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大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!?
戦国時代に終止符を打った合戦として有名な「大阪冬の陣・夏の陣」。
関ケ原の戦いで天下をほぼ手中におさめた徳川家康が、およそ15年後に豊臣家を完全に滅亡に追いやった戦いで、歴史の授業でも学ぶ有名な戦です。
しかし、その15年間で徳川家と豊臣家の間に一体何があったのか、詳しく知っている人は少ないかもしれません。
意外なことに、徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのではないか?とも言われています。
今回の記事では、徳川家康が豊臣家滅亡に踏み切るまでの経緯と、大阪冬の陣・夏の陣で実際に活躍した有名武将たちのエピソードをわかりやすく解説していきます。
目次
大阪の陣が起こるまでの徳川家康の方針
大阪の陣勃発まで、家康は対豊臣氏として様々な政策を断行しています。
順を追って見ていくと、どうやら最初から豊臣氏を滅ぼすつもりではなかったことが伺えます。
征夷大将軍任官・源氏改姓
関ケ原の戦いで対抗勢力を一層した徳川家康は、3年後の1603年に征夷大将軍に任官します。
また、この際、自身の姓を「豊臣」から「源」へと改姓しています。
豊臣秀吉に臣従していた時に賜った「豊臣」の姓と「羽柴」の名字を捨て、源家康となり源氏になりました。
これには、征夷大将軍となっても自分は豊臣氏の家臣ではないという独立の意思表示といえます。
関白・九条兼孝就任
豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の死後、空位となっていた関白の座に公家の九条兼孝を就任させます。
公家のトップである関白を秀吉の遺児・秀頼ではなく、摂関家である九条兼孝が就くという元来の形に戻したわけです。
ここにも、豊臣家の力を削ごうとする家康の意思が垣間見えます。
豊臣家を潰す気はなかった?家康の孫・千姫と秀頼の婚姻
天下取りのライバルとなる豊臣家の力を徐々に削いでいく家康。
しかし、家康はこの時点では豊臣家を一大名、または公家として存続させることも許していたと思われます。
その証拠に、家康は孫娘である千姫を秀頼に嫁がせています。
深まる徳川家と豊臣家の対立
この家康の融和的な対豊臣氏政策ですが、いくつかの事件が重なり、結果的に戦へと発展していきます。
なぜ家康は豊臣家を滅ぼす決断をしたのでしょうか。
戦の原因になった大きな事件について3つに分けて解説していきます。
大阪の陣の原因となった事件
①二代将軍秀忠の就任挨拶を秀頼が無視
②方広寺鐘銘事件・大坂城の牢人衆
③家康からの要請
①二代将軍秀忠の就任挨拶を秀頼が無視
家康は、徳川家が代々将軍職を継いでいくためのアピールとして、二代目将軍に息子の徳川秀忠を就任させます。
その挨拶として家康は秀頼に上洛を要請しますが、秀頼はこれを無視します。
これには、秀頼の母・淀殿の猛烈な反対があったためだとする説もあります。
ここから、徳川家と豊臣家の関係が悪化していきます。
②方広寺鐘銘事件・大坂城の牢人衆
そんな中でも、大阪の陣勃発の決定的な事件となった「方広寺鐘銘事件」が起きてしまいます。
方広寺鐘銘事件とは、秀吉が建立し地震で壊れていた方広寺を秀頼が再建する際に起きた事件です。
この方広寺の鐘に記されたある文が問題になります。
その文とは『国家安康』『君臣豊楽』の2つ。
国家安康は「家康」を分断している、君臣豊楽は豊臣がこの世の君主である、と解釈されてしまったのです。
当時の人にとって諱というのはとても神聖なもので、それを分断したという行為は徳川家にとっては、挑発的と捉えられたのも無理はないかもしれません。
さらに、大坂城には、関ケ原の戦いで負けて仕事がなくなった牢人たちが大坂城に多く集まっていました。
これも、徳川に対して反乱を企てていると解釈されることになりました。
③家康からの要請を豊臣家が拒否
相次ぐ豊臣家の不穏な動きに対し、家康は豊臣家に2つの要望を突きつけます。
1つ目は、秀頼が大坂城から出ること。2つ目は、母・淀殿を人質として江戸に送ること。
