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『お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?~朝倉義景に従属を続けた国衆〜』
織田信長の妹・お市と、その夫・浅井長政。
浅井長政は織田信長の義弟であるにも関わらず、朝倉義景に従属を続け、遂には信長を裏切ってしまいます。
なぜ長政は信長に刃を向けてしまったのでしょうか?
なぜ急速に力を伸ばしている信長を裏切ってしまったのでしょうか?
その答えとして、朝倉家との関係を優先した長政の意図があったようですが、そこには複雑な理由も隠されています。
・信長が約束を破ったことに憤怒した
・嫡男・万福丸の人質問題があった
・お市は裏切っていなかった
今回の記事では、このような謎に包まれているお市と長政が信長を裏切った理由を解説します。
信長を裏切った浅井長政はどんな人?
織田信長の妹・お市と結婚した浅井長政。
義兄である信長を裏切ったことで有名な長政ですが、一体どんな武将だったのでしょうか。
六角家から家臣として扱われる浅井家
浅井家は、南近江の戦国大名・六角家の家臣のような扱いを受けており、長政は六角家当主の六角義賢から「賢」の字をもらい賢政(かたまさ)と名乗っていました。
補足
このように目上の人から名前の一字をもらうことを偏諱(へんき)といいます。当時、偏諱を受けるということはその人の家来であることの表明になっていました。
また、長政はお市を妻にする前に、六角家家臣・平井氏の娘を妻にもらっており、それは長政自身も同様に六角家家臣と見なされることを意味していました。
これらのことから、当時の長政は六角家から家臣のような扱いを受けていたということがよくわかります。
浅井長政が六角家から独立
1560年、長政は六角家から独立を宣言。
長政は弱冠16歳で父・久政から家督を継承し、浅井家の当主となったのです。
そして妻とも離縁。六角家との関係を断ち、浅井家は独立した国衆であると立ち上がりました。
織田信長に対する「裏切り」とはまた違いますが、浅井家のために思い切った決断をするというのも長政の性質なのかもしれません。
「長政」に改名
1563年には、六角義賢からもらった「賢」の字を捨て、長政に改名したと伝わります。
かつて、この「長」の字は信長の「長」をもらったのではという説がありました。
偏諱、すなわち信長に従属するという表明をし、その暁にお市と結婚をしたのではといわれていたのです。
しかし長政の改名した1563年までの間に、織田家と浅井家が関係を結んでいたとは考えられないということで、現在は否定されています。
朝倉家への従属で六角家に対抗
六角家から独立した浅井家は、もともとの主君であった六角家との戦いに進出します。
この時、六角氏が美濃の一色氏と同盟を組んだことに対抗し、浅井家は越前・朝倉氏に従属しました。
浅井家と朝倉家は対等な同盟関係だったとされていたこともありますが、最近の研究では完全に浅井家は朝倉家の下に従属していたと明らかになっています。
その根拠に、長政は朝倉義景を「親方様」と仕えている相手に使う言葉で呼んでいました。
また、朝倉家本拠地の一乗谷に浅井家の屋敷があったことが最近の発掘でわかり、これは浅井家が朝倉家の本拠地に出仕していたことの証明になります。
他にも、信長と戦う際、朝倉義景が浅井家本拠地の小谷城に陣を張ったという記録もあり、同盟相手の城中に本陣を置くことは通常ないため、浅井家が家来の扱いを受けていたというのは間違い無いといえるでしょう。
六角家から独立した浅井家ではありましたが、強大な六角家に単独では対抗できず、朝倉家に鞍替えしたような形となったようです。
浅井長政とお市の結婚はいつだった?
