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徳川家康の生涯を1歳~75歳までをわかりやすく一気に解説!
2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康。
誰もがその名を知る日本史の英雄ですが、彼の生涯について詳しく知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。
「どうする家康」とタイトルにあるように、家康の生涯には「どうするんだポイント」がいくつかありました。
今回の記事では、『どうする家康』をより楽しむために、徳川家康の75年の濃密な生涯をわかりやすく解説していきます。
なお、この記事で使用する家康の年齢は数え年といたします。
目次
1歳~8歳 人質としての竹千代(徳川家康)
徳川家康は、幼少期に親元を離れて人質生活を強いられていたことは有名です。
敗者の親族が幼くして人質になることは珍しい話ではありませんが、家康の場合は実に二家にもわたって人質生活を送ることになりました。
様々な事情から周囲の大人に振り回されてきた彼の波乱の幼少期が、後の天下人・徳川家康のルーツにもなったとも言われています。
この章では、そんな家康の生涯を語る上で欠かせない幼少期の人質時代についてわかりやすく解説していきます。
1歳 竹千代の誕生
時は戦国真っ只中の1542年。
竹千代(のちの徳川家康)は、三河国(現:愛知県)岡崎城にて誕生しました。
彼の生まれた松平家は、三河の国衆でした。
国衆とは、簡単に言うと戦国大名ほど大きな領土を持たない地域勢力で、松平家はあくまで三河国の中でも一部の地域を統べるに過ぎない一族だったと言われています。
6歳 竹千代、人質に
そんな松平家の当主は竹千代の父・松平広忠。
彼は、領地を接する尾張国(現:愛知県)・織田信秀(織田信長の父)とたびたび戦っていました。
1547年、広忠は信秀に敗れ降伏。人質として息子の竹千代は織田家に送られます。
竹千代はたったの6歳で両親と離され、人質として生活するという生涯最初の苦労に直面することになりました。
8歳 人質交換で今川家へ
それから2年後の1549年、竹千代は突如として父・広忠を亡くします。
広忠の死因は諸説あり、病死説や部下に殺害された説などがあります。
父を失った竹千代は、人質として織田家にいながら8歳にして松平家の当主になりました。
ここで駿河の大大名・今川義元が松平家救済を名目に織田家を攻撃し勝利します。
信長の兄・信広が人質として今川家に入ることになり、彼と交換という形で竹千代は、今度は今川家の人質となりました。
松平家当主となった竹千代ですが、この時点ではまだ故郷である岡崎城に帰ることは許されず、引き続き今川家の本拠地・駿府城で義元の庇護のもとで暮らすことになります。
14歳~17歳 今川氏配下の徳川家康
この章では、今川氏のもとに送られた青年期の家康(元信〜元康)の生涯を解説します。
彼は今川義元の庇護下で元服や結婚、初陣など家康の生涯においても重要なイベントをいくつか経験することになります。
そんな成長著しい青年期の家康の生涯をわかりやすく解説します。
14歳 元服「松平元信」
今川氏配下に置かれた竹千代は1555年、14歳で元服し松平元信となります。
元服とは今で言う成人式のようなもので、主君から名前の一字を貰って武士として正式な名を名乗るようになります。
この場合、主君の今川義元から「元」の字を貰って「元信」となりました。
今川家当主・義元から一字を貰ったわけですから、元信は義元から大きな期待をされていたことがわかります。
15歳 今川氏一門の娘・瀬名と結婚
1556年、15歳となった元信は、今川義元の親戚の娘・瀬名と結婚します。
こうして元信は、婚姻を通じて正式に今川家一門の仲間入りを果たしたのです。
大河ドラマ『どうする家康』では有村架純さんが演じ、物語の前半を盛り上げる重要な役柄となっています。
17歳 初陣「松平元康」
1558年、元信は17歳にして生涯初の戦を経験します。
今川氏の反対勢力の鎮圧を目的としたこの戦で元信は見事勝利し、故郷・岡崎をはじめとした所領を得ることになりました。
また、このタイミングで元信は「松平元康」に名を改めます。
名前の由来については諸説ありますが、名君と名高い彼の祖父・松平清康から「康」の字を貰ったのではないかとも言われています。
今川家については以下の記事で詳しく解説していますので、こちらも併せてご覧ください。
今川家はなぜ『名門』と呼ばれるのか?家系図を使ってルーツを解説!
