- 戦国BANASHI TOP
- 歴史上の人物の記事一覧
- 『枕草子誕生!』清少納言が描いた中宮定子との美しき日々
『枕草子誕生!』清少納言が描いた中宮定子との美しき日々
紫式部と双璧をなす平安女流文学の最高峰として、『枕草子』を執筆した「清少納言」の名はあまりにも有名です。
一般的に「陰」であると解釈されている紫式部に対し、清少納言は「陽」な作家として対比されることが多いかもしれません。
しかし、1000年もの時を超えて受け継がれる傑作を書いた人物がそのような単純な人物なわけがありません。
今回の記事では、そんな『枕草子』の作者「清少納言」の謎多き人物像に迫っていきたいと思います。
そして、清少納言と主人・藤原定子との心温まるエピソードと、そこから『枕草子』がいかに誕生したかについてもご紹介します。
清少納言のエピソード「陽」編
清少納言の人物像に迫るにあたり、まずは数々の書物に見られる清少納言に関するエピソードの数々をご紹介します。
おそらく、一般的に清少納言の人間性として多くの人が思い浮かべるのは、清少納言は頭が良くて社交的で機転も利かせられる、キラキラした「陽」の部分ではないでしょうか。
最初の章では、中宮・藤原定子ら、栄華を極めた中関白家の人々との輝かしい日々を軸に、清少納言の「陽」な人間性についてご紹介します。
紫式部「したり顔にいみじう侍りける人」
清少納言の人物評として、おそらく最も有名なのは、紫式部の「いみじう侍りける人」という文言ではないでしょうか。
紫式部は自著『紫式部日記』の中で、清少納言をこのように酷評しています。
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。
さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、
よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
また、かく人に異ならんと思ひ好める人は、
かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、(略)
【訳】
清少納言は、まことに得意顔もはなはだしい人です。
あれほど賢ぶって、漢字を書き散らしていますが、
その程度もよく見ると、まだまだ不足な点がたくさんあります。
このように、人に格別にすぐれようとばかり思っている人は、
やがてきっと見劣りがし、将来悪くなってばかりいくものですから、(略)
参考:宮崎莊平 訳注「新版 紫式部日記 全訳注」
同じく漢文の素養のあった紫式部にしてみると、清少納言はただ自らの知識をひけらかすためだけに漢字を使っているという風に見えたのでしょうか。
ただし、定子ら中関白家のライバルである道長の娘・彰子に仕えている「道長陣営」の紫式部にとってみれば、清少納言はいわば「政敵」です。
その上、紫式部と清少納言が宮中に仕えた時期は全く被っていないため、彼女らに面識があったかどうかは定かでなく、紫式部が書いた人物評も『枕草子』の内容から見える清少納言の人物像に対して、想像で語っているものなのではないかとの意見もあります。
政治的なポジショントークの可能性や、二人の面識の有無がはっきりしていないという以上の背景から、『紫式部日記』における清少納言の人物評をそのまま鵜呑みにすることはできないでしょう。
知識・センス
続いては、『枕草子』の記述から伺える清少納言のセンスの良さ・知識の深さをご紹介します。
有名なのは、大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた「香炉峰の雪」です。
ある雪が深く積もっている寒い日、女房らが定子のもとに集まり、格子窓を閉め、炭を起こして暖を取りながら語らっていました。
その最中に定子は清少納言に問いかけます。
「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と
仰せらるれば、御格子上げさせて、
御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
【訳】
「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろう」と
仰せになるので、御格子を上げさせて
