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『藤原伊周』藤原道長のライバルだったのに…残念すぎる転落人生を解説
大河ドラマ『光る君へ』では三浦翔平さんが演じていることで話題の藤原伊周(ふじわらのこれちか)。
祖父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)より関白職を受け継いだ父・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の嫡男として、その将来は栄光に満ちることが約束されたかに思えました。
しかし、自身の傲慢さから招いた数々の事件が、伊周の栄光を阻み、破滅へ導きました。
伊周を語る上で、特に外せないのは、痴情のもつれから花山法皇に弓矢を放ったとされる前代未聞の大事件・長徳の変ではないでしょうか。
道長のライバルであった伊周が、栄光を掴めなかった原因も探りつつ、その残念すぎる転落人生について、解説していきます。
目次
『枕草子』の生みの親!?藤原伊周の絶頂期
藤原伊周は早熟の人物として知られていて、37年間という短い人生の中で、栄光と二度の失脚を経験しています。
栄光から始まった人生であったがために、傲慢で謙虚さに欠いた部分があったのかもしれませんね。
絶頂を迎えた中関白家(なかのかんぱくけ)の嫡男として、人生で最も輝いていた若かりし伊周の様子を解説します。
栄華を誇った中関白家の嫡男
伊周の祖父・兼家と父・道隆はどちらも関白に就いていました。
この役職は、朝廷では天皇に次ぐ地位と言われ、絶大な権力を誇っていました。
また、妹・定子は時の天皇・一条天皇に入内。
二人は仲睦まじく、深く愛し合っていたと言います。
まさに栄華を誇ったその一族のことを、人々は中関白家と呼びました。
その中関白家の嫡男として、伊周はこの栄華が永劫に続くものであると信じて疑わなかったに違いありません。
清少納言による『枕草子』では貴公子として描かれる
春はあけぼのから始まる随筆として有名な『枕草子』。
定子に仕えた清少納言が著し、1000年の時を超えて、令和を生きる我々にも語り継がれる作品です。
伊周はそんな『枕草子』で、貴公子として描かれています。
転落のイメージが強いので意外に感じるかもしれませんが、纏っている衣服がお洒落・気の利いた詩を即興で詩えるなど、容姿端麗であった様が伺えます。
『枕草子』は紙に描かれた作品なので、現代まで語り継がれていますが、実はこの時代の紙はすごく貴重なもので、庶民が手に入れることは困難でした。
そんな時、手に入れた紙を伊周は妹の定子に渡します。
そして定子はその紙を清少納言に渡した為、『枕草子』が生まれたと言われています。
伊周が『枕草子』の生みの親だと言っても、過言ではないかもしれませんね。
中宮・定子と清少納言の美しき日々については下記の記事で紹介しています。
『枕草子誕生!』清少納言が描いた中宮定子との美しき日々
最高権力者・関白に内定
伊周は21歳という異例な若さで父・道隆の命により内大臣に就任しました。
これは、次の関白に内定したことを意味したと考えられています。
実際に、道隆は自分の次の関白を伊周に任せることを切望しており、強引な政務の進め方で他の貴族の顰蹙を買っていた部分もあるようです。
転落の始まりと父・道隆の死
『枕草子』では貴公子とて描かれ、内大臣にも就任し、勢いづく伊周。
その勢いは、このまま関白就任まで漕ぎ着けるのではと感じるほど。
しかし、そんな中でも人望は無かったらしく、朝廷内での人気は皆無。
裸の王様状態の伊周に、幾多の試練が待ち受けていました。
人望なし!公卿たちのボイコット
若くして内大臣に就任した伊周でしたが、それをよく思わない者は沢山いたと考えられます。
大河ドラマ『光る君へ』でも人望の無さについて、指摘されてしまうシーンがありましたね。
ボイコットについて複数の逸話が記録されていますが、まずは、長徳元年(995)の朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)について解説します。
朝覲行幸とは天皇が宮中から離れた親の元に外出する行事。
長徳元年(995)には一条天皇が詮子の東三条院を訪ねようとしましたが、本来は一条天皇にお供する予定だったはずの大納言・藤原朝光(ふじわらのあさてる)や、同じく大納言の藤原済時(ふじわらのなりとき)、そして藤原道長らがこの行事に参加しませんでした。
伊周に位を追い抜かれた・本来であれば先に自分が大臣になるはずだったという不満からそのような行動をとったと考えられています。
また、定子が開いた大饗という大きな宴にも道長は不参加。
伊周が開いた大饗にも、道長・左右大臣・他の内大臣も参加しなかったと言われています。
隆盛を極めた父・道隆の急死
人望はないものの、父の後ろ盾のおかげで、首の皮一枚繋がっていた状態の伊周に悲しい知らせが舞い込みます。
父・道隆の急死です。
道隆は自分の次の関白として伊周が就任することを望んでいましたが、志半ばでその生涯を閉じました。
父の後ろ盾を失い、人望もない伊周。
頼みの綱は天皇の妃・妹の定子。
しかし、一条天皇は道隆の子で定子の兄である伊周ではなく、道隆の弟で母・詮子の兄である道兼(みちかね)を次の関白に任命しました。
ライバル・道長と一触即発状態に
道隆亡き後、関白に就任した道兼でしたが、ほどなくして亡くなってしまいます。
その次の関白に就いたのは、伊周ではありませんでした。
では、誰が就任したのでしょうか?