19歳~22歳 松平元康(徳川家康)、独立
初陣の勝利によって岡崎の地を手に入れた元康でしたが、この時点ではまだ駿府にて今川義元の配下に止め置かれ、岡崎に戻ることはできていません。
あくまで今川義元の親戚として彼の側で仕え、岡崎の統治はリモートで行うという形式をとっていたのです。
このままでは今川家の一家臣のままで終わってしまう元康ですが、彼はこの後一大決心をし、お世話になった今川家を裏切って独立する道を選びます。
ここからは、元康が独立し「家康」となるまでの過程をわかりやすく解説していきます。
19歳 桶狭間の戦い
元康が19歳になった1560年、日本の歴史を動かす最初のどうする家康ポイントが起きます。
主君・今川義元が尾張の織田信長に敗れ討死する「桶狭間の戦い」です。
突如当主を失い大混乱に陥った今川家を見た家康は、ここで一大決心をします。
なんと今川を捨てて勝手に故郷・岡崎城に帰還してしまうのです。
こうして、元康は19歳にしてようやく故郷に帰り岡崎城主となることが叶いました。
今川家の当主は義元の息子・氏真にバトンが渡されていましたが、元康にとっては恩があるのはあくまで義元だけだったのかもしれません。
桶狭間の戦いについて以下の記事で詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
桶狭間の戦いはなぜ起きたのか?原因をわかりやすく解説!
桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは
20歳 織田信長と和睦
独立を果たした元康ですが、ここからが彼の正念場です。
元康の治める三河国・岡崎は、西の織田家・東の今川家に挟まれておりとても不安定な情勢でした。
この状況を打破すべく、1561年、20歳になった元康は尾張国の織田信長との和睦を選択します。
何代にもわたり戦を交えてきた両者ですが、ここで今川家打倒のため手を取り合うことになりました。
21歳 瀬名・信康を救出
今川家から独立した元康には一つ気がかりなことがありました。
単身岡崎に帰還した元康は、妻の瀬名と息子の信康を今川家の本拠地・駿府に置いたままだったのです。
このまま今川家と戦闘を続けると人質となっていた彼ら妻子が殺されるリスクもあるため、元康は彼らの奪還を画策。
今川家の武将を生け捕りにし、瀬名・信康と交換する形で妻子を岡崎に迎え入れることに成功しました。
22歳 「松平家康」改名
1563年、22歳となった元康は名を「家康」と改めます。
前述の通り、これまで家康が名乗ってきた「元信」「元康」の「元」の字は今川義元から貰った字です。
この「元」の字を捨てることにより、今川家との対立姿勢を明確にしたとされています。
また、家康が22歳の時には「三河一向一揆」が発生しています。
独立直後から、家康は新たに入った岡崎の地で今川家との戦を繰り返していました。
長期化する戦に疲弊した三河国の民衆が一向宗の宗教勢力と結びつき、領主である家康に大規模な反乱を起こしたのです。
家康は重臣の裏切りなどもあって一揆の鎮圧にはかなり苦労したようで、三河一向一揆は家康の生涯三大危機の一つにも数えられています。
三河一向一揆については以下の記事で詳しく解説しているので、是非併せてご覧ください。
『三河一向一揆』とは?わかりやすく解説!原因は宗教ではなく家康だった!?
