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裏切り者?『本多正信』家康の天下統一に最も貢献した名参謀
NHK大河ドラマ「どうする家康」では松山ケンイチさんが演じる本多正信。
一度は徳川家康を裏切ったことがあるものの、彼は徳川家康の側近中の側近として晩年まで力を発揮していました。
なぜ正信は家康を裏切ったにも関わらず、ここまで家康からの信用を得ることができたのでしょうか。
今回の記事では本多正信がどんな人物で、どのようにして家康の天下統一に最も貢献する名参謀になったのかについて解説していきます。
徳川家康と本多正信の関係に興味がある方は、ぜひチェックしてみてください。
本多正信の生い立ち
本多正信は、徳川家康が天下を統一するにあたってなくてはならない存在と言っても過言ではありません。
家康の側近中の側近である本多正信がどのような人物だったのかを知るために、まずは生い立ちから見ていきましょう。
代々松平家に仕える一族
1538年、本多正信は三河国に生まれました。
徳川家康は1542年生まれなので、正信は家康よりも4つ年上となります。
代々松平家に仕えている一族の生まれで、正信の父は家康の父である松平広忠に、正信の祖父は家康の祖父の松平清康に仕えていました。
「本多」という苗字の通り、正信は徳川四天王にも数えられる無敗・無傷の武将として有名な本多忠勝と同じ本多一族で、忠勝の親戚にあたります。
戦国武将の本多といえば本多忠勝のイメージが強いかもしれませんが、本多正信も本多忠勝に負けず劣らずの非常に有能な武将でした。
本多正信と本多忠勝の関係は良好ではなかった
しかし、本多忠勝は正信のことを「同じ本多一族ではあっても本多正信とは全く無関係である」と言い放っているようです。
血縁関係にあることは認めながらも、忠勝と正信の関係はあまり良好ではなかったことが分かります。
大河ドラマ「どうする家康」でも型破りで常識にとらわれない正信は、周りの家臣団から嫌われている様子が描かれていましたね。
そんな正信ですが、実は若い頃の活躍についてあまり詳しく分かっていないのです。
正信が歴史の表舞台に出てくるのは三河一向一揆からとなります。
本多正信は徳川家康を裏切った?
本多正信は徳川家康の天下統一になくてはならない側近中の側近とお伝えしましたが、実は正信は若い頃に三河一向一揆で家康の敵である一揆方として戦い、その後家康の下を離れています。
ここからは、なぜ正信が父祖以来仕えてきた松平家の当主である家康を裏切ったのかについて詳しく解説していきます。
三河一向一揆とは?
まずはことの発端となった三河一向一揆について解説します。
桶狭間の戦い後に今川氏から独立して織田方についた徳川家康が、三河平定を目前にして勃発したのが三河一向一揆でした。
一向一揆とは?
一向宗(浄土真宗)の信徒たちが起こした一揆のこと。
家康が今川氏と敵対し戦を継続したことによって、三河の人たちが「いつまで戦をやっているのか!」「もう勘弁してくれ!」と家康に反旗を翻したことで、1563年(永禄6年)に三河一向一揆が起きました。
この中で本多正信は一揆方として家康と戦っています。
「天下統一になくてはならない存在」と言っておきながら、始めは家康を裏切っているんですよね。
槍の名手として有名な渡辺守綱など、正信の他にも家康の家臣の中には一向宗を信仰する者が多くいたため、有力な家臣たちが続々と家康を裏切り一揆側に与する事態となりました。
最終的に家康は苦戦はしたもののなんとか一揆を鎮圧します。
そして家康は、敵対していた家臣らを許すという寛大な処分を下しました。
三河一向一揆については以下の記事で詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
『三河一向一揆』とは?わかりやすく解説!原因は宗教ではなく家康だった!?