御簾を高く上げたところ、(中宮様は)お笑いなさる。
参考:川添房江・津島知明 訳注「新訂 枕草子 下」
これは、定子が唐の詩人・白居易(白楽天)の「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」という漢詩の知識を清少納言に試したところ、清少納言も彼女の意図に見事に応えて白居易の詩を再現し、定子や周囲の女房からも称賛されたというエピソードです。
清少納言と定子の教養の高さや仲の良さを感じさせるお話ですね。
お次にご紹介するお話は「くらげの骨」です。
ある日、定子の弟である藤原隆家が、紙が貼られていないものの、とても立派な扇の骨の部分を持ってきた時の一幕です。
隆家は「立派な扇の骨に見合う紙を探しているのに、全く見つからなくて困っている」というので、定子は隆家に「その骨はどれほどのものですか」と尋ねると、隆家はその珍しさを語ります。
『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となむ人々申す。
「まことに、かばかりのは見えざりつ」と言高くのたまへば、
「さては扇のにはあらで、くらげのなり」と聞こゆれば、
「これは隆家が事にしてむ」と笑ひたまふ。
【訳】
(隆家は)『全く見たことのない骨の有り様だ』と人々が申します。
「そのとおり、実際これほどの物は目にすることはできなかった」と声高に仰るので、
「それならば扇のではなくて、くらげの(骨)であるようだ」と申し上げると、
「これは隆家の(言った)事にしてしまおう」と言ってお笑いになった。
参考:川添房江・津島知明訳注「新訂 枕草子 上」
くらげには骨がないため、「くらげの骨」とはこの世に存在しないものの比喩と考えられます。
「誰も見たことがないような扇の骨って、それって『くらげの骨じゃん!』」と咄嗟に発言し場を和ませたこのエピソードからも、清少納言が機転のきく社交的な人物だったことが伺えます。
公卿たちとの交流
ここからは公卿の男性たちと清少納言の交流を見ていきましょう。
『枕草子』には、定子だけではなく、定子に挨拶に来た際に女房として接待した、多くの公卿との交流も数多く描かれています。
中でも、清少納言が歌人として名を馳せるきっかけになったともされる、有名な藤原行成との交流をご紹介します。
ある日、行成が清少納言のもとを訪れ、酒を飲みながら夜遅くまで楽しく話をしていました。
行成は翌日仕事があるということで、明け方前には帰宅し、この時の気持ちを手紙で清少納言に伝えます。
行成:今日は心残りが多い気がする。夜通いし昔話をして明かそうとしたのに、鶏の声に急かされてしまった。
清少納言:かなり夜遅く鳴いておりました鶏の声は、孟嘗君の鶏でしょうか(=誰かが鶏の鳴き真似をして私達の楽しい時間を終わらせてしまったのでしょうか)。
行成:「孟嘗君の鶏は函谷関を開いて三千人の食客がやっと逃れた(鶏が鳴かないと開かない関所を、物真似の名人が鶏の鳴き真似をして開けさせた)」と故事にあるけれど、これは私達が逢う逢坂の関(男女の垣根)だ。
このように自らを口説いてくる行成に対して送ったのが「夜をこめて」の歌です。
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 心かしこき 関もり侍り
「逢坂の関には優秀な関守がいるため、鳴き真似など通用しませんよ(我々が過ごしていたのは逢坂の関ではありませんよ)」と、行成の口説きをいなすような内容になっています。
この歌を受け取った行成は逆に感動してしまい、この歌が広められた結果、清少納言は歌人として周知されることとなり、後の世に百人一首として収録されることに繋がったとも言われています。
清少納言のエピソード「陰」編
ここまでご紹介したエピソードだけだと、清少納言はただただ『枕草子』で自慢話だけしているだけのように感じるかもしれません。
『枕草子』には、清少納言の才能やセンスの良さをアピールしているような記述だけではなく、意外にも彼女の失敗談にもしっかりと触れられています。
「香炉峰の雪」のエピソードでは中宮定子に褒められたという話もありましたが、時には定子から得意の和歌にダメ出しをされる苦い経験もあったようです。
この章では、清少納言が『枕草子』に自ら記した、定子に仕えていた時の失敗談の数々をご紹介します。
引っ込み思案だった?
