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織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る
天下人・織田信長とその長男・織田信忠を自害に追い込んだ悲劇・本能寺の変は、日本史最大のミステリーとして多くの謎を残している事件です。
織田家家臣でありながら、本能寺の変の首謀者として、後世まで語り継がれる裏切り者の名は明智光秀。
首謀者の名が判明しているにも関わらず、日本史最大のミステリーと言われる理由には、本能寺の変を起こした動機について、謎が多すぎることにあります。
しかも、実際の裏切り者は豊臣秀吉で、彼が黒幕なのではないか、とする意見も。
今回は、本能寺の変が起きた理由、明智光秀と織田信長の真相について詳しく解説していきます。
本能寺の変とは?簡単におさらい
1582年(天正10年)6月2日に京・本能寺で起きた悲劇。
織田家家臣・明智光秀が、主君であり、天下人である織田信長を就寝時に襲撃した事件。
織田信長とその長男・織田信忠が亡くなったこの事件は、日本歴史の分岐点と言っても過言ではありません。
では一体、本能寺の変は何故起きたのでしょうか。
本能寺の変が起きた背景
そもそも安土城・岐阜城と堅牢な城を所持している織田信長が、お寺に宿泊していたのは何故なのでしょうか。
実は、織田信長は、1582年(天正10年)5月に、中国地方で毛利家と戦う豊臣秀吉から、援軍の要請を受けています。
そこで、織田信長自ら出向くことを決め、安土城を出立して中国地方へ向かう道中、少数の兵と共に宿泊していたのが本能寺でした。
織田家家臣が日本各地に散り散りとなり天下統一を進める中、近畿地方の管理を任されていた明智光秀にとって、織田信長を討ち取るためには絶好の機会だったというわけです。
豊臣秀吉に加勢すべく中国地方に向かうと見せかけていましたが、本能寺を襲撃します。
何をしていた?豊臣秀吉ら織田家家臣団の状況
主君が襲撃されている際、織田家家臣は何をしていたのでしょうか。
それぞれの状況を詳しく見ていきます。
・後の天下人・豊臣秀吉:中国地方で毛利家と戦闘中
・筆頭家老・柴田勝家:上杉家が統治する越後にて戦闘中
・織田信長の三男・神戸信孝:兵力を預けられ、四国制定の準備中
このように、有力家臣達は各地に点々としており、織田信長の救出へ向かうことは困難な状況にありました。
壮絶!織田信長の最期
「是非に及ばず」
信頼していた家臣から裏切られ、その相手が明智光秀であると知った織田信長が放った言葉です。
明智光秀に襲撃された織田信長は、本能寺に火をかけ、明智軍に反撃したと言われています。
しかし、勝機がないことを悟ると自害。
彼の遺体が見つかることはなく、首が晒されることもありませんでした。
壮絶な最期を迎えた織田信長について、もっと知りたい方はこちらの記事をご確認ください!
織田家のルーツ!若き織田信長『下剋上』&『兄弟殺し』家系図も紹介
裏切り者・明智光秀の生涯と織田信長との関係
明智光秀の生涯については、史料が少なく、よく分かっていない部分が多いです。
特に前半生は謎だらけで、生まれた時の身分が高いとも低いとも言われています。
そんな明智光秀の生涯と織田信長との関係について、詳しく見ていきましょう。
低い身分の生まれ?明智光秀について
明智光秀の出自については、身分の高い武家・名門土岐氏の流れを汲む明智家の出身だという説、足利将軍家に仕える身分の低い足軽だったとされる説が存在します。
父親すら誰であったかが不明で、その存在が出生の時点で謎に包まれていることが分かります。
その後の人生においても、仕官先について、齋藤道三率いる齋藤家、朝倉義景率いる朝倉家、将軍・足利義昭への従属を経て、織田信長に仕えたとされていますが、詳細は不明です。
感謝の手紙まで書いた織田信長との関係
1581年(天正9年)に明智光秀は織田信長に手紙を書いています。
『水に沈んだ瓦礫のように落ちぶれていた自分を拾い上げてくれたのは、信長様だった』と綴られており、深い感謝の気持ちが伝わる内容です。
自身の部下へも織田信長に忠義を尽くすよう伝えており、強い忠誠心を持っていたことが分かります。
しかし、一方で、織田信長から多くの指示を受けており、戦に明け暮れる毎日であったと言われています。
三日天下と呼ばれる明智政権
最終的に山崎の戦いにて果てる明智光秀ですが、本能寺の変後の2週間ほどは政権を握っていました。
織田信長の私財を含めた金銭を朝廷に差し出し、自分を正当な支配者として認めるよう願い出ました。
しかし、それを後の天下人・豊臣秀吉が許すはずもなく、最終的に明智光秀が日の目を浴びることはありませんでした。
山崎の戦い、明智光秀の最期
主君の仇討ちとして豊臣秀吉が起こした山崎の戦い。
豊臣秀吉は中国大返しと呼ばれる大移動を遂げ、決戦の地・山崎にて明智光秀と相対します。
明智軍は奮闘虚しく敗戦。
明智光秀は敗走しているところで落武者狩りに遭い、その生涯を終えました。
明智光秀について、もっと知りたい方はこちらの記事をご確認ください!
