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天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介!
織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)。
大河ドラマ『どうする家康』でもこれから存在感が大きくなりそうな人物です。
彼は何を隠そう、ミスター武士道の推し武将「のぶおくん」です。
信長の次男というプレッシャーを抱えながらも、戦国乱世を自分らしくハチャメチャに生き抜いた男・織田信雄。
今回の記事では、そんな「尊敬はできないけど、なんか愛せる」異能生存体・織田信雄の魅力たっぷりの生涯を解説します。
この記事を読み終わる頃には、皆さんもきっと「のぶおくん推し」になっていることでしょう。
目次
青年期の織田信雄
まずは織田信雄の出生から青年期までを見ていきましょう。
若い頃の信雄は、織田信長の息子に相応しく数多くの戦に出陣しています。
成長するまでの信雄の動向を見ていくと、偉大な父・信長から大きな期待を受けて育っていったことが伺えます。
「茶筅」織田信雄の誕生
織田信雄は、永禄元年(1558)に父・織田信長と母・生駒氏の間に誕生しました。
兄・織田信忠と妹・五徳姫(徳川家康の長男・信康の妻)とは同じ母親から生まれたと考えられています。
信長は子供のネーミングセンスが一風変わっているという話を聞いた事があるかもしれません。
兄・信忠の幼名は「奇妙(きみょう)」。そして信雄の幼名は「茶筅(ちゃせん)」です。
茶筅とはお茶を立てる時に使う道具です。
茶筅が生まれた時に信長がお茶にハマっていた、出生時から髪が長く「茶筅髷」が結えそうだったから等の説がありますが、由来の詳細はわかっていません。
織田家の由来やルーツについては、以下の記事で詳しく解説しているので、気になる方は是非チェックしてみてください!
織田家のルーツ!若き織田信長『下剋上』&『兄弟殺し』家系図も紹介
織田信長の家紋7選!織田木瓜の由来や旗印との違い【2023年】
期待の現れ?通称「三介」
成長してからの織田信雄の通称は「三介」と呼ばれていました。
三介の由来は、信雄の父・信長と祖父・信秀が使用していた「三郎」ではないかと思われます。
そんな織田家嫡男が受け継いできた由緒ある「三郎」をマイナーチェンジしたような通称を信雄は名乗っていたんですね。
信雄の諱の変遷
織田信雄は、生涯でいくつかの諱(本名)を使ってきました。
順番に具豊(ともとよ)→信意(のぶおき)→信勝(のぶかつ)→信雄(のぶかつ)」。
はじめに名乗った「具豊」だけは織田家の子息をあらわす「信」の字が入っていないという点で異質ですが、これには後ほど解説する北畠氏の乗っ取りが大きく関係しています。
このように、彼は一生の中でコロコロと境遇が変わっていき、そのたびに違う諱を名乗ってきたのです。
猛将の片鱗?青年期・信雄の戦歴
織田信雄は、どうしても「アホの子」というイメージで語られることが多く、同時代を生きたイエズス会宣教師フロイスにも「信雄は知恵が劣っている」と書き残されるなど散々な評価でした。
しかし、若かりし頃の信雄には、織田信長の息子に相応しい華々しい戦歴があるのです。
1573・1574年の「伊勢長島一向一揆」、1577年の「雑賀攻め」「大坂本願寺攻め」「播磨国 神吉城の戦い」、1578年の「有岡城の戦い」など多くの戦いに参戦しています。
こうして青年期の信雄は、信長の息子として戦場で豊富な経験を積んでいったのでした。
織田信雄は”北畠信雄”だった?
織田信雄はある時から名門・北畠氏の養子となり、その後は北畠氏の乗っ取りに大きく関わっていくこととなります。
信雄は、父・信長からとても重要な役目を与えられ、見事その期待に応えていき、ついには兄をも超えるペースで出世を果たしていくことになります。
北畠氏とは?
