- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 【簡単解説】保元の乱・平治の乱とは?起きた背景や対立関係を紹介!
【簡単解説】保元の乱・平治の乱とは?起きた背景や対立関係を紹介!
保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)とは、源義朝(みなもとのよしとも)と平清盛(たいらのきよもり)による平安時代を代表する大きな政権争いである「源平合戦」に繋がる政変です。
平安時代を学ぶ上で外せない大きな出来事ですので、この政変の流れ全体を理解しておくことは大切です。
本記事では、保元の乱・平治の乱とは一体なんなのか、争うことになった背景、対立関係を要約解説していきます。
平安時代の全体像を復習した上で、保元の乱・平治の乱をおさらいしていきましょう。
保元の乱とは?
保元の乱とは、1156年7月に後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇位継承争いのことを指します。
これにより、朝廷は後白河天皇と崇徳上皇に分裂され、それぞれに付いた武士や貴族等が陣営を作り、戦が勃発することになるのです。
鳥羽法皇の皇位継承をめぐる争い
鳥羽天皇(とばてんのう)は、堀河天皇(ほりかわてんのう)の皇子であり、白河天皇(しらかわてんのう)をついで鳥羽院政を行いました。
鳥羽上皇は上皇の立場であり続けたい為に崇徳天皇(すとくてんのう)とは不和、皇位継承をめぐって対立します。
鳥羽上皇が病によって亡くなった直後、崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原摂関家の内紛が混合した保元の乱に発展してしまったのです。
後白河天皇側と崇徳上皇側の対立
崇徳上皇と後白河天皇は、鳥羽上皇の息子であり兄弟関係でした。
なぜこの2人が争う関係になったかというと、兄・崇徳上皇が院政を敷いて政権を握ろうと目論んでいたものの、弟・後白河天皇が即位したことで崇徳上皇は院政ができなくなってしまったからです。
院政は、家父長制であり家父長として天皇を後見する立場から政治の実権を握るという形のことを指します。
そのため、崇徳上皇が院政を行うには自分の息子を即位させる必要があり、その父として天皇である息子を後見する立場に立つ必要があったのです。
後白河天皇も、当然同じことを考えており両者は対立することで起こった争いが保元の乱です。
平治の乱とは?
平治の乱とは、1159年に起きた後白河天皇の側近2人である信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)の対立よって引き起こされた政変争いです。
ここからは、平治の乱が起きた背景や対立関係について解説していきます。
後白河法皇の院政をめぐる争い
後白河天皇は、わずか3年という短い在位のあと34年間の長い院政を敷いた天皇です。
保元の乱に勝った後白河天皇は退位して院政をはじめましたが、院近臣や武士のあいだで権力争いが激しくなっていきました。
源氏と平氏が対立して平氏が勝利
平治の乱では源氏と平氏が敵対し、平清盛を中心とする平氏が勝利しました。
藤原信頼は、平清盛が権力の中心に近いことを心配し、褒美が少ないことに不満をもっていた源義朝に近づき信西と平清盛を倒すように仕向けたのです。
勝利した平氏の勢力は拡大し、棟梁である平清盛が武士として初めて太政大臣に任命されました。
平清盛が太政大臣に就任して平氏政権を確立
平家は平清盛の時代が全盛期といっても過言ではないでしょう。
有名な格言を残しており「平家にあらずんば人にあらず」という言葉があります。
保元の乱・平治の乱に勝利したことで、平清盛は「平家でなければ人ではない」という格言を世間に広く知れ渡らせました。
平清盛については以下の動画でも詳しく解説していますので、こちらも併せてご覧ください。
保元の乱・平治の乱から源平合戦へ
源平合戦はひとつの争いのことではありません。
武家の頭目である源氏と平家との間で1177〜1185年にかけて起きた数々の争いの総称になります。
「治承・寿永の乱」と呼ばれる事もあります。
源義朝や源頼朝など源氏の有力者が次々に没落
源義朝は平治の乱で平清盛に敗れ東国に逃れる途中、家臣である長田忠致(おさだただむね)の裏切りにより暗殺されという説が有力とされていますが、今では源頼朝の死因は落馬や病気・暗殺など色々な説があります。
源氏は一族間の争いもあって有力者が次々と減り、一族は衰退していきました。
平清盛や安徳天皇など平氏一門が権力を握る
平清盛は平氏の権力を強めるために、自身の孫である安徳天皇(あんとくてんのう)を即位させました。
平治の乱から約20年間続いたこの平氏の政権は、六波羅に屋敷を構えていたことから六波羅政権と呼ばれています。
その後、日宋貿易によって莫大な富を手にし、その地位を確立していきました。
源頼朝が挙兵して鎌倉幕府を開く
平治の乱で平清盛に敗れ島流しされた源頼朝はその後、約20年間を伊豆国で過ごし源氏再興の挙兵をしました。
源平合戦に勝利し平氏を滅ぼした源頼朝は征夷大将軍に就任し、武士による政治の鎌倉幕府が始まります。
源平合戦の最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」については、以下の記事で詳しく解説しておりますので、気になる方は是非ご覧ください。
壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説!平家軍の敗因はなんだった?
保元の乱・平治の乱とは?起きた背景や違い、対立図|まとめ
本記事では、保元の乱・平治の乱とは一体なんなのか、争うことになった背景、対立図を要約して解説しました。
最後におさらいしていきましょう。
保元の乱とは、1156年に起こった後白河天皇と崇徳上皇による政権争いで、きっかけは鳥羽上皇の政治の実権を握りたいということから始まり、鳥羽上皇の死後に新たな政権を誰が握るかということで起こった争いです。
そして、保元の乱の勝者である後白河天皇が政治の実権を握ることで、側近である信西と藤原信頼の対立よって引き起こされた政変争いが1159年に起きた平治の乱です。
保元の乱・平治の乱をきっかけに、武家の頭目である源氏と平家との間で1177〜1185年にかけて起きた数々の争いの総称を源平合戦と呼び、平氏を滅ぼし勝利した源頼朝が征夷大将軍に就任し、武士による政治の鎌倉幕府が始まりました。