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【豊臣秀吉の生涯】本能寺の変の黒幕!?秀吉が天下を取るまでざっくり解説
庶民から天下人にまでなった出世人・豊臣秀吉。
最近では、実は秀吉が本能寺の変の黒幕だったのではないかという説を唱える人もいます。
なぜ秀吉が本能寺の変の黒幕だと言われているのでしょうか。
今回は秀吉がどのように天下人になっていったのかについて解説しながら、なぜ本能寺の変の黒幕と言われているのかについて見ていきます。
豊臣秀吉の生涯について興味がある方は、ぜひチェックしてみてください。
目次
豊臣秀吉の生い立ち
まずは豊臣秀吉の生い立ちについて見ていきましょう。
秀吉は1537年(天文6年)に尾張国(現在の愛知県)で生まれたと言われています。
秀吉はもともと木下藤吉郎という名前で、身分の低い庶民の生まれでした。
武士に憧れていた秀吉は、18歳の頃に織田信長に仕え始めます。
秀吉と信長のエピソードと言えば、真冬に秀吉が信長の草履を懐に入れて温めておいて、信長が来たらさっとその草履を差し出して信長に褒められたという話が有名ですよね。
この話が事実かどうかは分かりませんが、細かな気配りができる人であった秀吉は、信長に気に入られ出世していきました。
織田信長のもとで出世する豊臣秀吉
身分の低い生まれだった豊臣秀吉でしたが、織田信長に仕える中で次第にその手腕を発揮していきました。
ここからは豊臣秀吉がどのように織田信長に認められていったのかについて見ていきます。
一夜で城を完成させた?
これまでは織田家の中でも特に目立たない家臣であった秀吉でしたが、30歳で転機が訪れます。
織田信長と美濃(現在の岐阜県)の斎藤龍興が激突した稲葉山城の戦いの際、信長はなかなか美濃を落とすことができずにいました。
信長は稲葉山城攻略の拠点となる墨俣の地に城を建てることにしますが、敵からの攻撃が激しくなかなか建てることができません。
そこで秀吉は、自分なら城を一夜で建てることができるので任せてほしいと信長に進言しました。
秀吉は実際にたった一晩で墨俣城を建てることに成功したと言われています。
秀吉は城の建設を地元の国衆だった蜂須賀小六に手伝ってもらっていました。
作り方は現在のプレハブ工法に似ており、別の場所で作った部品などをいかだにのせて川に流して墨俣まで運んで組み立てたのです。
こうして一夜で城を完成させた秀吉は、その手柄をきっかけに織田軍の中で出世していき自らの軍を持つようにもなりました。
金ヶ崎の戦いでの活躍
秀吉が34歳の時、織田信長と越前(現在の福井県)の朝倉義景が激突した金ヶ崎の戦いが起きます。
朝倉氏を攻撃しようとした信長でしたが、信長の妹婿である浅井長政に裏切られ、はさみ撃ちにされてしまい絶体絶命のピンチとなります。
この状況で秀吉は最も危険な役目と言われた殿(しんがり)を務めることを進言し、命からがら生き延びたことで見事にその役目を果たしたのです。
殿とは?
後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。転じて、隊列や順番の最後尾のこと。
武名を挙げた秀吉は、天才軍師と言われた竹中半兵衛を味方につけます。
また金ヶ崎の戦いで功績を挙げたことで、37歳の時に羽柴秀吉と名を改めました。
羽柴という名字は、織田軍の中でも上層部にいた丹羽長秀と柴田勝家から名前をもらったと言われています。
そして浅井長政の城を織田軍が落とすと、秀吉は浅井家の領地であった今浜(現在の滋賀県)を与えられ、信長の名前をもらって長浜と改名して長浜城を建てました。
豊臣秀吉は城攻めが上手かった?