織田信長・信雄によって乗っ取られた北畠氏とはどういう一族だったのでしょうか。
14世紀前半、南北朝時代に南朝勢力として後醍醐天皇に尽くしたことで知られる武将・北畠顕家の弟・北畠顕能(あきよし)をルーツに持つ超名門です。
顕能は伊勢国司として伊勢国を支配していました。
室町幕府から与えられる「守護」ではなく朝廷から与えられる「国司」を名乗る一族だったことからも、北畠氏がいかに名門だったのかがよくわかります。
茶筅から北畠具豊へ
永禄12年(1569)、織田信長が足利義昭を将軍に擁立すべく上洛する際、何らかの原因により伊勢国で北畠氏とトラブルが発生。
信長が北畠氏を攻撃する「大河内城攻め」が開始されます。
「多芸御所」とも称された北畠具教は大河内城で信長勢の攻撃を防ぎ、この戦いは講和に持ち込まれました。
具教は、信長の「攻撃を止める代わりに茶筅(信雄)を北畠家の跡継ぎに」との要求を渋々受け入れます。
具教の息子・北畠具房の養子という形で茶筅は北畠氏を継承。
ここで茶筅は元服し、北畠家の通字「具」を冠して「具豊」という名前になりました。
ここに北畠氏当主・北畠具豊が誕生します。
ちなみに、茶筅に家督を譲らされた具房は、多芸御所と称された父とは対照的に「太り御所」と呼ばれ、当時からいじられていたようです。
北畠氏の乗っ取り
信雄が北畠氏を継承した約7年後の天正4年(1576)に大事件が勃発。
なんと北畠具豊(信雄)は北畠氏の実力者・具教を誅殺します。
この頃具教は、武田勝頼や足利義昭といった信長の敵対勢力と内通していたらしく、これが信長に対する謀反と疑われて殺害されたとされています。
このようにして信雄は、名門・北畠氏を完全に乗っ取ることに成功しました。
信雄、大出世
その後、信雄は朝廷より左近衛権中将という役職が与えられ、「北畠中将」とも呼ばれるようになりました。
名門・北畠氏を継いだことにより信雄の官位がぐんぐん上がっていき、一時は兄・信忠を超える官位を持っていたと言われるほどに出世していきます。
こうした出世ペースを見ても、信雄は信長から大いに期待されていたということが伺えます。
仮に信長の天下が長く続いた場合、信雄は信長政権を支える重要なポジションに就いていたかもしれませんね。
信長に怒られた…織田信雄の最初の大失敗
ここまで、(意外にも?)父・信長の大きな期待に応え、順風満帆な信雄。
しかし、読者の方の多くが期待しているのは織田信雄の華々しいサクセスストーリーではないでしょう。
お待たせいたしました。ここからは信雄の最初の挫折をご紹介します。
信雄はこの後、ついに父・信長に叱責される大失敗を犯してしまいます。
信雄、信長に怒られる
天正7年(1579)、第一次天正伊賀の乱が勃発。
ここで信雄は、伊賀忍者たちに敗れただけでなく、織田氏の重臣を戦死させるなどの惨敗を喫してしまうのです。
これには父・信長も激怒。
信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』には、信長が信雄に宛てた厳しい叱責の手紙の内容が記されています。
『天正伊賀の乱で信雄が負けたのはお前の日頃の行いによる因果応報である』
『そもそも信雄が伊賀国を攻撃したのも、父の遠方への戦いに参加したくないから手近な伊賀を攻めて遠征不参加の口実を作りたかっただけなのだろう』
『そんな気持ちで戦いの臨んでいたのなら負けるのは当然である』
『家臣たちの意見に流されすぎるな』
『次にこんな失敗をしたら親子の縁を切るぞ』
などと、信長は天正伊賀の乱で敗北した信雄を強い言葉で叱責しています。
しかし、この手紙の中にも信長の信雄に対する期待が伺える記述もありました。
『今回の失敗は信雄の若さ故のものだから、次から気をつけろよ』と、「愛のある叱り」とも取れる言葉も書かれています。
信雄が天正伊賀の乱を起こした理由には諸説ありますが、信長の手紙に書かれているように重臣たちに唆されて起こしたのだとしたら、信長の怒りももっともであり、若かりし信雄の最初の挫折と言えそうです。
第二次天正伊賀の乱
そんな信雄に対し、信長はリベンジの機会を与えます。
2年後の天正9年(1581)には信長の命令で第二次天正伊賀の乱が勃発。
信雄は総大将に任じられ、乱の平定に見事成功しました。
これには信長の手厚いアシストもあり、信長の重臣である丹羽長秀・蒲生氏郷・滝川一益といった有名武将たちも信雄に加勢させてあげたようです。
織田信雄の転落人生
ここまでは天下人である父・信長に厳しくも優しい教育のもと順調に出世していった織田信雄。
このまま行けば、北畠織田家の当主として兄・信忠の治世を支える未来もあったかもしれません。
しかし彼はこの後、本能寺の変を契機に長い転落人生を送ることになります。
運命に翻弄された信雄の転落人生を見ていきましょう。
本能寺の変 信雄は何してた?