25歳~28歳 戦国大名「徳川家康」
この後、いよいよ元康は皆さんの知る「徳川家康」となり、戦国大名として領国の平定や他国への侵攻などの事業を進めていくことになります。
家康は室町幕府公認の三河国守護となり、隣国の織田信長や今川氏真との関係も変化していきます。
25歳 三河国平定
三河国には前述の一向一揆だけでなく、今川家に味方する勢力も多く存在し長らく不安定な状況でしたが、家康が25歳となった1565年には祖父・清康も成し得なかった三河国平定に成功します。
そして、このタイミングでいよいよ松平から「徳川」に改姓。徳川家康が誕生します。
徳川改姓の理由としては、室町幕府から三河国守に任じてもらうためには松平姓では格が低すぎたためだとされています。
三河守就任のために、家康の先祖が名乗っていて松平よりも由緒のある「徳川」に改姓する必要がありました。
徳川家康の改姓については、以下の記事で詳しく解説しているので是非こちらも併せてご覧ください。
なぜ?家康が『松平』から『徳川』に苗字を改姓した理由
26歳 信康・五徳の婚約
1567年には家康の嫡男・信康と信長の娘・五徳が婚約しています。
ちなみに、信康の「信」の字は織田信長から一字貰っています。
またこの頃、西の織田信長は尾張国だけでなく美濃国(現:岐阜県)も平定し、勢力を大きく拡大しました。
こうした中で家康は、今川家から独立し三河守就任を果たしたものの西の大勢力・信長の顔色も伺わなければならない立場に陥ります。
信長の娘である五徳姫の生涯については、以下の記事で詳しく解説しています。
長の娘・五徳姫のその後と辿った生涯
28歳 今川家滅亡
1568年、27歳の家康は三河国と国境を接する今川領の遠江国に侵攻します。
この家康の攻撃には今川家を本気で潰しにかかる意図があったとされています。
また、甲斐国(現:山梨県)の武田信玄も、今川家との婚姻同盟を破棄して駿河に南進し侵攻を開始。
今川家は家康と信玄に挟み撃ちにされる形で滅亡してしまいました。
29歳~32歳 武田信玄との争い
こうして今川家が滅亡すると、旧今川領の領有をめぐって甲斐国の武田信玄と対立することになりました。
この対立の中で、家康の生涯最大のピンチとも言われる「三方ヶ原の戦い」も発生しています。
この章では信玄との関係悪化の過程からわかりやすく解説します。
29歳 武田信玄との関係悪化
織田信長の支配する美濃国と武田信玄の支配する信濃国(現:長野県)は接していたため、争いを避けたい両者は同盟関係にありました。
この頃の信玄と家康の関係ですが、直接同盟を結んでいたわけではないものの、信玄と同盟関係にある信長の同盟者、いわば「友達の友達」のような関係にありました。
しかし、家康は武田信玄最大のライバル・上杉謙信と同盟を結ぶという挑発的な行動をしてしまい、家康・信玄間の関係が悪化していきます。
信玄も信長に対し「家康と謙信が仲良くするのをやめさせろ」と迫りますが、信長はこの要求をかわし信玄は激怒します。
31歳 三方ヶ原の戦い
こうして対立した家康と信玄はついに戦闘へと発展していきます。
家康が31歳になる1572年、家康の生涯最大のピンチとも言われる「三方ヶ原の戦い」が勃発。
この戦いでは信長に援軍を貰いながらも家康は信玄に対し屈辱的な大敗を喫します。
32歳 信玄死去・室町幕府滅亡
恐怖のあまり脱糞しながら命からがら生還したと後世に創作されるほどの惨敗を喫した家康。
まさに絶体絶命のピンチでしたが、翌年の1573年に武田信玄が急死します。
リーダーを失った武田軍は撤退。家康は窮地を脱しました。
また同じ頃、織田信長は協力関係にあった室町幕府将軍・足利義昭と対立し京から追放し、室町幕府は滅亡しました。
武田家の滅亡については以下の記事で詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた?
34歳~40歳 織田信長との共闘
この後の家康は、実質的な天下人となった信長に忠実に従って行動していくことになります。
信長のためなら時には自身の妻子をも死に追いやるなど、異常なまでに信長に気を遣っている様子も伺えます。
また、家康は信長とのタッグによって長年苦しめられてきた武田家を滅亡させることにも成功しています。
34歳 長篠の戦い
1575年、家康が34歳の頃に織田・徳川連合軍が信玄の後継者である武田勝頼をやぶった「長篠の戦い」が勃発。
従来、この戦いは信長の「鉄砲三段撃ち」などの奇抜な戦術により勝利したと考えられていましたが、現在では徳川軍の活躍が勝因とも言われています。
長篠の戦いにより、かねてから家康を苦しめてきた武田家に大打撃を与えることに成功しました。
以下の記事では、長篠の戦いの真実や戦法、武田軍が敗北した理由について詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説
38歳 松平信康事件