実は、この時点では誰も就任しておらず、関白の座は空席に。
しかし、内覧と呼ばれるほぼ関白と同様のポジションに、道長が任命されます。
そのことがきっかけで伊周と道長は一触即発の状態に。
藤原実資が書いた日記『小右記(しょうゆうき)』には、二人が口論していた様子が、あたかも闘乱の如しと記されており、激しい対立の様子が伺えます。
道長と、伊周の弟・隆家(たかいえ)の従者が合戦し、数日後に道長の従者が報復されていることなども記録されており、平安貴族とは思えないような血生臭い状況だったと言えます。
花山法皇と乱闘?長徳の変で失脚
藤原伊周と言えば長徳の変を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
大きな事件の後には、大きく位を上げる者と大きく位を下げる者がいますが、伊周は後者でした。
女性関係のもつれから始まった長徳の変で、父から受け継いだ中関白家を崩壊させることになります。
その過程について、詳しく見ていきましょう。
痴情のもつれから発展した前代未聞の大事件・長徳の変
長徳2年(996)に起きた前代未聞の大事件・長徳の変。
伊周、隆家兄弟失脚の原因となったできごとです。
『小右記』には、「藤原為光(ふじわらのためみつ)の家で花山法皇と内大臣伊周、中納言隆家が遭遇し乱闘になった。隆家の従者が法皇の世話役二人を殺害し、首をとって、持ち去った」と記録されています。
かつて天皇であった花山法皇の衣の袖を弓矢が貫いたと言われており、激しい乱闘の様子が想像できます。
なぜ、そんなことになったかというと、原因は痴情のもつれ。
伊周は自分と恋仲にあった女性と花山法皇が親密な仲であると勘違い。
実際には伊周が恋仲にあった女性の妹のところに通っていた花山法皇はとんだとばっちりを受けました。
この事件は、一条天皇が事後処理を指示するなど、大きな問題に発展しました。
破天荒で狂乱な花山天皇についてはこちらの記事で紹介しています。
花山天皇はなぜ出家した?面白エピソード満載の花山天皇をわかりやすくご紹介!