1567年、織田信長が美濃の一色家を攻略し、浅井家は織田家と同盟を結びます。
長政が23歳、お市が18〜21歳くらいのときでした。
おそらく、この時がお市と長政の結婚のタイミングだったのではといわれています。
長政とお市の子供
長政とお市の間には茶々・初・江という後世にも親しまれる浅井長政三姉妹と、万福丸という男子がいたようです。
万福丸は正室・お市ではない別の女性と長政との間に生まれた庶子であったようですが、男児がいなかったお市と長政の養子に入り嫡男として扱われていたと伝わります。
長政と信長の関係
お市と結婚することで織田家と関係を築いた長政でしたが、どうやら対等な関係ではなかったようです。
お市と結婚してすぐの段階から、長政が信長の下につくような関係になっていました。
長政を家来のように認識する信長
信長が天皇の御所である禁裏を修造するよう命じた際の名簿には、長政は京極殿の補佐役と書かれています。
補足:京極殿とは近江守護大名・京極高吉のこと
しかし、事実上の近江国守は長政です。
この名簿では、昔から近江守護を勤めてきた京極氏が殿様で、長政はあくまでもその補佐だという扱いを受けていたことが見て取れるのではないでしょうか。
信長は、長政はあくまでも京極氏の下についているという扱いをしたのです。
他の書状からも、信長は長政を自分の家来のように認識していたことがわかっています。
織田家・朝倉家に両属していた長政
信長の下につく形となってしまった長政でしたが、朝倉家への従属をやめたわけではありません。
これは両方の力のある大名に属する両属という行為で、当時の境目の国衆がよく取っていた従属方法です。
長政は独立した戦国大名というほどに力があったわけではなかったようですね。
織田家が力を持った秘訣は、信長の政策にも隠されています。詳しく知りたい方はこちらの記事もぜひご参考ください。
織田信長が行った政策の狙いは?政治や経済への影響をわかりやすく紹介
長政はなぜ信長を裏切った!?
そんな織田・朝倉の両属の国衆である浅井長政。
信長と縁戚関係があったにも関わらず、なぜ信長を裏切り、朝倉とともに信長に刃を向けてしまったのでしょうか。
謎に包まれる裏切り劇ですが、そこには長らく付き合いのある朝倉家との関係を優先した長政の意図があったようです。
信長が義に反する行為をしたから!?
かつては、浅井と織田同盟時の約束でもある「朝倉家への不戦の誓い」を信長が破ったため、長政が義に反すると憤怒し信長を裏切ったとされることもありました。
しかし浅井と織田が同盟を結んだ当時は、織田と朝倉は敵対していなかったという点で、この説は現在否定されています。
嫡男・万福丸の存在
一説によると朝倉家に嫡男・万福丸が人質として出されていたとも伝わります。
嫡男が人質に出されているため、長政はどうしても朝倉を裏切ることができなかったのかもしれません。
お市と長政が離縁しなかったのはなぜ!?
このように信長と対立した長政ですが、信長の妹である妻・お市とは離縁しませんでした。
政治的に敵対した場合、妻を実家に送り返すのが普通なのではないかと考えられるかもしれません。
しかし婚姻同盟が決裂したことを理由に妻を離縁して送り返すことは、戦国時代では特に常識とはいえなかったそうで、実際には離縁しない場合も多くあったようです。
お市の小豆袋のエピソード
お市の方の有名なエピソードに、お市の小豆袋の話があります。
お市が長政に隠れ、信長に長政が裏切ったことを暗示したというエピソードです。
長政の裏切りを小豆袋に託したお市
長政が信長を裏切り、朝倉と浅井で織田を挟み撃ちにしようとした時、お市が信長に陣中見舞いを装って小豆袋を送りました。
その小豆袋の両端が結ばれており、不審に思った信長は、これは織田軍が挟み撃ちにされているというお市からのメッセージなのではないかと閃くのです。
そして長政が裏切ったという情報も入り、織田軍は急ぎ兵を引いて逃げていったというストーリーです。
お市の小豆袋のエピソードは本当?
このエピソードは江戸時代半ばの『朝倉記』にありますが、内容の信ぴょう性が薄く、また江戸時代に隆盛した儒教の影響も見て取れるため、創作ではないかといわれています。
儒教には長幼の序、すなわち父や兄など目上の人を大切にすべきだという考え方があります。
つまりこのエピソードは、夫も兄もどちらも大切にするお市は、妻としても妹としても立派だという儒教の考えから紹介されている話でもあるのでしょう。
儒教の考えは戦国時代当時には一般的ではありませんので、このエピソードは江戸時代に儒教の影響を色濃く受けた者の考えた作り話かと思われます。
お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?|まとめ
信長の妹・お市と結婚し、信長と同盟関係にあるにも関わらず、信長を裏切った浅井長政。
長政はのちに、織田軍に攻められ小谷城で自害しています。
謎に包まれる裏切りの理由は、長政が長年の付き合いのあった朝倉家との関係を優先したためと考えてもいいのかもしれません。
しかし、織田家と朝倉家どちらにも従属を続けた境目の国衆の長政にとって、義兄である信長を裏切るのは苦しい決断であったことに違いはないでしょう。
浅井長政が織田家を裏切らなかった場合、お市や長政はどうなったのか?という歴史のIFもまた興味深いかもしれませんね。