中宮定子にその才能を認められ、特別待遇で宮中に迎えられた清少納言。
少し意外な気もしますが、清少納言が定子のもとに出仕し始めた頃は、今まで経験したことのないきらびやかな世界ということもあり、どちらかと言うと引っ込み思案な性格であったようです。
いつも顔を隠してコソコソしていた清少納言は、定子に「葛城の神」とあだ名されてしまうことも。
葛城の神とは、見た目が醜いために昼間は活動せず、顔を隠して夜にだけコソコソと行動する神です。
『枕草子』では歯に衣着せぬ物言いで知られる清少納言ですが、最初から堂々と宮仕えに励んでいた訳ではなかったのですね。
定子に歌をダメ出しされる…
和歌の名手としても名高い清少納言ですが、こちらについても苦い思い出があるようです。
時には愛する主人・定子に自作の和歌をダメ出しされてしまうこともありました。
また、「三十六歌仙」にも選ばれている名人・清原元輔の娘ということもあり、常に周囲から上手な歌を求められることに嫌気が差したことも。
これを定子に打ち明けると、正月のイベントの際には和歌を詠まなくてもよいと気遣ってもらったこともあったようです。
定子の優しさも垣間見える素敵なエピソードですね。
道長のスパイ疑惑で実家に…
このように、『枕草子』には清少納言の自慢話ばかりが記述されている訳ではなく、あくまでも中関白家や自らが仕えた定子とその後宮のきらびやかさを伝えたかったのではないかと思われます。
中関白家の当主・藤原道隆の死後、時代は道隆の弟である藤原道長の天下となりますが、ある事情から清少納言は道長陣営に通じているのではないかと女官たちに噂されてしまいます。
自らにスパイの疑惑がかかったことに耐えかねた清少納言は、一時的に宮中への出仕をやめ、実家に帰ることになりました。
こうして引きこもっていた傷心の清少納言の元に、なんと定子から手紙が届きます。
長女文持て来たり。(略)胸つぶれてとくあけたれば、
紙には何も書かせたまはず。山吹の花びらただ一重を、
包ませたまへり。それに「言はで思ふぞ」と書かせたまへる。
いみじう日ごろの絶え間嘆かれつるみなぐさめてうれしきに、
【訳】
長女(女官)が(定子からの)文を持ってきた。どきどきして急いで開けたところ、
紙には何もお書きになっておらず。山吹の花びら一枚をお包みなさっていらっしゃる。
それに「心のなかでは思っていますよ」と書いていらっしゃるので、
何日もの音信不通の悲しさも慰められ嬉しくなり、
参考:川添房江・津島知明 訳注「新訂 枕草子 上」
山吹の花びらに書かれた「何も言わなくてもお前の気持ちは分かっているぞ」という定子の短くも優しい言葉に感激した清少納言は、その後無事に宮中に復帰することができました。
このように、キラキラした面ばかりが強調される清少納言ですが、決して最初から最後まで順風満帆だったという訳ではなかったようです。
『枕草子』誕生秘話
1000年もの時を超えて愛される傑作にして、清少納言の人物像も伺える作品・『枕草子』。
この作品はどのような経緯で書かれることになったのでしょうか。
『枕草子』誕生秘話は大河ドラマ「光る君へ」でも描かれましたが、この章では『枕草子』の記述をもとに、清少納言が『枕草子』を執筆するに至った真意や誕生秘話に迫りましょう。
また、『枕草子』の記述によると、どうやらこの作品のヒットは作者・清少納言の意図するところではなく、ある事情から世に”広まってしまった”ようなのです。
『枕草子』誕生
事の始まりは、定子の兄・藤原伊周が定子に紙を献上したことです。
絶頂を極めていた中関白家の貴公子・伊周は、当時とても貴重品だった紙を、定子に大量にプレゼントします。
この草子(略)宮の御前に、内大臣の奉り給へりけるを、
「これに何を書かまし。(略)」などのたまはせしを、
「枕にこそはべらめ。」と申ししかば、
「さは、得てよ。」とて給はせたりし
【訳】
この草子は(略)、中宮様(定子)に内大臣様(伊周)が献上なさった紙を、
中宮様は「これに何を書こうかしら(略)」とおっしゃったので、
私は「枕でございましょう」と申すと、
「それならば、あげましょう」といって私にお与えになられた
参考:川添房江・津島知明 訳注「新訂 枕草子 下」
定子は清少納言に「ここに何を書こうか」と尋ねると、清少納言は「枕にこそはべらめ」と返し、定子は「それならば貴方にあげましょう」と返答。
こうして清少納言は紙を手に入れることになりました。
「枕にこそはべらめ」の意味するところは詳しくはわかっておらず、「枕詞」の意味なのか、「枕のそばに置いておいて書きたいことがあれば書けばいい」というような意味なのか、様々な解釈がなされています。
ともあれ、いくら文才があっても紙がないと書くことはできませんから、この点清少納言はとても運が良かったと言えるでしょう。
清少納言が思いの丈をあり余る紙に記すことにより、数多くの名文が生まれ、『枕草子』は完成したのです。
勝手に持ち去られて…
では、清少納言の執筆した『枕草子』はいかにして有名になり、人々から評価されるようになったのでしょうか。
清少納言が道長陣営と通じていると疑われ一時実家に引きこもっていたある日、源経房という人物が清少納言のもとを訪れ、彼に本を持ち去られたことによって世に広まってしまったと『枕草子』には書かれています。
左中将まだ伊勢の守と聞こえし時、里におはしたりしに、
端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子載りて出でにけり。
まどひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。
それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。
【訳】
左中将(経房)がまだ伊勢の守と申し上げた時、里にいらっしゃった折に、
端の方にあった畳を差し出したところが何と、この草子が載って出てしまったのだ。
あわてて取り入れたけれど、そのまま持っていらっしゃって、
随分しばらしくて返ってきた。それから(この草子は)世に広まりだしたようだ、
と元の本にある。
参考:川添房江・津島知明 訳注「新訂 枕草子 上」
『枕草子』は定子のために書いた?
