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孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!
大河ドラマ「どうする家康」では松重豊さんが演じている石川数正(いしかわかずまさ)。
徳川家康の重臣として大きな存在感を放っていますよね。
歴史上の石川数正も徳川家の中で重要なポジションについていました。
そんな数正ですが、後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に寝返ってしまうことでも有名な人物です。
今回は、なぜ徳川家の重臣だった石川数正が出奔してしまったのか、その理由について解説していきます。
石川数正の生い立ち
まずは石川数正がどういう人物だったのかについて見ていきましょう。
数正は1533年(天文2年)、三河国に生まれました。
1542年(天文11年)に生まれた徳川家康よりも9歳年上で、1534年生まれの織田信長とは同年代です。
石川家は代々松平家に仕えていて、数正も家康が今川氏のもとで人質生活を送っていた時からの重臣です。
父は三河一向一揆の総大将
石川一族はもともと本願寺の門徒の武士だったと言われています。
京都にある大谷本願寺の蓮如という僧侶が教えを広めるために三河へ移動した際、護衛として同行した武士がそのまま三河に土着しました。
そのため石川一族は代々一向宗を信仰していたようで、数正の父である石川康正は三河一向一揆が起きた時にはその総大将だったと言われています。
三河一向一揆とは?
桶狭間の戦い後に今川氏から独立した徳川家康が、今川氏との戦いを継続したことによって三河の民が家康に反旗を翻して起こした一揆のこと。
家康に反発する者と一向宗信徒が結びついたことで、大きな争いに発展した。
石川数正は家康の味方をした
槍の名手として有名な渡辺守綱など一向宗を信仰していた家康の家臣の多くは、家康を裏切り一揆側につきました。
一向宗信者である数正も一揆側につくのかと思いきや、わざわざ一向宗への信仰を捨てて家康の味方につきます。
裏切り者が多く出た中でも改宗までして家康側についたということで、数正の家康に対する忠誠心を感じますね。
一揆収束後に家康のもとに戻り、後に徳川十六神将と呼ばれた渡辺守綱についてはこちらの記事でも触れています。
徳川十六神将を徹底解説!家康を支えた家臣団の名前一覧
交渉人・石川数正の活躍
代々信仰していた一向宗を改宗してまで徳川家康への忠誠を尽くした石川数正は、交渉人として家康のもとで活躍していきます。
家康は今川氏と本格的に戦うために織田信長と同盟を結びますが、この時、織田家との交渉役を担ったのが数正でした。
重要な交渉の窓口を任されるくらい、数正は徳川家の中でも非常に信頼されていたということですね。
城代に任命される
1579年(天正7年)には信康事件が起きたことで岡崎城の城主が空白となってしまったため、数正が城主に代わって城の維持管理をする城代に任じられました。
信康事件とは?
家康の嫡男である信康と正妻の築山殿に謀反の嫌疑がかけられ、信康が自刃した事件。
その後数正は家康の名前から1字もらって、名前を「康輝」と変えています。
徳川家康のもともとの本拠地だった岡崎城を任されて、さらに名前を1字もらうくらい数正は家康から信頼を得ていたことがわかりますね。
徳川家康の人生において最も悲劇的な事件と言っても過言ではない「信康事件」について、以下の記事で詳しく解説しています。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
なぜ石川数正は徳川家を出奔したのか?
徳川家康から厚い信頼を得ていた石川数正でしたが、最終的には家康のもとを出奔し豊臣秀吉に寝返ってしまいます。
なぜ数正は出奔したのでしょうか。
近年の研究では小牧・長久手の戦い以降の目まぐるしい状況の変化が理由の1つとして考えられています。
ここからは徳川家の重臣だった数正が家康のもとを出奔した理由について解説していきます。
小牧・長久手の戦いとは?
