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『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説
徳川家康・羽柴秀吉という、後に天下人となる2人がぶつかった有名な戦「小牧長久手の戦い」。
かつては「家康と共に戦っていた織田信長の息子・織田信雄が勝手に降参し、家康は泣く泣く負けを認めた」と言われたり、はたまた「秀吉は家康に勝ちきれなかった」と言われるなど、はっきりと勝敗がついていないとされる戦いでもあります。
しかし近年、小牧長久手の戦いに関する研究が進んでおり、徐々にその実態が明らかになっています。
今回は、そんな小牧長久手の戦いの勝敗はどちらに転んだのかについて考察していきたいと思います。
目次
小牧長久手の戦いのきっかけ①大坂城の築城
まずは、家康と秀吉が戦うに至った経緯を順を追って見てみましょう。
小牧長久手の戦いの発端は、秀吉による大坂城の築城でした。
一体、どのようにして大坂城の築城が小牧長久手の戦いへと発展したのでしょうか。ひとつずつ見ていきましょう。
秀吉の差配
小牧長久手の戦いの直前に、秀吉は「賤ヶ岳の戦い」でライバルの柴田勝家を倒し、反対勢力がほぼいなくなっていました。
この時の織田家は織田信雄が名目上の当主代行でしたが、実態は完全に秀吉が牛耳る体制になっていたのです。
勝家の滅亡後、秀吉は池田恒興と丹羽長秀に新たな領地を与えます。
清須会議の後に大坂を与えられていた池田恒興は、秀吉と敵対し死去した織田信孝のいた岐阜へと移動させられ、秀吉は空いた大坂を治めることになりました。
三法師と織田信雄の安土城退去
本能寺の変の丁度一年後の天正11年6月2日、秀吉は信長の一周忌法要を終えたタイミングで大坂に入ります。
これは、かつての主君である信長に対し義理を果たし、今後織田家は自分が運営していくという決意の表れと解釈することもできるかもしれません。
そして秀吉は、織田家の政庁である安土城にいた織田家の名目上の当主・三法師とその名代である織田信雄を安土城から退去させています。
これまでは、あくまでも「織田家の名代である信雄を補佐する」という名目で織田家の運営をしていた秀吉でしたが、ここにきて完全に織田家を乗っ取るような行動に出たのです。
天下人の証「朱印」
こうして信雄の力を上回った秀吉は、自分が天下人だと世間に知らしめていきます。
その一例として、この頃から、秀吉の出す書状には朱印と呼ばれる糸印が押されるようになります。
これは、信長も「天下布武」の朱印を使っていたように、自らが天下人であるという示威のための行為であるとも言われています。
織田信雄のvs秀吉対立姿勢
一方、安土城を退去させられた織田信雄も、秀吉の天下取りを指を咥えて見ていただけではありません。
秀吉の力には敵わず渋々安土城を退去した信雄ですが、彼は伊勢・伊賀・尾張の領国支配を盤石にし、秀吉に対抗しうる力を蓄えていきます。
また、信雄も秀吉と同様に、自らが天下人であるかのように「威加海内」と書かれた朱印を書状に押すようにもなりました。
「威加海内」とは、父・信長が使用したことで有名な「天下布武」と似たような意味を持つ言葉です。
これは「海内」、つまり日本に対して「威」を「加」えるというメッセージが込められています。
このように、織田家の当主代行である信雄も、秀吉に対して対立姿勢を全面に出すようになっていきました。
小牧長久手の戦いのきっかけ②三家老惨殺事件
大坂城を築城し、織田信雄を安土城から追い出し、天下人のような振る舞いを隠さない秀吉。
そんな秀吉の横暴に耐えかねた信雄は、ついに秀吉への宣戦布告ともとれる残虐な行動に出ます。
信雄は、自らに仕える三人の家老を惨殺するという凶行に及びました。
なぜこのような行動に出たのでしょうか。
この章では、信雄による「三家老惨殺事件」とその意義について解説します。
三家老のプロフィール
殺害された家老は、津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時の三人でした。
津川雄光は、元々は室町幕府将軍である足利氏の血を引く名門・斯波氏の人間でしたが、信長の下剋上にあい、改名し織田家に仕えていました。
岡田重孝は、信長の馬廻り、つまり警護役を務めていた信長の親衛隊的な人物です。
浅井長時は、浅井長政と名前が似ていますが、直接的な関係はわかっていません。
彼は惨殺事件の時にはわずか16歳という若さでした。
彼は、よほど優秀だったか、信雄と何らかのコネがあったものと思われます。
なぜ殺害?