天皇の母・詮子を呪詛
時をほぼ同じくして、一条天皇の母で道長の姉でもある詮子が体調を崩しました。
なかなか回復しない詮子の邸宅の床下から、まじないをして呪うための厭物(まじもの)が出てくるなど、呪詛が原因である疑いが強まりました。
真偽は不明ですが、状況的に伊周、隆家兄弟が疑われる事態に発展。
しかし、兄弟の転落は、まだ止まりません。
天皇だけに許された儀式を臣下の立場で行う
伊周の行動はますます非難を浴びることになりますが、自身で拍車をかけてしまいます。
太元師法(たいげんのうほう)と呼ばれる、天皇だけに許されている祈祷を行ったというのです。
臣下が行ってはいけない儀式にあたり、これをしてしまったことで、更に伊周の立場は危うくなりました。
往生際の悪い男・伊周
長徳の変から始まり、処分されるには十分すぎるほどの問題を起こした伊周に、沙汰が下ります。
九州の太宰府に左遷が決定しました。
しかし往生際の悪い彼は、左遷が決定した後に、病を理由に定子の家に篭ってしまったのです。
これには一条天皇も痺れを切らし、検非違使(けびいし)による強制捜査を命じます。
これに対して、伊周は逃走。
数日後に捕縛され、太宰府行きを命じられます。
やっと従ったかと思いきや、脱出して京に戻り、母や妹の様子を伺うなど、往生際の悪さを遺憾なく発揮しました。
奇跡の復活から再び転落、そして破滅へ
道長のライバルとして朝廷で猛威を振るうも、自身の傲慢さからあっという間に転落し、太宰府に流されてしまった伊周。
出家もしたため、京に戻ることはないであろうと誰もが予想していたに違いありません。
しかし彼は、再び京に戻り、政務に参加することになるのです。
道長による大赦で京へ舞い戻る
長徳3年(997)、道長によって伊周、隆家兄弟が大赦されました。
これは結果的に道長の懐の深さをアピールし、人望が厚くなった出来事です。
それにしても、なぜ、道長は二人を許したのでしょうか?
理由は、詮子の体調が回復しなかったからです。
彼らからの呪い・恨みが続いているので詮子の調子が戻らないと考えられ、兄弟は京に帰還することとなります。
唯一の光・敦康親王の後見人として政界に復帰
晴れて太宰府から京へ戻った伊周ですが、悲しい知らせを受けることになります。
長保2年(1000)に、妹であり、一条天皇と自分を繋ぐ頼みの綱・定子が崩御しました。
定子亡き後、伊周の唯一の光は一条天皇と定子の間に生まれた皇子・敦康親王(あつやすしんのう)。
一条天皇のもう一人の妃で、道長の娘である彰子は、まだ皇子を授かっていないため、この時点では敦康親王が次期天皇になる可能性も大いにありました。
敦康親王の後見人として、寛弘2年(1005)伊周は政界復帰しました。
しかし、事態は伊周の思い通りには進みません。
寛弘5年(1008)、一条天皇と彰子の間に敦成親王(あつひらしんのう)が誕生したのです。
二度目の失脚
敦康親王が次期天皇になる可能性も低くなり、伊周は焦りを感じていたことでしょう。
伊周は二度目にして最後の失脚を自らの手で引き起こし、その短く激しい人生を閉じることになります。
その事件は、敦成親王の誕生を祝う席で発生。
伊周はその席で、誰にも頼まれてもいないのに下記のような祝いの言葉を書きました。
隆周の昭王、穆王暦数長く、わが君また暦数長し。
本朝の延暦延喜胤子多く我が君また胤子多し。
康きかな帝道。誰か歓娯せざらんや
〈訳〉
(一条天皇は)隆盛した周の昭王や穆王のように長く位にあり、桓武、醍醐帝のように跡継ぎが多い。安康な帝道よ。この御代を歓ばない者があろうか
『本朝文粋』
一見一条天皇を讃えるきちんとしたお祝いの言葉にも見えますが、文章の中に「隆周(隆家と伊周)」や「康き(敦康親王)」など所々に中関白家の人物の字を忍ばせおり、また「跡継ぎが多い」というのも暗に「定子の子らを忘れるな」というメッセージとして解釈することもできます。
道長の権力が盤石になりつつあった中でも伊周はなお悪あがきを続けていました。
実資は自身の日記に、伊周の行動を他の貴族らが訝しんでいたことを記録しています。
そして寛弘6年(1009)、伊周の身内が敦成親王・彰子・道長を呪詛していることが発覚。
政界復帰の道は完全に絶たれ、寛弘7年(1010)37才で失意のうちに死去しました。
『藤原伊周』藤原道長のライバルだったのに…残念すぎる転落人生を解説|まとめ
今回は藤原伊周の残念すぎる転落人生について解説しました。
若いうちに隆盛を誇るというのは、一見輝かしく見えますが、諸刃の剣なのかもしれません。
一方で、人生が転落しているにも関わらず、最後まで自分の願いを叶えようと諦めなかった伊周の強さには、学ぶべき点もあるように感じます。
現状に驕らず、強い意志を持ちつつも、優しさと謙虚さを持つことが大切であると伊周から学べるような気がします。