天正10年(1582)、本能寺の変が起こり、信雄は突然父を失うことになります。
この時信雄は何をしていたかと言うと、結論から言えば何もしていませんでした。
信雄が本能寺の変の後すぐに挙兵して明智光秀を討ちとっていれば、ポスト信長として盤石の地位を築けたかもしれませんが、この時の信雄にはそれが出来ませんでした。
この時の信雄には動かせる兵力を持っていなかったのです。
この頃。信雄の異母弟・神戸信孝が四国の長宗我部元親討伐の軍を編成しており、信雄は自身の兵を信孝に貸していたのです。
信雄は自分こそが父の敵を討ちたいという気持ちもあったのでしょうが、動きたくても動けない状況でした。
この時の信雄の無念はいかほどのものだったでしょうか。
信雄、安土城に放火?
明智光秀が羽柴秀吉に敗れ敗走した後で安土城が火事に遭っており、これを信雄の仕業だとする説が存在します。
前述の宣教師フロイスも、悪意たっぷりに「信雄は知恵が劣っているから安土城を焼いたのだ」などと書き残しています。
しかし、信雄が安土城を焼く理由が全くないため、単なる失火によるものだとも言われており、真相は不明です。
清州会議
本能寺の変で織田信長が死去し、羽柴秀吉が明智光秀を討った後、誰が織田家を継承するのかという問題が発生します。
これを話し合ったとされるのがいわゆる清州会議です。
本能寺の変で信長と嫡男・信忠が死去しているため、次弟である信雄は自分こそが織田家の後継者であると主張。
しかし、信忠の息子・三法師を担いだ秀吉との政争に敗れ、信雄は信長の後継者にはなれませんでした。
本能寺の変は明智光秀が企てた奇襲と伝えられていますが、実は裏に黒幕がいたという説があります。詳しくは以下の記事をご確認ください
織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る
2度も領地没収される織田信雄
こうして信雄は本能寺の変の後、不本意ながらも幼い三法師の叔父として織田家の家督代理のようなポジションにつきます。
しかし、この後は秀吉の天下取りに利用されるようになっていきます。
秀吉に反旗!小牧長久手の戦い
台頭する秀吉に対して織田家の家督代理であるはずの信雄に実権がなく、信雄は秀吉に不満を募らせていきます。
信雄は天正12年(1584)、徳川家康と手を組み、打倒秀吉を掲げて挙兵しました(小牧長久手の戦い)。
後の天下人となる秀吉と家康の激突となる戦いのきっかけは信雄だったのです。
しかし、信雄はとんでもない行動に出ます。
小牧長久手の戦いの言い出しっぺである信雄ですが、なんと家康に何の断りもなく単独で講和してしまいました。
この単独講和が信雄の評価を落とす出来事として有名です。
ただし、小牧長久手の戦いは秀吉優勢で進んでいて、長期化すれば信雄・家康連合軍は負けていただろうとも言われており、信雄が不利な戦況を冷静に判断してベストなタイミングで講和に持ち込んだという解釈もできるのかもしれません。
いずれにせよ、信雄による秀吉打倒の計画は失敗に終わりました。
織田信長の敵を討ち、天下人になった豊臣秀吉については、以下の記事で詳しく解説しています。
豊臣秀吉はどんな性格だった?史実の残るエピソードを紹介!
