者に褒美を与えるという遊びが始まりました。
1月15日まで雪が残ると予想した清少納言は当初、長く見積もりすぎたと後悔しますが、再び大雪が降ったことによって解けかけた雪山の大きさも戻り、清少納言は勝利を確信します。
このままだと定子が清少納言に褒美を与えなければなりませんが、定子は「後から降った雪はノーカンね!当初の雪だけで勝負よ!」と言い、雪山に積もった新雪を取り除かせてしまいました。
こうした定子の妨害(?)に反して、雪山は清少納言の予想の前日である1月14日まで残り、いよいよ勝利を確信した清少納言ですが、決着の15日朝には雪山が消えてなくなっていました。
賭けに負けた上に勝利の歌まで用意していた清少納言は、不貞腐れながら定子にこのことを言うと、定子は「負けるのが嫌で夜中のうちに雪山を撤去させた」と白状。
その場にいた一条天皇も、定子のあまりの負けず嫌いに思わず笑ってしまったといいます。
このように、『枕草子』には定子の楽しかった日々の出来事がありありと綴られており、そこからは定子の意外な性格も垣間見えるのです。
定子と清少納言の心温まるエピソードと、そこから『枕草子』がいかに誕生したかについては、こちらの記事で解説しています。
『枕草子誕生!』清少納言が描いた中宮定子との美しき日々
内裏で放火
ある日、天皇の住まう内裏が放火されるという前代未聞の大事件が起こりました。
これは、前例を無視して身内を急速に出世させた道隆への世間の反感の現れであり、中関白家に対する反体制運動とも取れる事件です。
『枕草子』には楽しかった頃のエピソードばかりが書かれていますが、その裏ではこのような悲しい出来事も起きており、中関白家の栄光には常に影がつきまとっていたと言えるでしょう。
中関白家の没落…定子の苦難
華やかで楽しい定子の宮中での生活は長くは続きませんでした。
父の死や兄弟たちの不祥事などもあり、定子の一家・中関白家は急速に落ちぶれていくことになります。
父・道隆の強引なやり方で築かれた定子らの栄光は、前述のとおり貴族たちの大きな反感を買っており支持者も少なかったため、非常に脆いものだったのです。
この章では、中関白家の没落と、定子に降りかかる災難の数々をご紹介します。
父・道隆の死
栄光の中関白家の瓦解は、当主・藤原道隆の突然の病死から始まります。
酒好きで有名な道隆だったため、一説には糖尿病だったとも言われています。
関白・道隆の強権に依存していた中関白家の栄華は、大黒柱を失い凋落の一途を辿ることになるのです。
穢れているのに参内強行
定子は内裏を離れて実家に戻り、そこで父の死を看取りました。
さて、平安貴族を支配していた考え方として「穢(けが)れ」というものがあります。
死や血にまつわるものに近づいた者は「穢れ」ているため、神聖な内裏に入るには「穢れ」を祓ってからでなければなりません。
父の死を看取った定子は当然「穢れ」ていたため、本来ならば30日ほどの謹慎を経なければ内裏に入ることは許されませんが、定子は父の死後2日という異例のスピードで参内してしまいました。
そして「穢れ」は伝染するものと考えられていたため、内裏にいた多くの貴族も定子によって「穢れ」てしまい、彼らは自宅謹慎を強いられることになりました。
結果として儀式や政務が執り行えず、政が大いに滞ることになってしまうのです。
定子がこのような非常識な行動をとってしまった理由として、もしかすると父の死により揺らいだ中関白家の基盤を早く盤石なものにしたいという思いが強すぎたのかもしれません。
兄弟の失脚・定子の出家
亡き父・道隆の願いは叶わず、最高権力者の座は息子の伊周ではなく弟の道兼、そして道長へと受け継がれていくことになります。
関白・道隆の長男であるにも関わらず権力を手にできなかった伊周ですが、ここで決定的な過ちを犯します。
弟の隆家とともに、前天皇・花山院との間で乱闘に及び死傷者を出す「長徳の変」を起こすのです。
伊周は太宰府へ、隆家は出雲へと左遷され、中関白家は致命的なダメージを負うこととなってしまいました。
伊周が太宰府へと送られる際、都を離れたくない彼は定子の住む邸宅へと身を潜めますが、伊周捜索のためなんと検非違使により定子の邸宅が破壊されるという悲劇も起こりました。
兄たちの左遷と自邸の破壊がショックだったのか、定子はなんとこの時に出家をしてしまいます。
この行為には、定子なりの抗議のような意図もあったのかもしれません。
自身の傲慢さから招いた数々の事件によって転落していった伊周については、こちらの記事で紹介しています。
『藤原伊周』藤原道長のライバルだったのに…残念すぎる転落人生を解説
内裏焼亡 定子のせい?