明智光秀は生きていた?天海との同一人物説は濃厚か?
明智光秀が本能寺の変を起こした動機
織田信長への感謝を手紙に綴る程、強い忠誠心を持っていた明智光秀。
近畿地方を任され、重臣として取り立てられていたにも関わらず、織田信長を襲撃した動機は何だったのでしょうか。
日本史最大のミステリーと言われるように、真相は明らかになっていません。
しかし、当時の状況から、考えられる説がいくつか存在するため、一つずつ紐解いていきましょう。
動機①明智光秀の怨恨・ノイローゼ説
最も有名で、一般的に広く認知されている動機として、明智光秀の怨恨・ノイローゼ説が挙げられます。
この頃の明智光秀は大阪本願寺との戦闘・丹波平定を終えたばかりでしたが、息着く間も無く豊臣秀吉に加勢するため、中国地方に出向くよう指示されています。
また、徳川家康の接待のために用意した料理が腐っており、周りに人がいる中で、織田信長に暴力を振るわれたという逸話も有名です。
このようなハラスメントと度重なる戦闘によるストレスで、明智光秀の堪忍袋の尾が切れてしまったとしても不思議なことではありません。
動機②明智光秀の野望説
明智光秀は織田信長の元で多くの任務を全うしています。
そこまでして働くのは、織田家のためでは無く、自分自身の権威のためであったと考える野望説。
織田信長への感謝こそあれど、自分自身が天下人となりたいという野望を日頃から抱いていた折に巡ってきた千載一遇の機会を、掴み損ねたくなかったとも考えられます。
しかし、計画性が無さすぎるのではと指摘されることが多い説でもあります。
動機③織田信長の暴走阻止説
近年、支持されつつあるのが、織田信長の暴走阻止説です。
織田信長が台頭するまで保たれていた大名・朝廷・幕府のバランス。
しかし、織田信長は慣例に捉われない革新的な方針を採用していたため、朝廷や幕府の存在を蔑ろにしていると考えられても仕方のない状況でした。
更に、日本を統一した後には隣国・明を征服する計画も企てており、戦乱の世が収まる気配はありませんでした。
明智光秀が正義感の強い人物だったとすれば、自分自身の身を挺して織田信長の暴走を阻止し、朝廷と幕府の役割を元に戻そうとしたと考えることが出来るでしょう。
動機④長宗我部元親が関係!四国説
土佐に君臨する武将・長宗我部元親。
織田信長とも懇意にしており、四国全体の管理を任されていましたが、土佐隣国を治める三好氏などを取り込み、勢力を伸ばすと、織田信長は危機感を抱き、意見を変えます。
織田信長が、長宗我部元親は四国全体では無く、土佐のみを治めるよう伝え直すと、長宗我部元親は異論を唱えたため、一触即発の状態に。
この時、織田家と長宗我部家の間を取り持っていたのが明智光秀だったため、板挟みとなった結果、四国を守るために、織田信長に反旗を翻したとされる四国説。
ただ、長宗我部元親から織田信長に宛てた手紙が近年発見されており、織田信長に従うという内容が記されているため、真偽の程は定かではありません。
動機⑤黒幕説
明智光秀を操り、織田信長を陥れた黒幕がいるのではないかとする説です。
この黒幕の候補として名が挙がるのは、豊臣秀吉・徳川家康・朝廷・将軍・イエズス会です。
その中でも、結果的に最も本能寺の変による恩恵を受けている人物・豊臣秀吉が黒幕と考えることが多いとされています。
豊臣秀吉は、共謀するはずの計画を、途中で裏切ったのではないかと推察されています。
明智光秀と本能寺の変!黒幕は誰?織田信長の謎と真相に迫る|まとめ
本能寺の変を起こし、裏切り者として後世に名を残す明智光秀。
真相は明らかになっておらず、謎多き人物ですが、本能寺の変を起こした動機として考えられる要因は、多岐に渡ります。
動機は1つだけというわけではなく、複数の要因が重なり、謀反計画を生み出したと考える方が自然かもしれません。
三日天下と呼ばれるほど短い天下人期間でしたが、その間彼は何を考え、日本をどういった姿にするつもりだったのでしょうか。
外様の出という立場でありながら、その能力と忠誠心を買われ、織田家家臣として重用された明智光秀が描いた日本の未来が、実現することはありませんでした。
明智光秀と本能寺の変の真相は、彼が描いていた日本の未来の姿の中にあるのかもしれません。