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
領地没収
秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡した後、徳川家康が北条氏の旧領である関東に転封となったことに伴って、織田信雄は家康が治めていた三河・駿河・遠江への転封を命じられます。
この秀吉の差配に対して信雄は反対。
怒った秀吉によって、転封どころか領地を全て没収され、追放される事態となりました。
秀吉は信長のおかげで出世できたのだから、信長の息子である信雄は多少のわがままなら通ると思ってしまったのかもしれませんが、秀吉はそこまで甘くはなかったようです。
一度は無職同然となった信雄ですが、のちに天下人となった秀吉の話し相手「御伽衆」の一員に加えられました。
信雄はこのような屈辱的ともとれる扱いを受けながらも領地を与えられ、したたかに生き延びる道を選択します。
領地没収(2回目)
慶長5年(1600)に起きた関ケ原の戦いでは、優柔不断な信雄は特に大きな動きを見せていません。
しかし、信雄の息子・秀雄が西軍に味方し敗戦。
このことにより、信雄はまたしても領地を没収されることになってしまいました。
織田信雄の復活
こうして2度にもわたり領地を失った織田信雄ですが、ここで終わる男ではありません。
このあとも信雄らしくのらりくらりと生き延びていきます。
そして彼の死後も信雄の家系は江戸時代を通して存続し、その子孫は現在まで残ることにもなります。
全てを失った信雄の奇跡の復活と、その後の彼の家系がどうなったのかを解説します。
大坂の陣の総大将に?
関ヶ原の戦いで領地を失った信雄は、秀吉の後継者・豊臣秀頼を頼って大坂城に入ります。
慶長19年(1614)、徳川によって豊臣氏が滅ぼされる大坂の陣が勃発。
大坂城にいた信雄は、集まった荒武者たちに大坂方の総大将に担ぎ上げられました。
あの織田信長の息子であり、豊富な戦歴も持つ信雄を頼って多くのつわもの達に「ぜひ総大将に」と要請されましたが、信雄はこれを拒否。大坂城を退去します。
侍として戦って華々しく散る栄誉よりも、彼は生きながらえることを選んだのです。
5万石の大名に復帰
大坂城を逃げ出した信雄は家康のもとで匿ってもらうことになりました。
ここで家康は、大坂方で戦わずに逃げ出した信雄の行為を高く評価します。
家康はなんと信雄を5万石の大名に復帰させました。
この厚遇は、信雄が大坂城内の情報を徳川方に流し、大坂の陣での徳川方の勝利に貢献したからだという推測もできます。
こうして織田信雄の家系は、江戸時代にも高家として残ることになります。
最後の最後で判断を誤らなかったことで、彼は復活を遂げ、生き残ることができたと言えるのです。
天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介!│まとめ
寛永7年(1630)、織田信雄は73年の波乱の生涯に幕を閉じます。
英雄・織田信長の息子として生まれ、名門・北畠氏を乗っ取り、秀吉に利用され、家康と共闘し、領地を失い、また復活。
何かかっこいい武勇伝があるわけでもなく、武将としては頼りないと言わざるを得ない信雄ですが、彼らしいしたたかなやり方で戦国乱世を見事に生き抜いた人物であると言えるでしょう。
信長・秀吉・家康という3人の天下人に運命を翻弄されながらも、73歳という当時としては天寿を全うできたのは、ひとえに信雄の「逃げるは恥だが役に立つ」的な生き方のおかげかもしれません。
ちなみに、フィギュアスケートの織田信成選手も信雄の子孫なのではないかとも言われています。
もしそうだとすると、信雄が必死に家名を遺したことが現代にも影響しているということになるので面白いですね。