- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 松平氏の始まりは謎の浪人?徳川になる前の家康のご先祖を系図を使って解説!
松平氏の始まりは謎の浪人?徳川になる前の家康のご先祖を系図を使って解説!
江戸幕府初代将軍・徳川家康。
実は徳川は改姓後の姓。もともとは松平と名乗っていました。
大河ドラマ「どうする家康」でも、当初は松平元康と名乗っていましたよね。
そもそも松平氏とはどういう一族だったのでしょうか?
今回は徳川家康のご先祖様たちの足跡を系図を使ってわかりやすく解説していきます。
目次
東海道の要地・三河国のあらまし
まずは、松平氏が現れた三河国について見ていきましょう。
三河国は日本の東西をつなぐ東海道の真ん中にある土地でした。
東海道は現在も東海道新幹線などに名を残す、身近な名前ですよね。
足利義氏が守護を務める
鎌倉時代、三河国は東海道の重要地点として、足利義氏が守護を務めていました。
足利一族は源氏の血を引いているうえ、義氏の母は北条時政の娘・時子でした。
鎌倉幕府初代執権・北条時政の子には、北条義時、政子など名だたる人物がいますから、時子がどれだけ力があった人物かわかります。
血筋を重要視する鎌倉時代、幕府の中で足利義氏が重要な人物であったことは明らかですね。
承久の乱で功を上げた義氏は日本の東西の交流を牛耳れる三河国の守護に任じられ、足利一族は三河の地でどんどん力を伸ばしていくのです。
松平氏の出現と繁栄
三河の地で起こり、征夷大将軍・徳川家康を世に送り出すに至った松平氏は、一体どのような一族だったのでしょうか?
実は、謎の浪人の出現が武家としての松平氏をスタートさせたのです。
松平氏の出現と繁栄の足跡を系図を使って解説します。
西三河の国衆・松平信重
東海道の要地・三河を治めていた足利一族。
足利家からは、戦国時代に活躍した吉良氏や細川氏が分家していました。
しかし、のちに将軍・徳川家康を世に送り出す松平氏は足利の出ではありません。
松平氏は西三河の国衆・松平信重を始まりとすると伝わります。
信重は熊野をルーツにもつ土木職人として三河に貢献し、根付いていったようです。
現在も愛知県豊田市に松平町という町があり、信重はこの地で力をつけていきました。
謎の浪人・親氏の出現
西三河で勢力を伸ばしていた松平信重。
そこに突然、謎の浪人・親氏が現れます。
親氏は史料にも出自はよくわからないと書かれる、まさに謎の人物なのです。
突然現れた浪人・親氏は、信重の連歌会で風流な和歌を詠んだことで大変気に入られ、娘婿となったと伝わります。
出自はわからないものの、信重に気に入られるほどの和歌を詠める教養があったということは、親氏は良家の出身だったのかもしれませんね。
一説には親氏は新田源氏の末裔だといわれ、のちに徳川家が源氏に縁があるとする根拠の一つとされましたが、真相はわかりません。
この謎の浪人・親氏が松平信重の娘婿になったところから、武家としての松平氏が始まりました。
松平信光の室町幕府への被官
親氏を初代とし、武家として歩み始めた松平氏。
親氏の弟・泰親はより岡崎に近い岩津に進出し、領地を広げています。
そして泰親の嫡男・信光は岡崎と岩津を支配し、室町幕府の政所執事・伊勢氏に被官を始めます。
中央である室町幕府との関係性をつくり、後ろ盾を得たということですね。
信光は応仁の乱の戦乱に乗じて勢力を拡大していき、松平氏は武家として確立していったと伝わります。
岩津松平家と安城松平家に分家
勢力を拡大していった松平家は、信光の嫡男・親長のとき岩津松平家と安城松平家に分家します。
- 岩津松平家:本家。岩津城城主は親長(信光の嫡男)
- 安城松平家:分家。安城城城主は親忠(親長の弟)
分家するほどに松平家が大きくなっていたということですね。
岩津松平家が本家、安城松平家が分家としてそれぞれ繁栄していきました。
永正三河大乱により、岩津松平家が滅亡
勢力を拡大し繁栄を極めた松平家でしたが、親忠の嫡男・長忠の際、永正三河大乱という大事件に見舞われます。
本家である岩津松平家が滅亡してしまうのです。
松平家の未曾有の危機を解説します。
今川氏親と伊勢宗瑞が三河へ侵攻
松平長忠が当主を務めていたとき、松平家は永正三河大乱という大きな争乱に巻き込まれます。