彼ら三人の家老は、秀吉と茶会を催すなどしながら、信雄・秀吉の険悪な関係を取り持っていたと思われています。
そんな大変な仕事を担っていた彼らでしたが、突如秀吉に内通しているという疑惑がかけられます。
三家老に対し、秀吉との密通の嫌疑をかけたのが、もう一人の信雄家老・滝川雄利(かつとし)です。
雄利は三家老を「信雄・秀吉の間を取り持つという名目で秀吉に接近し、裏切ろうとしている」と密告したのです。
信雄はこの雄利の証言を信用し、それなりに実績もあったであろう三家老を惨殺するという決断を下したのです。
家康も関わっていた?
この事件の後、徳川家康が清州城に入り、信雄と会見し秀吉との共闘を誓います。
家康の清須入りは、三家老惨殺からわずか3日後のことでした。
事件の翌日には家康は清須へと移動しており、この手際の良さからも三家老惨殺事件に家康が関与しているという説も存在します。
打倒秀吉を持ちかけたのが家康だったのか信雄だったのかは分かりませんが、彼らが事前に示し合わせをしており、三家老惨殺がその合図のような役割を持っていたのかもしれません。
秀吉包囲網
こうして彼らは秀吉と戦っていくことになりますが、単純に「信雄・家康vs秀吉」という構図ではありませんでした。
織田・徳川だけでなく、徳川と婚姻同盟を結んでいた北条、四国の長宗我部、紀州の雑賀衆・根来衆、越中の佐々など、日本全国の反秀吉勢力を巻き込んだ大戦だったのです。
家康・信雄は、各地の勢力の調略にも成功し、この頃には「秀吉包囲網」とも呼べる、反秀吉の一大勢力が成立していたのです。
秀吉も、大坂に戻って中国の毛利の裏切りを警戒したり、常陸の佐竹に対して北条の抑えを要請したりしていることなどからも、小牧長久手の戦いが日本全土を巻き込むスケールだったことがよくわかります。
小牧長久手の戦い勃発
こうして、いよいよ小牧長久手の戦いが始まります。
小牧長久手の戦いは、あくまで現在の愛知県で起こった局所的な戦いに過ぎず、ここでの戦いが家康・秀吉の勝敗を決定づけたわけではありません。
しかしながら、日本全土を巻き込んだ秀吉vs家康の大戦の戦局に、小牧長久手の戦いが与えた影響が大きいのも事実です。
この章では、秀吉vs家康の勝敗に多大な影響を及ぼした小牧長久手での局地戦について解説していきます。
家康は小牧山城 信雄は長島城
家康は、尾張北部の小牧山城に陣取りました。
ここは、かつて信長が美濃を攻略する時にも使用していた城です。
家康は信長同様、美濃にいた秀吉勢力の池田恒興を攻めるために小牧山城を拠点に選んだものと思われます。
一方信雄は、長島一向一揆でも使われた、周りを海に囲まれた鉄壁の要塞・長島城に陣を構えました。
伊勢には秀吉に味方した滝川一益がおり、その牽制のために長島城に入ったと考えられます。
家康が拠点にしていた小牧山城は湿地帯にあり、美濃から進軍してきた秀吉方も攻めあぐねていました。
そこで秀吉軍は、小牧山城を迂回し岡崎城へと進軍するルートに変更。
この迂回ルートを進行する別働隊で大将を任されていた秀吉の甥・羽柴秀次(三好信吉)と、家康率いる軍勢が長久手の地でぶつかったのが「長久手の戦い」です。
この長久手の戦いで、秀吉軍は池田恒興とその嫡男・池田元助や森長可(ながよし)といった名のある武将を何人も失う損失を出しました。
ここで家康が秀吉軍の迂回作戦を阻止し、主力となる武将を何人も討ち取ったことが、小牧長久手の戦いの勝者が家康だと主張する根拠にもなっているのです。
家康の上洛意志
この大勝利に自信をつけた家康は、家臣の鳥居元忠・平岩親吉に宛てた手紙で上洛の意志を見せています。
かつて信長が足利義昭を奉じて上洛し天下人となったように、家康も信雄を担いで上洛して天下に号令をかけんとしたのです。
確かに、長久手の戦いはあくまで局地戦であり、家康が討ち取ったのは秀吉の別働隊に過ぎなかったのかもしれません。
ですが、家康はここでの勝利を高らかに喧伝し、自らの正当性を訴えたのです。
家康vs秀吉 正当性の主張合戦