しかし、秀頼と淀殿はこの要請を拒否。
この時に家康への恭順を進言するも拒絶されてしまった豊臣家重臣の片桐且元は、この件をきっかけに徳川家へと寝返っています。
重臣の片桐且元が大阪城から去り、秀吉や淀殿を止める者がいなくなってしまいました。
こうして、豊臣家と徳川家の戦い「大阪の陣」がはじまります。
個性豊かな豊臣家の家臣たち
片桐且元が去った豊臣家では大野治長・治房兄弟が力を持っていきます。
この二人は元来無能と評されることもありましたが、その評価は覆りつつあるようです。
また、大坂城には、のちに「大坂城の5人衆」と呼ばれる、毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登・後藤又兵衛・真田信繁(幸村)といった有名武将も集まっていました。
そして、中にはなんと織田信長の息子・織田信雄や甥・織田頼長もいて、かなり鼻息の荒いメンバー構成だったようです。
豊臣家が天下統一した詳細は以下の記事で詳しく確認できます。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
大阪冬の陣勃発
いよいよ大阪冬の陣の勃発です。
徳川家は、難攻不落といわれた大坂城をなかなか落とすことができません。
ここでは有名な武将の活躍エピソードなども交えて大阪冬の陣について解説します。
真田丸
大坂城の中でも比較的守りの手薄だった南側に真田信繁(幸村)が「真田丸」と呼ばれる出城を築き、徳川方を苦しめます。
前田利家の息子・前田利常や徳川四天王井伊直政の息子・井伊直孝ら錚々たるメンバーが突撃しますが、返り討ちに遭います。
大坂城への砲撃 講和へ
ここで徳川方は、大砲を用いた砲撃へと出ます。
いくら真田丸のような出城を築いたとしても、大砲で大坂城を直接攻撃されたらひとたまりもありません。
こうした激しい戦いの末、徳川方と豊臣方は講和へと進むことになります。
講和の条件
徳川方が出した講和の条件は、1つ目に大坂城の堀をすべて埋めること。
いくら堅固な大坂城といえども、堀を埋められてしまえば城としての機能が失われ、豊臣方の戦意も削がれてしまいます。
この条件は豊臣方も呑み、1ヶ月ほどかけて広大な大坂城の堀を埋めることに成功します。
2つ目は、秀頼の大坂城からの退却と母・淀殿の人質供出。
しかし、またもこの条件に秀頼は断固として拒否。徹底抗戦の道を選びます。
これにより運命の大阪夏の陣への突入することになります。
大阪夏の陣勃発
1615年夏、大阪夏の陣が起こります。
この戦いにより豊臣家は滅亡し、徳川の天下は盤石なものとなりました。
秀頼・淀殿母子や有名武将たちの最期を解説します。
真田信繁・後藤又兵衛の討死
堀を埋められ、真田丸も破壊されて防御力を失った大坂城では流石の猛将たちもまともに戦うことができません。
圧倒的不利な状況下で後藤又兵衛・真田信繁は討死してしまいます。
真田信繁は、家康をあと一歩で仕留められるという所まで迫り「日の本一の兵」と称されました。
秀頼・淀殿自刃と大坂城5人衆の最期
豊臣方も奮戦しますが、あえなく大坂城は炎上。
炎に包まれる大坂城の中で秀頼・淀殿母子も自害して果てました。
大坂城5人衆の毛利勝永は、徳川軍相手に孤軍奮闘しますが、最後には秀頼の側で共に自害したと言われています。
長宗我部盛親は、乱後になんとか生き延びて豊臣家再興の道を探りますが、見つかってしまい殺されてしまいました。
明石全登は、なんと戦の途中で行方不明に。一説によると、キリシタンの力を借りて海外に逃亡したとも言われています。
大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!?│まとめ
徳川家康は豊臣家を公家として存続させるこを許していたと考えられており、抗戦状態でも何度か講和の条件を出していました。
しかし、豊臣秀頼は講和の条件である母・淀殿の人質供出をどうしても飲めずに拒否を続け、大阪夏の陣で炎に包まれる大坂城の中で秀頼・淀殿母子も自害して果てました。
大阪冬の陣・夏の陣の戦いにより、戦国時代に終焉が訪れ、260年以上続く徳川の天下が盤石なものとなります。
▼主な参考文献