こうして経房によって世に広められた『枕草子』ですが、清少納言曰く「この草子は人に見せるために書いたものじゃない。広まってしまったことは残念だ」という気持ちだったようです。
『枕草子』には、時には人のことを悪く書いたり、嘲るような内容もあるため、読んで気分を害する人が出ることが嫌だったのでしょう。
では、「清少納言は『枕草子』を門外不出にし、本当に自分のためだけの日記にするつもりだったのか?」と問われると、決してそうでもないとも考えられます。
その根拠として、まず『枕草子』に使われている紙は定子から賜ったものであること。
そこには定子をはじめとした中関白家の輝かしい日々ばかりが描かれていること。
そして当時中関白家は凋落の途中にあったこと。
以上の点から、『枕草子』は「定子に見せるために書かれた」のではないかとも推察できるのです。
大河ドラマ「光る君へ」では、「兄弟たちの失脚や自邸の火事、愛する一条天皇とのすれ違いなどにより傷心した定子を元気づける目的で『枕草子』の執筆が始まる」というような描写がありましたが、実際の清少納言もそうした意図でこの作品を書き始めたのかもしれません。
晩年の清少納言の零落伝説
時代は道長政権となり、この世の春を謳歌した中関白家は没落し、主である定子も若くしてこの世を去り、清少納言のきらびやかな宮中での日々はほどなくして終わりを迎えます。
定子をはじめとする中関白家の没落後、清少納言がどのような生涯を送ったのかは定かではありませんが、地方に残る伝承や記述などから断片的な情報は垣間見れるようです。
最後に、『枕草子』を書いた後の清少納言の人生について、さまざまな伝説をご紹介します。
地方に下向?
定子の死後、清少納言は宮仕えを辞め、地方へ下向したとする説があります。
讃岐・阿波・近江・筑紫など様々な土地に清少納言の伝説が残っていますが、同時代の史料には確かなものがないのが現状です。
これらは、近世以降にいわゆる「町おこし」のような目的で創作されたものではないかと言われています。
平安時代に近い時代の史料として清少納言の足跡がわかるものといえば、鎌倉時代初期に成立したとされる『無名草子』があります。
これによれば、清少納言は宮仕えを辞めた後に誰かの乳母となり、その乳母子が地方の受領として赴任した際に彼女も一緒に付き添って下向したようなのですが、具体的な地名までは書かれておらず、どこに下向したかはわかりません。
京都・月の輪へ帰還
清少納言が地方に下向したことがほぼ確実であると認められる史料がもう一つあります。
藤原公任の歌集『公任卿集』に収録されている和歌の詞書(ことばがき)に重要な手がかりがあります。
清少納言が月輪にかへりすむころ
ありつゝも 雲間にすめる 月のわを いくよながめて 行帰るらむ
「清少納言が幾夜も眺めていた京の地に帰ってきた」というこの歌から、彼女が一時的に京を離れ、晩年には父の住んでいた邸宅で暮らしていたことが分かるのです。
この歌によると、清少納言は一時的に京都を離れ地方に移住したものの、再び都に戻り、亡き父・清原元輔の住んでいた「月の輪」の屋敷に住んでいたようです。
清少納言が晩年に住んでいた場所がわざわざ歌に詠まれるほどですから、やはり彼女と『枕草子』の名は広く世間に知られていたのでしょう。
結果的には零落した清少納言でしたが、もしかしたら京都で慎ましくも楽しく余生を過ごしていたのかもしれませんね。
『枕草子誕生!』清少納言が描いた中宮定子との美しき日々│まとめ
単純に「陰の紫式部・陽の清少納言」と言われることも多いこの二人ですが、清少納言もきらびやかな世界だけを経験したわけではなく、その裏では多くの苦労を経験していたことがわかりました。
大河ドラマ『光る君へ』では、紫式部のアドバイスを受けた清少納言が、傷心の定子を励ますべく『枕草子』を書き始めるシーンがとても印象的でしたが、その裏にはドラマでは描ききれなかった定子と清少納言の美しい絆もあったんですね。
清少納言が単純な「陽」な人物ではなく、酸いも甘いも経験してきてた女性だからこそ、あれほどまでの傑作を生み出すことができたのではないでしょうか。