- 戦国BANASHI TOP
- 歴史的建造物の記事一覧
- 『熊本城』加藤清正が建てた天下の名城へ!!歴史を振り返りながらロケ!
『熊本城』加藤清正が建てた天下の名城へ!!歴史を振り返りながらロケ!
豊臣秀吉(とよとみひでよし)子飼いの武将、加藤清正(かとうきよまさ)が建てた熊本城は、日本の城の中でもとりわけ有名な城です。
武者返しと呼ばれる特徴的な石垣はもちろん、連続桝形や各所にある櫓などは、機能性と美しさを兼ね備えた防衛設備と言えるでしょう。
また、建築時から西南戦争や平成28年(2016年)の熊本地震など、400年以上にわたる長い歴史を経てきた城でもあります。
今回はそんな熊本城の歴史や見どころなどを解説していきます。
戦国時代から近代までの幅広い時代に関係するので、歴史好きの方はぜひ読んでみてください。
↓本編動画はコチラから!↓
400年以上にわたる熊本城の歴史を解説
熊本城は加藤清正が建てた城として有名ですが、実はそれ以外にも興味深い歴史を持った城でもあります。
まずは400年以上にわたる熊本城の歴史について振り返りましょう。
清正だけではなく、名家として有名な細川家や明治時代の西南戦争も関わっているので、ここを知れば熊本城をより深く理解することができるはずです。
熊本城を築城した加藤清正
加藤清正は熊本城を築城した人物であり、この城を語る上で欠かせない人物でしょう。
永禄5年(1562年)に尾張国中村の刀鍛冶の息子として生まれ、秀吉の小姓から身を立てて功績を積み上げました。
柴田勝家(しばたかついえ)と秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳の七本槍」としてその武勇が讃えられたことで有名です。
一方、豊臣政権では交渉や事務処理を行う文官としての一面を持ち合わせており、築城や灌漑などの土木工事にも優れた才能を発揮しました。
天正16年(1588年)、肥後に入国した清正はまず隈本城に入り、長引く戦乱で荒れ果てた土地を立て直すために治山・治水工事や水田開発に注力します。
慶長5年(1599年)には茶臼山で熊本城の築城に着手し、関ヶ原の戦いを挟んで慶長12年(1607年)に城が完成しました。
清正が49歳で死亡した後は息子の加藤忠広(かとうただひろ)が2代藩主となりますが、寛永9年(1632年)に加藤家は改易。
しかし、清正の積極的な領地経営が肥後を豊かにしたことで、現在まで「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ親しまれています。
加藤家から肥後を継いだ細川忠利
加藤家改易後は名門細川家の細川忠利(ほそかわただとし)が肥後に入国しました。
細川家とは?
織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた大名家で、元は室町幕府の管領として実権を握った名門。
忠利の祖父・細川幽斎(ほそかわゆうさい)は一流の文化人として有名で、父の細川忠興(ほそかわただおき)も千利休(せんのりきゅう)に師事した茶人として知られています。
忠利は清正の霊位を先頭にかざして肥後に入国し、熊本城天守で「あなたの領地をお預かりします」と清正の墓所「浄池廟」に向かって拝みました。
清正に敬意を示して領民との融和を図ったのかもしれません。
忠利が入国した当初、熊本城は大地震による硝煙蔵の爆発で天守や櫓、石垣などがかなり破損しており、忠利はまず修復や拡張に取り掛かりました。
城の「宇土櫓」には加藤家の桔梗紋や細川家の九曜紋、防火のまじないとされる三つ巴紋が刻まれた瓦が混在しており、加藤家の築城や細川家による増築・修復の痕跡が残っています。
また、忠利は祖父や父のように和歌や茶道をたしなむ一方、武芸にも熱心で若いころから柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に入門しました。
晩年の宮本武蔵(みやもとむさし)を食客として招き、現在の千葉城町付近に屋敷を与えたそうです。
西南戦争では薩摩軍の攻撃を耐え抜く
歴史は近代に移り、明治10年(1877年)に起きた西南戦争では熊本城が籠城戦の舞台となりました。
西南戦争とは?
