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本能寺の変は明智光秀と徳川家康の共謀か!?【徳川家康黒幕説】
1582年6月2日早朝、織田信長を明智光秀が襲撃するという大事件が発生しました。
「本能寺の変」です。
光秀の謀反の理由は信長への怨恨や恐怖など様々言われていますが、実は、明智光秀と徳川家康の共謀だったのではないかという「徳川家康黒幕説」も存在するのです。
「家康が黒幕!?」と驚かれる方もいるかもしれませんが、背景や結果を考えると興味深い事実が見えてきます。
なかなか耳慣れない光秀と家康の共謀説ですが、二人の関係を紐解き、家康黒幕説の可能性についてわかりやすく解説します。
目次
本能寺の変へと繋がる明智光秀と徳川家康の接点
共に織田信長の家臣として活躍した明智光秀と徳川家康。
様々な史料を読み解いても、実際は二人の接点はほとんどなかったということがわかります。
しかしほぼ唯一ともいえる接点が、本能寺の変直前の1582年5月、信長の居城・安土城でありました。
安土城での接待
本能寺の変の直前、明智光秀と徳川家康が顔を合わせている記録があります。
安土城での接待です。
長篠の戦いの後、織田信長は嫡男・織田信忠を総大将とし、甲州征伐に取り掛かりました。
補足:甲州征伐
1575年・長篠の戦いで大打撃を受けた武田勝頼を、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が攻め滅ぼした一連の合戦。1582年・天目山の戦いで武田家は終焉を迎える。
ついに天目山の戦いで武田勝頼を自害に追い込んだ織田信長。
安土城までの帰路で、家康による大変丁寧な接待を受けました。
家康は戦に勝利した信長へ祝福の意をあらわし、信長の通る街道を整備し、休憩処や食事処を作るなど、信長に快適な旅路を提供したのです。
それを喜んだ信長は、家康を安土城に招待します。
この時の饗応役(家康接待の仕切り役)に選ばれたのが明智光秀でした。
明智光秀の用意した魚が腐っていた!?
織田信長の命で饗応役となった明智光秀は、徳川家康を丁重にもてなし接待をしました。
しかし冷蔵庫もない戦国時代の初夏。
光秀の用意した魚が腐ってしまったのです。
それに激怒した信長は光秀に罵詈雑言を浴びせ、暴力を振るったと伝わります。
そして光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉の援軍として出陣するよう命じられました。
大役である饗応役の解任だけでなく、家臣として肩を並べていた秀吉の援軍につくということは、光秀にとってこの上ない屈辱だったことは想像に難くありません。
今まで積もっていた信長への不信感がこの出来事がきっかけで爆発し、光秀が謀反を決めたとするのが光秀怨恨説です。
明智光秀と徳川家康の本能寺の変共謀説
安土城での接待以外、ほとんど接点がなかったといえる明智光秀と徳川家康。
なぜ、この二人が共謀し本能寺の変を起こしたとされる「徳川家康共謀説」が存在するのでしょうか?