現役の皇后による出家という前代未聞の決断は、定子にとっては決して事態を好転させるものではありませんでした。
出家をして俗世を離れた人物が内裏に入って天皇に会うことは固く禁じられていましたが、定子は出家後も相変わらず参内を続け、一条天皇との間にのちの敦康親王をもうけるなどしたため、またしても公卿たちから顰蹙を買ってしまいました。
こんな折、内裏で火事が発生。そのまま焼亡してしまいます。
この悲しい火事にも、「出家した定子が参内したから神の怒りに触れたのだ」と噂されるなど、定子に同情が集まることはなかったようです。
彰子の入内・定子の崩御
家族や彼女自身の行いによって、一条天皇に入内してからの定子は常に世間の冷ややかな視線に晒されていましたが、最期もまた悲しいものでした。
彼女は自らの死を予見しているかのような言動をとっており、自らの死に際してもその強い意志を見せていたようです。
最後に、自らの意志を貫き続けた定子らしい遺言にも触れつつ、彼女の短くも波乱に満ちた生涯の最期をご紹介します。
道長の娘・彰子が入内
定子の生まれた中関白家の政敵である藤原道長が、娘・藤原彰子を一条天皇に入内させます。
かつて道隆がルールを捻じ曲げて娘・定子を皇后に立てたのと同様に、道長も前例を破って「一帝二后」という荒業をやってのけます。
この時、中宮・定子と皇后・遵子はともに出家済みのため、「出家していない皇后を新たに立てなければならない」という言い分を道長に与えてしまったのです。
こうして、道隆が創設した「中宮」職の前例にならい、中宮だった定子は皇后へと立場を変えられ、空いた中宮の座に彰子が入ることになりました。
道隆の定子立后や定子の出家といった強引で常識を顧みない行為が、結果的に政敵である道長に口実を与え、中関白家の首を絞める結果となってしまったのは皮肉ですね。
ライバル・彰子登場によりピンチに
この「一帝二后」の状況は、定子にとっては大変不都合なものでした。
定子はこの時既に敦康親王を産んでいましたが、彼はこのまま何事もなければ有力な天皇候補となります。
しかし、彰子が新しく「后」となり、一条天皇と彰子の間に男子が生まれた場合、敦康親王はその子と皇位を争う関係になります。
政界の中心人物である道長が後見する彰子の子と、凋落中の中関白家が後見する敦康親王。どちらが皇位にふさわしいかは火を見るよりも明らかと言えます。
定子は大いに焦ったことでしょう。
定子崩御
その後、定子は一条天皇との間に、第三子となる媄子(びし)を身ごもりました。
媄子の出産には成功した定子でしたが、後産が降りず、定子はそのまま帰らぬ人となりました。
享年25。一条天皇に誰よりも愛された后の、あまりにも早すぎる死でした。
遺詠
定子は媄子の出産によって自らの命が尽きることを覚悟していたのでしょうか、出産の前に遺詠、つまり遺言となる和歌を三つ詠んでいます。
そのうちの一つから、高貴な人の葬り方の通例だった火葬ではなく、土葬を希望していたことが伺えます。
煙とも 雲ともならぬ身なりとも 草葉の露を それとながめよ
<訳>
煙や雲にはならない我が身ですが、草葉に滴る露を私と思って眺めて下さい。
この遺詠通り、定子は鳥辺野(京都市東山区 清水寺あたりにある葬送地)に土葬されました。
火葬されて煙として天に昇るよりも、土に還ってこの世に留まっていたかったのでしょうか。
愛する一条天皇や若い三人の子を残してこの世を去る無念さが伝わってくるようですね。
定子が葬送された頃、一条天皇はこのような歌を詠んでいます。
野辺までに 心ばかりは 通へども わが行幸とも 知らずやあるらん
<訳>
鳥辺野に心を通わせることはできたとしても、私がそこへ行ったことをどうやってお前が知るのだ。
天皇は「穢れ」に触れないようにするため、葬儀への参列を許されていません。
当時の天皇は内裏から遠くに登っている煙を眺めて心の整理をしていたのかもしれませんが、一条天皇にはそれすら叶いませんでした。
もしかすると、愛する定子に天に昇ってほしかった一条天皇の「なんでそんなこと言うんだよ」という抗議の歌だったのかもしれません。
『中宮定子』一条天皇に愛された悲劇のプリンセス│まとめ
藤原定子の生涯を振り返ってみると、ただ運命に翻弄されるがままの薄幸なプリンセスというわけではなく、常に自らの意志で行動した人物であったことが伺えますね。
大河ドラマ「光る君へ」でも、自らの運命に懸命に立ち向かう定子がどのように描かれるのか楽しみですね。