1584年(天正12年)、織田信長の死後に台頭してきた豊臣秀吉と、もともと信長の政権下で非常に力を持っていた徳川家康が対立し、小牧・長久手の戦いが勃発しました。
「秀吉vs家康」という構図で起きたこの戦は多くの戦死者を出すほど非常に激しい戦いとなりましたが、秀吉の方が事実上やや有利な状況で講和することになります。
そのため家康側から講和の証として家康の息子の結城秀康と数正の息子の康長を秀吉へ人質に出すことで争いは終結しました。
そのような状況の中、追い打ちをかけるように徳川家臣の真田昌幸が離反してしまうのです。
落ちていく家康の信頼
武田家の滅亡・信長の死後は徳川家に臣従していた真田昌幸でしたが、真田の領地である沼田領(現在の群馬県沼田市)を北条氏との和平条件のために差し出すよう家康から要求されました。
これによって昌幸は「もう家康の言うことを聞くのはやめよう」と上杉景勝側に寝返ってしまうのです。
北条氏から真田の離反について咎められた家康がけじめをつけようと真田昌幸の上田城(現在の長野県上田市)を攻撃したことで、第一次上田合戦が勃発します。
しかし真田軍は思ったよりも戦が上手く、第一次上田合戦ではなんと徳川軍が敗北。
真田との戦に負けたことで徳川家の信頼は落ちていきました。
石川数正が出奔した理由
さらに家康に従っていた信濃の国衆である小笠原貞慶も離反し豊臣側に寝返ってしまいました。
この小笠原貞慶と家康の間を取り持っていた交渉役が数正であったため、数正は小笠原の離反に対する責任を問われます。
家康が厚く信頼していた数正でしたが、交渉相手である小笠原氏を裏切らせてしまったことで家康の数正に対する信用は失われてしまいました。
そのような中、秀吉は家康に対してさらなる人質を差し出すことで自分に従属するように要求してきました。
しかし家康は秀吉への臣従を拒否し、秀吉に対して強硬に反抗する態度を見せます。
家康は北条氏と同盟を結んでいたこともあり、秀吉と再度戦うことも覚悟で徹底的に対抗しました。
これによって秀吉との交渉を任されていた数正の立場がさらに悪くなっていきました。
また数正は秀吉のもとに自分の息子を差し出していたこともあり、親秀吉派として秀吉と家康の仲を取り持とうと努めますが、家康には全くその気がありません。
家康がこのまま秀吉に反抗し続けるなら、秀吉も再度家康に戦を仕掛けてくることでしょう。
そうなれば数正の息子の命はどうなるかわかりません。
小笠原氏の離反で信用を失っていたこともあり、徳川家の中で孤立していた数正はついに家康のもとを出奔したと言われています。
出奔後の石川数正
家康の人質時代から長年側近として支えていた石川数正でしたが、徳川家からの出奔後は豊臣秀吉の配下として活躍していきました。
家康のもとを去った数正は秀吉から1字もらって「吉輝」に改名します。
1590年(天正18年)には秀吉が北条氏政を攻撃して滅亡させた小田原征伐に従軍し、その功によって信濃国松本城主に封ぜられました。
そして数正は1593年(文禄2年)に享年61でこの世を去ったと言われています。
数正の死後に嫡男の康長が家督を継ぐと、関ケ原の戦いで家康のもとに戻り東軍として戦いますが、江戸幕府が続いていく中で石川家が大きくなることはありませんでした。
孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!|まとめ
今回は石川数正がなぜ家康のもとを出奔したのか、その理由について解説しました。
家康の幼少期から重臣として支えてきた石川数正。
交渉人として活躍していきますが、秀吉と家康の対立によって徳川家の中で孤立していきます。
自分の立場が悪くなり家康との信頼関係も失われてしまった数正は、最終的に家康を見限って徳川家を出奔してしまいました。
大河ドラマ「どうする家康」でも数正が家康のもとを出奔して秀吉に寝返る場面はきっと大きく描かれることでしょう。
今後も数正と家康の関係に注目していきたいですね。