名を改め領地を手にした豊臣秀吉は織田信長から毛利征伐の命を受け、播磨(現在の兵庫県)から⼭陰へと侵攻していきました。
特に秀吉は城の攻撃が上手かったと言われています。
その中でも有名な戦いとして三木城(現在の兵庫県)・鳥取城・備中高松城(現在の岡山県)の戦いがありました。
ここからは秀吉の三大城攻めについて解説していきます。
三木城の戦い
三木城の戦いは「三木の干殺し」と言われているほど多くの餓死者が出た戦いだったとされています。
秀吉にとっての強大な敵である毛利はさらに先にいたため、三木城の戦いではなるべく自分の軍の被害を最小限にしつつ勝利したいと秀吉は考えました。
そこで取った作戦が兵糧攻めであり、これは竹中半兵衛の策だったと言われています。
秀吉軍は三木城の中に食料などが入らないように城を取り囲み、敵が根負けして降参するのを待ったのです。
しかし三木城側も徹底抗戦したことで、城を落とすのに2年ほどかかりました。
秀吉は三木城が降伏するのをじっと待ち、ついに三木城が敗北を認めたことで戦いに勝利したのでした。
鳥取城の戦い
鳥取城の戦いでは、三木城の時よりも徹底したやり方で包囲を固めたため、「鳥取の餓え殺し」と呼ばれるほど非常に悲惨な戦いになったと言われています。
秀吉軍はまず鳥取城周辺の町や村から米を高値で買い占めました。
これにつられた鳥取城の人々は城の兵糧米さえも高値で売り、秀吉と戦うために多くの武器を手に入れようとしました。
三木城の時のように城を包囲した秀吉は一切攻撃せず、鳥取城の中の食料をなくし、人々が腹を空かせて降伏するのを待ちました。
秀吉の思うつぼとなった結果、鳥取城はあっけなく陥落したのでした。
備中高松城の戦い
秀吉軍と毛利軍の雌雄を決する戦いとなったのが、備中高松城攻めです。
備中高松城は四面を深⽥に囲まれた要害地形の城であり、容易には落とすことができませんでした。
そこで秀吉は城の周りに堤防を作り、堤防の中に川の水を流し込むことで単なる兵糧攻めではなく城を水浸しにする水攻めを行いました。
この死人を出さずに水攻めにして降伏させる策は、秀吉の軍師であった黒田官兵衛が考案したと言われています。
こうして城を水浸しにしたことで、そろそろ備中高松城が降参するだろうと思っていた時、なんと「織田信長が死んだ」という知らせが舞い込んできたのです。
備中高松城攻めについてはこちらの記事でも詳しく解説していますので、あわせてご確認ください。
水攻めで沈められた『備中高松城』!名将・清水宗治の軌跡を辿る!
本能寺の変後の豊臣秀吉の行動
豊臣秀吉のもとに急に舞い込んできた織田信長の死の知らせ。
主君をなくした秀吉は、この後一体どのような行動を取ったのでしょうか。
ここからは本能寺の変後の秀吉の行動について見ていきます。
中国大返し
明智光秀が本能寺で織田信長を討ったという知らせを受けた秀吉は、毛利と和議を結ぶことですぐに明智光秀を討つ決断をします。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という毛利家の外交を担当していた僧侶に対して、秀吉は毛利家を説得させれば安国寺恵瓊の立場を保証するので、毛利家との和議を成立させてほしいと要求しました。
安国寺恵瓊の働きによって備中高松城の城主であった清水宗治を降伏させた秀吉は、毛利方に悟られないようにものすごいスピードで京都に戻りました。
これがあの有名な中国大返しです。
京都へ向かう最中に秀吉は、信長が実は生きているという偽情報を流し、明智光秀を共に討つ仲間を増やしていきました。
山崎に陣を構えた時には秀吉軍4万に対して明智軍1万数千といったように、兵力差が倍以上になっていたようです。
こうして、秀吉は山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を倒すことに成功しました。
清須会議
秀吉が明智光秀を倒した後、織田家の次期当主を決めるために清須会議が開かれます。
信長だけでなく嫡男であった信忠も亡くなり、家臣団の中で織田家の次期当主を次男の信雄にするか、三男の信孝にするかで争われました。
しかし、秀吉は信長の直系の孫で信忠の嫡男である当時まだ3歳だった三法師を連れてきて、三法師の面倒を自分が見ると宣言し、秀吉が実質織田家のトップに君臨しました。
こうして豊臣秀吉の天下統一への道が大きく開かれたのです。
清須会議についてはこちらの記事でも詳しく解説しています。
『清須会議』秀吉に天下取りの野心はあったのか?織田家崩壊の真相とは
本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉なのか?
本能寺の変は明智光秀が起こした事件ですが、なぜ豊臣秀吉が本能寺の変の黒幕だと言われているのでしょうか。
ここからは秀吉が黒幕なのではないかと考えられる理由について解説していきます。
理由1:本能寺の変の状況を作ったのが豊臣秀吉だったから
本能寺の変が起きた時、織田信長は親衛隊の一部の軍勢のみと本能寺に泊まっていました。
それがチャンスだと思った明智光秀が本能寺を襲撃するのですが、なぜそのような状況が生まれたのでしょうか。
実は秀吉が備中高松城攻めでかなり苦戦していたため、信長に援軍を要請していたのでした。
それに応えた信長が直々に毛利攻めに赴くということで、少ない軍勢で本能寺に泊まっていたのです。
明智光秀も信長に援軍として向うように要請されており、軍を率いて移動していた最中に起きた事件が本能寺の変でした。
つまり、秀吉が信長に対して援軍を要請していなければ本能寺の変は起きていなかった可能性が高いのです。
しかし秀吉が援軍を要請した時の資料が残っていないので、本当に苦戦していたのか、それとも秀吉が嘘をついたのかは分かっていません。
理由2:中国大返しのスピードが早すぎたから
信長が死んだという知らせを受けた後、秀吉はものすごいスピードで京都まで移動しています。
秀吉が書いた秀吉書状写では、本能寺の変から山崎の地に陣を敷くまで次のように記されています。
日付 | 出来事 |
---|---|
6月2日 | 本能寺の変が起こる |
6月3日 | 秀吉が使者から信長の死を聞く |
6月4日 | 秀吉が毛利との和平交渉を行う |
6月6日 | 秀吉が岡山を発つ |
6月13日 | 秀吉が山崎の地に陣を敷く |
つまり秀吉はたったの1週間で、およそ200㎞ある備中高松城から山崎の地までの距離を移動したことになります。
一方で、鎧や武器など重い荷物を持ちながら、今よりも舗装されていない200㎞の道を1週間も走り続けることが本当に可能なのかという疑問が生じてきます。
そこで、秀吉は事前に本能寺の変が起こることを知っていて、準備を徹底した上で京都まで移動していたのではないかという説が出てきたのです。
しかし日本史学者である渡邊大門先生によると、秀吉が自身で書いた書状にしか中国大返しについて記録されていないことから、秀吉が自分の功績を盛って記録に残しているということも考えられると言います。
つまり秀吉は信長の死の知らせを受けてから、もっと早めに京都に向けて移動していたにも関わらず、あえて1週間で移動したことにして自分のすごさを周りにアピールしようとしたのではないかということです。
秀吉の書状しか残っていないとなると、この説は十分説得力がありますね。
理由3:本能寺の変で一番得をしたのは豊臣秀吉だったから
最後の理由は、本能寺の変が起きて一番得をしたのは秀吉だからというものです。
明智光秀を秀吉が討ったことで、織田家の中で最終的に実権を握ったのは秀吉であり、その後天下統一まで成し遂げた秀吉は、確かに実際に信長を討った光秀よりも得をしていると言えます。
ミステリー小説でも最後に一番得をした人が犯人とよく言われますが、それと同じ理由で秀吉が黒幕なのではないかと言われています。
【豊臣秀吉の生涯】本能寺の変の黒幕!?秀吉が天下を取るまでざっくり解説|まとめ
3つの理由により、本能寺の変は秀吉が黒幕なのではないかと言われていますが、これらはあくまで想像でしかありません。
それでも秀吉黒幕説は根強い人気があり、創作物では秀吉が悪者として書かれているものもありますよね。
秀吉は織田家の実権を握った後、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を倒し、徳川家康さえも従えて天下統一を成し遂げます。
誰も成し遂げたことが無かった天下統一を果たした豊臣秀吉。
秀吉の人生を辿ってみると、人の懐に入る上手さと高い戦術力が彼を天下統一まで導いたことが分かりますね。
本能寺の変の黒幕は徳川家康だったという説もあり、こちらの記事で解説していますので、気になる方はご覧ください。
本能寺の変『徳川家康黒幕説』は成立するのか?考察してみた!