1579年、38歳になった家康の身に起きた彼の生涯最大のどうするポイント「松平信康事件」を解説します。
長篠の戦い以後弱体化したとはいえ、武田家はまだまだ強大な敵でした。
信長に従って武田との戦いを継続したい派閥と信長を裏切って武田に寝返ろうとする派閥が生まれ、徳川家の家臣は分裂していました。
このような状況の中、家康の嫡男・松平信康が武田に寝返ろうとしているとの嫌疑がかかります。
信長に忖度したい家康は、なんと息子である信康、そして正妻の瀬名を誅殺するという選択をとりました。
妻子を死に追いやるという非情な決断を下した家康は、信長との関係を守り、家臣団を「打倒武田」でまとめ上げることに成功します。
松平信康事件の真相については、以下の記事で詳しく解説しています。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
40歳 高天神城攻略
家康が40歳になる1581年、武田家の重要な要塞である高天神城を攻略しました。
これが痛手となって武田家は滅亡したとも言われています。
高天神城で戦っていた武田家武将たちは家康に対し降伏し許しを請いますが、織田信長は彼らを許さず皆殺しを命令しました。
この頃の武田勝頼は織田・徳川連合軍だけでなく北条家ら強大な敵とも戦っていました。
そのため、高天神城に援軍を出す余裕がありませんでした。
高天神城の武田家臣を皆殺しにすれば、勝頼が彼らを見捨てたという既成事実を作ることができ、それによって勝頼の家臣からの信頼を失わせる狙いだったと言われています。
さすが魔王・信長。恐ろしいですね。
高天神城を任された鉄壁の猛将『岡部元信』の記事も是非ご覧ください。
武田家に仕えた鉄壁の猛将『岡部元信』と高天神城の戦い
41歳~43歳 北条氏・羽柴氏と敵対
この頃になると、徳川家康は戦国大名として円熟味を増し、多くの戦いで結果を残しています。
そして、武田氏が弱体化しても新たな強敵が家康の前に立ちはだかります。
北条氏直、そして羽柴秀吉です。
また、これまで上司のような存在だった信長が急死したことで家康の立場も大きく変化します。
41歳 武田家滅亡・本能寺の変
信長の残虐な策略も奏功し、1582年には武田家を滅亡させることに成功しました。
そして、同年には家康の生涯最大のターニングポイントとも言える「本能寺の変」が発生しています。
この時堺に滞在していた家康は明智光秀に命を狙われる身となり、命からがら三河へと帰還します。
これが有名な「神君伊賀越え」です。
なんとか無事に三河に帰国した家康ですが、うかうかしてはいられません。
本能寺の変後に空白となっていた旧織田家領国をめぐって、休む間もなく「天正壬午の乱」が勃発。
関東の一大勢力・北条氏との戦争が始まります。
本能寺の変は現在も歴史研究が進められている題材です。詳しくは以下の記事をご覧ください。
本能寺の変『徳川家康黒幕説』は成立するのか?考察してみた!
42歳 督姫・北条氏直の婚姻
戦国大名として多くの経験をした家康は、この頃はちょうど脂の乗りきった頃だったのでしょう。
関東の巨大勢力である北条氏相手にも全くひけをとりません。
最終的には戦いは和睦へと持ち込まれ、家康は娘の督姫を北条氏直に嫁がせています。
こうして一旦関東の戦乱は収束しました。
43歳 小牧・長久手の戦い
明智光秀を倒して主君・織田信長の敵を討った後、ライバルである柴田勝家も倒し、この頃織田家家臣の中で最も勢いがあったのが羽柴秀吉でした。
秀吉が織田家を牛耳っていく様子が気に入らない信長の次男・織田信雄が家康を頼り、「秀吉vs信雄」の構図に家康も巻き込まれます。
こうして1584年に始まった秀吉vs信雄・家康の戦いが「小牧・長久手の戦い」です。
44歳 石川数正の出奔
秀吉・家康という大大名同士がぶつかった結果、多くの戦死者を出すとても激しい戦いとなりましたが、1585年に織田信雄は突如秀吉に臣従してしまいます。
小牧・長久手の戦いの言い出しっぺである信雄が家康に無断で秀吉に臣従するという事態に家康は困惑します。
「信雄を助けるため織田家を乗っ取った秀吉と戦う」という家康軍の大義名分もなくなり、家康の味方になっていた各地の勢力も次々に秀吉へと寝返ることになりました。
こうして家康を裏切った有力者への征伐として有名なのが、真田昌幸と戦った「第一次上田合戦」です。
しかし、昌幸の軍略に家康は大敗を喫します。
昌幸が本拠としていた上田城は、元々家康が出資して築城されたものだったというのも何とも皮肉です。
こうした中、家康にさらなる不幸が舞い込みます。
長年仕えてきた重臣・石川数正が家康を裏切って秀吉のもとへ出奔してしまいました。
彼の出奔については諸説ありますが、大河ドラマ『どうする家康』ではどのように描かれるのか楽しみですね。
石川数正の出奔の理由については、以下の記事で詳しく解説しています。
孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!