「徳川家康共謀説」を採用する漫画に『信長を殺した男』(秋田書店)があります。
この漫画のストーリーを元に徳川家康黒幕説を解説します。
織田信長の唐入り計画
『信長を殺した男』では、織田信長が現在の中国・明の国を征服し、自分は皇帝になる野望をもっていたという「唐入り説」を採用しています。
信長は日本中の敵を全員倒した後は国内を嫡男の織田信忠に任せ、自分は明を支配するといって、戦を繰り返し暴走していたというのです。
そして、信長の傍若無人な態度をなんとか止めたい、唐入りをなんとか中止させたいと思っていたのが明智光秀でした。
後の秀吉の朝鮮出兵のことを考えても、現代の私たちから見れば信長の唐入りは無謀であることは間違い無く、無理なストーリーではないですよね。
徳川家康暗殺計画
自身の唐入りを果たすため、日本中の敵を潰しておきたかった織田信長。
幼い頃に織田家の人質であり、現在も領地が隣り合っていた徳川家康を煩わしく思うようになりました。
共に戦った甲州征伐の際も、家康の才覚を目の当たりにしていたのでしょう。
織田家で徳川家康暗殺計画が持ち上がるのです。
将来、自分の脅威になるであろう家康を信長は早々に殺してしまおうと思ったのですね。
ここで信長の唐入りを止めたい明智光秀と、信長に殺されたくない徳川家康の思惑が一致し、共に織田信長を倒そうと二人が謀ったというのが『信長を殺した男』でのストーリーです。
本能寺の変の成立の条件
織田信長だけを殺しても、家督を譲り受けている織田信忠を殺さなければ本能寺の変は成立しません。
信忠は甲州・武田攻めで武田勝頼を倒し武田家を滅亡させた際の総大将です。
実力は申し分なかったということですね。
信忠は信長から信頼され、織田家を完全に任されていると言っても過言ではありませんでした。
仮に信長を殺すことに成功したとしても、それだけでは家臣である光秀などはすぐに信忠に滅ぼされてしまうのは、誰の目から見ても明らかでした。
本能寺の変では、信長だけでなくその後継者である信忠をも同時に殺さなければならなかったのです。
徳川家康と織田信忠の堺見物
1582年5月、安土で接待を受けた直後の徳川家康は、織田信忠と共に織田信長の命で大阪・堺の見物に出かけることになっていました。
この堺見物こそが、本能寺の変を起こすのにまたとない好機であると明智光秀と家康は考えます。
堺では家康も信忠も当然、大軍を連れて行くことはできません。
家康は堺で無防備な信忠を暗殺することができると考えました。
一方の光秀は、豊臣秀吉の援軍として中国地方に出兵するため軍備を整えていました。
そしてちょうどこの時、織田信長の重用する家臣たちは信長の天下統一に向けて全国に散らばっていたのです。
光秀は信長の守りが手薄になっているこのタイミングで、簡単に信長を殺すことができると考えました。
家康と信忠の堺見物は、光秀と家康にとって本能寺の変を起こすのにまさに絶好のチャンスだったのです。
織田信忠が帰京し本能寺へ
織田信長より徳川家康暗殺計画を聞かされている織田信忠にとっても、家康が無防備になる堺見物はまたとないチャンス。
信忠は見物の途中で家康を暗殺しようとしていました。
しかし、お互いが疑心暗鬼になっていたのでしょうか。堺見物の最中、家康は信忠に暗殺されることを大変警戒していました。
家康の様子を怪しんだ信忠は、堺に留まるという本来の予定を変更して信長のいる京都・本能寺に帰ってしまったのです。
家康は信忠を殺すことができなくなってしまいました。
光秀は本能寺にいた信長だけでなく、信忠までも襲撃することとなり、結果として本能寺の変は光秀の単独犯となりました。
堺に留まった家康は信忠を殺すことはできず、事実上本能寺の変には関係がなくなってしまったというのが『信長を殺した男』での展開です。
本能寺の変の徳川家康黒幕説には無理がある!?
信長を殺したい明智光秀と信長に殺されたくない徳川家康の思惑が一致し、本能寺の変を起こそうとしたという徳川家康黒幕説。
大変ドラマチックとも言えるこの説ですが、そもそもその発端とされる家康暗殺計画には無理があるのではないでしょうか。
家康暗殺は織田家にとってメリットがない
本能寺の変が起こったタイミングは、武田家が滅亡した後の旧武田領の支配をどうするのかという問題が勃発していた時期です。
旧武田領を巡っては、関東の北条家、越後の上杉家、そして徳川家が拮抗し、いつ争いが起きてもおかしくないともいえる状態でした。
関東方面が盤石でなかったこの時期に、信長と共に武田攻めをしていた家康を殺すことは、織田家にとってメリットは少なかったといえます。
このような理由から家康暗殺計画の存在そのものが疑わしいという結論になってしまいます。
本能寺の変は明智光秀と徳川家康の共謀か!?【徳川家康黒幕説】|まとめ
本能寺の変は、明智光秀と徳川家康が共謀して起こしたとする徳川家康黒幕説。
『信長を殺した男』でのストーリーを元にあらましを解説してきました。
とてもドラマチックな展開ともいえる徳川家康黒幕説ですが、残念ながらその展開には無理があると言わざるを得ません。
とはいえ、光秀が本能寺の変を起こした理由は謎に包まれているのは事実です。
様々な説が存在する本能寺の変。
読者の皆さんはどのように考えますか?