家康は上洛の準備として、本願寺・高野山といった畿内の有力勢力に対しての調略も行っています。
もちろん秀吉も何もしていなかったわけではありません。
彼は京で朝廷工作を行い、自らの正当性をアピールします。
天正12年10月、朝廷工作が実った秀吉は、正親町天皇から五位少将に任官されました。
仏教勢力を味方に付けた家康に対抗し、秀吉も負けじと朝廷の権威をバックにつけることに成功します。
このように、小牧長久手の戦いでは、有力者の調略や朝廷工作といった、戦場外での激しい争いも繰り広げられていたのです。
こうした事実からも、秀吉と家康の戦いのスケールの大きさが再確認できます。
小牧長久手の戦いの勝敗
こうした場外乱闘が行われる中、もちろん戦場でも激しい攻防が繰り広げられていました。
しかし、ある男の意外な行動により、突如戦闘が終結に向かうことになります。
果たして小牧長久手の戦いの勝敗はどちらに転んだのでしょうか。
一進一退の攻防
家康は、北伊勢で滝川一益を降伏させることに成功。
このように、長久手の戦い以外でも家康は戦功を挙げています。
一方の秀吉も、家康方の竹鼻城を得意の水攻めで陥落させました。
信雄が家康に断りなく単独講和
各地でこうした一進一退が続く中、秀吉軍は信雄のいた南伊勢を攻略しました。
こうして、伊勢国内のほとんどが秀吉方の支配下となり、信雄は伊勢領主でありながら長島城で孤立してしまう形となったのです。
こうしたピンチの中、信雄は家康に断りなく、単独で秀吉と講和を結んでしまいます。
長久手や北伊勢で戦功を挙げ、上洛の意志も見せるなど高いモチベーションで戦っていたと思われる家康も、梯子を外された形となり戦闘の継続を断念せざるを得ませんでした。
信雄の判断は正しかった?
この単独講和が、信雄の評価を落とす大きな要因ともなっていますが、果たして彼の判断は本当に誤りだったのでしょうか。
信雄にしてみれば、周りを敵に囲まれた状況で戦うことは無理があったと言えるでしょう。
また、仮に信雄が講和せず戦闘を続行し討死した場合、戦の大義名分を失った家康も戦いを続けることが不可能なだけでなく、信雄を守れなかったとして人心が離れる結末にもなりかねません。
自分勝手な行動に見えてしまう信雄の単独講和ですが、彼なりに最善の決断を下したと言えるのではないでしょうか。
織田信長の次男というプレッシャーを抱えながらも、戦国乱世を自分らしくハチャメチャに生き抜いた男・織田信雄については、以下の記事で詳しく解説しています。是非こちらも併せてご覧ください。
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秀吉は家康・信雄から何人もの人質をとり、秀吉サイドに圧倒的有利な条件で講和が結ばれ、戦いは終結。
こうして、全国規模の秀吉vs家康の戦いは秀吉の勝利に終わりました。
豊臣秀吉の天下統一までの道のりは以下の記事からご確認ください。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
家康も良いところまで行きましたが、秀吉にあと一歩及ばなかったという所でしょうか。
畿内を抑えていた秀吉は圧倒的な国力を有しており、仮に戦を続行していても家康・信雄方の勝利は難しかったでしょう。
しかし、ただでは転ばないのが徳川家康という男です。
家康はこの戦いによって、局地的な勝利よりも、上手く根回しをして味方を付けることの重要性を学んだのではないでしょうか。
この教訓が、のちに関ヶ原の戦いで、次々と味方を増やして大勝したことに繋がったという見方もできます。
勝敗こそ秀吉に軍配が上がったと言わざるを得ませんが、負け戦から学ぶことは大きいということが改めてわかる一例ですね。
関ヶ原の戦いの名将、徳川家康と石田三成を比較した記事もございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
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