45歳~52歳 秀吉配下の徳川家康
本能寺の変で織田信長が死んだあと、上位の存在がいなくなり、完全に独立した戦国大名としての地位を手に入れた徳川家康でしたが、その時代は長くは続きませんでした。
家康は、一度は戦った羽柴秀吉に臣従し、再び上位の大大名の傘下に入るという立場になります。
45歳 秀吉に臣従
1586年。45歳の家康は秀吉に臣従するという選択をとります。
味方の離反が相次ぐ家康だけでなく、戦いを優位に進めていた秀吉にとっても泥沼化する小牧・長久手の戦いは一刻も早く終わらせたかったのでしょう。
家康と秀吉の妹・旭姫が婚約することにより両者の和睦が成立しました。
49歳 小田原征伐・関東移封
家康が50歳を目前にした1590年、秀吉の小田原征伐に従軍します。
前述の通り、家康は小田原の北条氏とは同盟関係にありましたが、秀吉の配下に下った家康は同盟を反故にして小田原征伐に傘下しました。
なお、秀吉が小田原征伐に勝利し天下統一を完成させた後、家康は同盟関係にあった北条氏直の助命を秀吉に嘆願し彼の命を救うことには成功しています。
その後、北条氏の滅亡により生じた関東一帯の空白地帯を任せられるという形で家康は秀吉により関東・江戸へと本拠地を移されました。
北条氏滅亡に伴って家康が関東入りしたことが現在の首都東京へと繋がっていくのです。
52歳 秀吉の唐入り計画
1593年に秀吉は中国大陸の明王朝の征服を企てて大陸に進出しますが、ボロボロになって帰ってきてしまいます。
これが有名な「朝鮮出兵」または「文禄・慶長の役」です。
この時、家康は海を渡っての参戦はしておらず、肥後国・名護屋城にて待機していました。
大陸に渡って手柄を挙げることはできませんでしたが、ここで消耗することなく済んだことが後の関ヶ原の戦いでの勝利に繋がったとも言われています。
59歳~75歳 天下人・徳川家康
朝鮮出兵の失敗の後、ほどなくして豊臣秀吉が死去。
ここからいよいよ徳川家康の天下取りが始まります。
「関ヶ原の戦い」で天下人となり、戦国最後の戦い「大坂の陣」で徳川家の天下が盤石なもとなったのを見届け、75歳でこの世を去るまでの家康をわかりやすく解説します。
59歳 関ヶ原の戦い
1600年、いよいよ天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こります。
豊臣秀吉の死後、後継者の秀頼がまだ幼い中で豊臣政権を運営していったのが徳川家康でした。
このように豊臣家の政権を家康が乗っ取るような形に納得がいかない石田三成ら豊臣家有力家臣と家康が対立。戦闘に発展します。
これに家康が勝利したのが関ヶ原の戦いです。
こうして家康には敵対勢力がほぼいなくなり、59歳にしてようやく天下人となったのです。
徳川家康と石田三成は実は仲良しだった説も考察されているので、こちらも是非併せてご覧ください。
徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較
73歳 大坂の陣
関ヶ原での勝利後、ほどなくして征夷大将軍に任ぜられた家康の天下は盤石なものであるかのように思えました。
しかし、まだ強力な敵対勢力が残っています。
秀吉の遺児・豊臣秀頼です。
関ヶ原の戦いの頃には幼かった彼も成長しており、家康にとっては脅威となる存在でした。
1614年、73歳となった家康はついに豊臣家滅亡に踏み切ります。
「大坂の陣」です。
大坂の陣に勝利し豊臣家を滅ぼした徳川家に対抗できる勢力はもはや完全にいなくなりました。
大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!?
75歳 駿府城にて死去
大坂の陣の翌年の1616年、駿府城にて家康は豊臣家の滅亡を見届けるようにして75歳でこの世を去りました。
死因については、鯛の天ぷらに当たった等様々な説がありますが、定かなことは解っていません。
『どうする家康』では家康の最期がどのように描かれるのか今から楽しみですね。
徳川家康の死因については、現在も歴史研究の対象となっています。詳しくは以下の記事をご確認ください。
徳川家康の死因は戦ではなく胃がん?鯛の天ぷらを食べすぎた説も調査
徳川家康の生涯を1歳~75歳までをわかりやすく一気に解説!│まとめ
徳川家康の75年にもわたる波乱万丈の生涯をわかりやすく解説してきました。
もちろん、今回の記事で紹介した出来事は家康の生涯のほんの一部です。
それぞれの事件や戦乱も詳細に調べればもっと面白い発見があると思います。
気になった事柄があればぜひ他の記事にて参照してみてください。
▼主な参考文献