明治政府が近代化・中央集権化を進める中、特権を失ったことで不満を募らせた武士が、政府から離れた西郷隆盛(さいごうたかもり)を擁して挙兵した戦争。
約7カ月におよぶ激戦の末、最後は隆盛の自刃で終結しました。
この戦争では政府軍の熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)が、鎮台兵3千5百人を率いて熊本城に籠もり、薩摩軍1万3千人と戦います。
薩摩軍は籠城兵を平民の寄せ集めと甘く見ていましたが、熊本城は元々城としての防御力が高く、そこに政府軍が大砲などを置いて鉄壁の要塞に仕上げたため、実際は苦戦を強いられたそうです。
結果として薩摩軍は攻略を諦め、政府軍はおよそ50日間に及んだ防衛戦に勝利しました。
ちなみに開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎上しましたが、原因は放火や自焼などの諸説あり、いまだに特定はできていないそうです。
城内には西南戦争にまつわる石碑や銅像があるので、明治の歴史に思いを馳せるのも良いかもしれませんね。
石垣や連立桝形など、熊本城の見どころ紹介
熊本城には代表的な武者返しと呼ばれる石垣や、連続桝形という敵の侵入を防ぐ入り組んだ通路など、城を守るためのさまざまな構造があります。
熊本地震の被害で一部復旧中の部分もありますが、ここからは数寄屋丸や飯田丸などを巡りながら、熊本城の見どころを紹介していきます。
数寄屋丸
数寄屋丸は天守から南西に位置しており、二階御広間は能や茶会、歌会など、接客の場に使われていました。
一画には切石で床面や側面、石段を造った半地下の空間があり、平滑な石を隙間なく組み合わせた床が地図のように見えるため、「地図石」と呼ばれています。
また、地図石は熊本城の石組みでも特殊な「切石積み」と呼ばれる方法で築かれました。
明和6年(1769年)ごろに描かれた絵図には「御待合入口」と記されており、茶会に集まる人々を楽しませる趣向だったのでしょう。
熊本城特有の武者返しや二様の石垣
熊本城は各所にある「武者返し」の石垣が最大の特徴と言えます。
武者返し
下はゆるやかで簡単に登れるように見えますが、上に向かえば向かうほど反り返りが激しくなっています。
武士はもちろん身軽な忍者でさえ登れないことから、「武者返し」という名前がつきました。
その見事な熊本城の石垣の中でとりわけ興味深いのが、数寄屋丸から見た本丸御殿の下部にある「二様の石垣」です。
清正の時代とそれ以降に築かれた2種類の石垣が連なっており、他の城では見られない珍しい構造でしょう。
「奇跡の一本石垣」で有名な飯田丸
飯田丸は本丸の南西を守る要所で、内部には井戸のある台所や鉄砲櫓が設けられ、周囲を平櫓や塀で囲んだ曲輪です。
特に重要な南西隅の飯田丸五階櫓は熊本地震では石垣の一部が崩落し、隅石で櫓を支えたことから「奇跡の一本石垣」と呼ばれました。
現在、櫓や石垣は調査・解体され、復旧に向けて大切に保管されています。
敵の侵入を防ぐ連続桝形
飯田丸から竹の丸へ続く南の通路は、「連続桝形」という特徴的な構造となっています。
熊本地震で石垣などは崩れていますが、西竹の丸五階櫓を中心に6回折れ曲がり、通路の途中には元札櫓門と札櫓門の2つの門を置いていました。
通路周囲にある石垣の上には五階櫓や櫓門のほかに三階櫓や塀があり、攻め手にとって突破困難な構造と言えるでしょう。
本丸御殿から天守閣へ
ここからは城の中枢となる本丸御殿と天守閣を解説していきます。
特に天守閣は長い歴史の中で西南戦争や熊本地震などの被害を受けましたが、その度に見事な復旧を遂げた美しい姿は見ごたえがあるでしょう。
また、加藤清正が籠城に備えて用意したものも各所にあり、当時の籠城戦をより深く知ることができるはずです。
本丸御殿
本丸御殿は城主が普段生活していた場所です。
熊本城は絵図や古写真、古文書、発掘調査で見つかったものから、建築当時の趣を復元しました。
本丸御殿には井戸も残っていますが、城内には全部で120個ほどの井戸があるそうです。
清正は朝鮮出兵で苦しい籠城戦を強いられたため、城内の水が尽きないように井戸をたくさん作ったのかもしれません。
全国的に珍しい「闇り通路」
本丸御殿の床下には、「闇り通路」という特徴的な地下通路があります。
2つの石垣に挟まれた通路で、昼間も暗いことから闇り通路と呼ばれました。
また、通路の入口は闇り御門と呼ばれ、その上部の屋根は唐破風となっています。
地下通路は日本全国の御殿建築において珍しく、熊本城の見どころの1つと言えるでしょう。
幾度も復旧した熊本城天守閣
熊本城内で並び立つ大天守と小天守の2つの天守閣。
実は明治10年(1877年)の西南戦争直前に起きた火災で消失しています。
昭和35年(1960年)に鉄筋鉄骨コンクリート造で再建された後、熊本地震では最上階の瓦や鯱瓦の落下、地下室石垣の崩落などがありましたが、震災復興のシンボルとして最優先で復旧を進め、令和3年(2021年)3月に完全復旧しました。
大天守は外観3重、内部は地上6階地下1階建てで、最上階からは熊本市内や阿蘇の山並みを見渡すこともできます。
天守閣の四面に配した「千鳥破風」や、最上階の南北の「唐破風」という建築様式が特徴で、小天守の石垣の上には「忍び返し」という敵の侵入を防ぐ鉄串があります。
また、天守閣の内部にある「御鉄砲間」や「御具足之間」、「御矢之間」などの部屋は、江戸時代に武具を納めていました。
400年の歴史を経て今も残る大銀杏
天守閣のすぐ近くには「大銀杏」と呼ばれる大きな銀杏の木があります。
加藤清正が築城時に植えたもので、籠城時の食料とするために用意したのかもしれません。
西南戦争の戦火にあってもこの銀杏の木は現代まで残っており、熊本城の長い歴史を物語る重要な木と言えるでしょう。
『熊本城』加藤清正が建てた天下の名城へ!!|まとめ
今回は加藤清正が建てた熊本城に焦点を当て、400年以上にわたる歴史や見どころなどを解説しました。
熊本城は各所に清正の工夫が凝らされているだけではなく、細川家や西南戦争など、長い歴史の中で戦火や復興を経験してきたことがわかりますね。
また、熊本地震の被害を受けた部分もありますが、それでも熊本城の魅力を存分に感じられる見どころはたくさんあります。
城や歴史が好きな人はぜひ一度訪れ、名城・熊本城の歴史を感じてみてください。
当サイトでは、他にも歴史的建造物にロケに行った際の記事がございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
【日本100名城】美しすぎる北条の城『山中城』障子堀など見どころ満載!
水攻めで沈められた『備中高松城』!名将・清水宗治の軌跡を辿る!