家康は本多正信を呼び戻した
しかし正信は一揆終結後、家康の下には戻らず加賀の国(現在の石川県)に出奔したと言われています。
当時の加賀の国は一向宗の信者らによって約100年治められており、宗教国家のようになっていました。
もしかしたら正信は一向宗への信仰心が非常に強かったからこそ、家康には従わず三河を出て一向宗のメッカとも言える加賀の国に行ったのかもしれません。
このように家康を裏切って出奔した正信でしたが、後に家康はわざわざ正信のことを呼び戻しています。
1570年、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉景健連合軍が激突した「姉川の戦い」に参戦しているとされていますので、この頃には家康の下に復帰していたようです。
わざわざ呼び戻すほど、正信は家康に能力を高く評価されていたことが分かりますね。
徳川家康配下での本多正信の活躍4選
徳川家康の下に戻ってきた本多正信は、これ以降家康の側近として活躍していきます。
本多忠勝は無敵の武将ということで「武」の面で活躍していましたが、正信は軍略家として力を発揮しました。
一方で「姉川の戦い」では兵を率いて出陣しているため、正信は文武両道だったようですね。
家康の晩年までかなり重要なポジションに就いてさまざまな仕事をこなした正信。
次は正信が家康の下でどのように活躍したのかについて4つにまとめました。
活躍①外交官としての才能発揮
本多正信はなんといっても「外交官」としての才能を発揮していきます。
特にその頭角を現したのが、1600年に起きた天下分け目の戦いとも言われている関ヶ原の戦いの後でした。
関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康でしたが、薩摩の島津義弘を非常に警戒していました。
敵方である西軍側について敗北したにもかかわらず、東軍の陣を正面突破して薩摩に帰っていった島津軍は戦の後もまだまだ健在だったからです。
「このままだと島津と戦になるかもしれない」
一触即発の状況の中、島津側と交渉し最終的に降伏させたのが正信であり、これによって家康は九州を平定させることに成功しました。
活躍②もう一人の智将・真田昌幸を謹慎
また、同じく西軍側についた真田昌幸。
真田信繁(幸村)の父親で、徳川の大軍を二度にわたり撃退した知略の名将としても知られています。
その真田昌幸を降伏させて九度山(現在の和歌山県)へ移し、謹慎させたのも正信でした。
西軍の中で最も危険視されていた島津・真田を見事に降伏に追い込んだのは正信の交渉術があってこそ。
正信の活躍によって、家康は天下統一を成し遂げていくのです。
活躍③「水魚の交わり」?徳川家康との厚い信頼関係
徳川家康と本多正信は「水魚の交わり」の関係だったと言われています。
「水魚の交わり」とは水がないと魚が生きていけないように、親密な関係・間柄のことで、中国の歴史書『三国志』に登場する諸葛亮孔明とその主君である劉備の関係を表す言葉として知られています。
それだけ家康と正信の信頼関係は強固なものだったのでしょう。
1812年(文化9年)に江戸幕府により編纂された最大の大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』の中には、本多正信に関してこんな記述があります。
「乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間相遭うこと水魚のごとし。しかんのみならず諷諫をたくみにして御親子の間むつまじく、また上下志を通ぜしむるに至るまで其の功おおいなり。」
戦では軍謀を使って作戦を考え、国内の政治も行っていたことが記されています。
「諷諫(ふうかん)」というのは「遠回しに相手を諫めること」。
主君に対して直接的に指摘するのではなく、遠回しに気付いてもらえるようにうまく主君を諫めることです。
こうした正信の行動が家康からの厚い信頼を得ることにつながったのかもしれませんね。
活躍④2代目将軍徳川秀忠の指南役として活躍
1603年(慶長8年)に江戸幕府を築いた徳川家康でしたが、2年後の1605年には息子の秀忠に将軍の座を引き継ぎます。
家康が将軍を引退した後も、正信は秀忠の指南役として力を発揮しました。
家康は2代目に権力を移譲することに非常に力を入れていました。
その1つの理由として、かつての鎌倉幕府の失敗が考えられます。
源頼朝は息子の頼家にうまく権力を移譲できないまま死んでしまったことで、源氏将軍があっけなく滅びる結果となってしまいました。
2代目に権力を移すということは非常に大変で重要なことだと家康は鎌倉幕府に学んだのかもしれません。
秀忠への権力の移譲を円滑に行うために「水魚の交わり」ともいえる関係だった正信を秀忠の指南役に置き、2代目将軍を育てていったのでしょう。
最初は家康と敵対して加賀の国に出奔までしてしまったのに、ここまで家康に信頼されたというのはすごいことですね。
本多正信の最期
本多正信は徳川家康の死後、家督を嫡男の正純に譲り一切の政務から離れ隠居します。
そして1616年(元和2年)に家康の後を追うようにして79歳で没しました。
家康・正信が相次いで没した後は、正純が2代目将軍徳川秀忠の側近として活躍していきます。
正純も正信に劣らず、軍略家・外交官としての力を発揮しました。
例えば1614年(慶長19年)に起きた大坂冬の陣における徳川方と豊臣方の講和交渉の際に、大坂城の内堀埋め立ての策を家康に進言したのは正純だと言われています。
これが大きな要因となって翌年に起きた大坂夏の陣では徳川軍が大勝利を収め、豊臣家を滅亡に追い込むことになるのです。
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裏切り者『本多正信』家康の天下統一に最も貢献した名参謀|まとめ
一度は三河一向一揆で主君である徳川家康を裏切った本多正信。
それでも家康に呼び戻されてからは、晩年まで家康の側近中の側近として活躍しました。
本多正信は軍略家・外交官として家康の天下統一になくてはならない存在だったと言えるでしょう。
本当に最強の武将とは戦の強さだけではなく、正信のような武と智を兼ね備えた武将のことを指すのかもしれません。
大河ドラマ「どうする家康」では家康の下を去ってからまだ再登場していない正信ですが、今後どのように描かれていくのか楽しみですね。