今川氏親と伊勢宗瑞が三河に侵攻したのです。
- 今川氏親:今川義元の父。伊勢宗瑞の甥にあたる。
- 伊勢宗瑞:北条早雲のこと。後北条氏の祖で、最初の戦国大名といわれる。
なぜ、隣国の遠江から今川・伊勢軍が攻めてきたのでしょうか。
それはその頃京都で起きていた明応の政変に呼応したものでした。
明応の政変
室町幕府将軍の廃立事件。この政変により、室町幕府の将軍は10代・義稙から11代・足利義澄となった。
三河では今川氏親・伊勢宗瑞の義稙派と、親長・長忠をはじめとする松平家の義澄派が勢力争いを繰り広げることとなったのです。
今川・伊勢軍に攻められた岩津城はあっという間に落とされ、岩津松平家は滅亡してしまいます。
しかし安城松平家は家臣と共になんとか生き残ることができ、松平一族は存続することができたのです。
この争乱を受け、安城松平家が岩津松平家を併呑し、長忠の嫡男・信忠は松平家の中心的な人物となっていきました。
松平信忠の権力強化への奔走
岩津松平家の領地を併呑した信忠でしたが、出身は分家である安城松平家です。
力を認めてもらうため、信忠は随分と権力強化に奔走したようでした。
しかし本家を吸収し、権力強化に走る信忠をよく思わない人物が家中にいたのもまた事実。
反信忠勢力が信忠の弟・信定を擁立し、立ち上がったのです。
それを受けた信忠は当主を引退し、まだ13歳だった息子・清康に家督を譲りました。
名君・松平清康とその嫡男・広忠の活躍
たった13歳で松平家の家督を継いだ松平清康。
新田源氏に縁があるといわれる名君で、徳川家康の祖父にあたります。
家康は祖父の活躍にあやかり、「康」の字を名前につけたのかもしれませんね。
清康と、その嫡男で家康の父にあたる広忠について解説します。
松平清康も権力強化に奔走
家督を継いだ当初、父・信忠と同様に清康も三河国内の紛争解決に奔走していました。
まだまだ若かったこと、信定を擁立する反信忠勢力が依然として力を持っていたことが原因でしょう。
加えて、自分こそが松平家の正当な当主であるとアピールする狙いもあったものと思われます。
家臣を従えしっかり仕事をしっかりすることで、実力を見せつけようとしたのでしょうね。
清康は新田源氏に縁があった!?
清康が名乗っていた名前が世良田次郎三郎清康です。
世良田は上野国新田荘に存在する地名で、どうやら新田源氏に由来する苗字のようです。
自分は源氏に繋がりがある由緒正しい人物であると正当性をアピールするため、新田源氏に縁のある世良田の名を名乗ったものと推測されます。
新田源氏と松平家に関連があったという史料などは出ていませんから、信康が本当に源氏に縁のある人物だったのかはわかりません。
しかし、家康の祖父である清康が源氏に縁のある名前を名乗り、周りがそれを認めていたことが、家康が源氏に縁のある人物だといわれた所以の一つであることは間違いないでしょう。
守山崩れで清康が死亡、広忠が岡崎城を追われる
様々な紛争解決に奔走していた清康でしたが、ある日突然不慮の死を遂げます。
織田信秀との戦で着陣した守山の陣中で、家臣に殺害されてしまったのです。
守山崩れと呼ばれるこの事件で、清康の嫡男・広忠は岡崎城を追われます。
まだまだ力が強かった反清康勢力の信定が岡崎城を占拠し、広忠は逃亡生活を余儀なくされました。
その後、今川家の庇護下で岡崎城に復帰する広忠ですが、織田信秀との戦に敗北。
そして織田家への人質として差し出されたのが、広忠の嫡男・竹千代のちの徳川家康だったのです。
青年期の家康が、どうして『松平』から『徳川』に改姓したのかを知りたい方は、こちらの記事もおすすめです。
なぜ?家康が『松平』から『徳川』に苗字を改姓した理由
松平氏の始まりは謎の浪人?徳川になる前の家康のご先祖を系図を使って解説!|まとめ
今回は徳川家康のご先祖様について、系図を使って解説しました。
出自のわからない謎の浪人・松平親氏から始まる松平氏。
徳川と改姓したのちも家康は松平家を重んじ、大切にしていきました。
家康の活躍は、松平家に脈々と受け継がれる賢さや力強さ、そして家臣との絆を原点にしたものだったのでしょうね。
大きな活躍をした家康の生涯については、以下の記事で詳しく解説しています。
徳川家康の生涯を1歳~75歳までをわかりやすく一気に解説!