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水攻めで沈められた『備中高松城』!名将・清水宗治の軌跡を辿る!
備中高松城の水攻めは、数多くある豊臣秀吉(とよとみひでよし)の戦でも有名な合戦の1つではないでしょうか。
水攻めで清水宗治(しみずむねはる)の守る備中高松城を孤立させて戦意を削ぎ、毛利との和睦から山崎の戦いで明智光秀(あけちみつひで)を破るまでの流れは、見事と言うしかありません。
今回はそんな歴史の大きな転換点となった備中高松城と周辺の史跡を解説していきます。
地図や写真を使いながら秀吉の水攻めを詳細に説明するので、城好きや戦国時代の戦に興味がある人はぜひ読んでみてください。
備中松山城の水攻めとは?
まずは備中高松城の戦に至るまでの経緯や水攻めを解説していきます。
備中高松城の水攻めには織田信長(おだのぶなが)も関わっており、この背景を知ることでより深く歴史を理解できるでしょう。
また、水攻めの基本や備中高松城の他に行われた水攻めも紹介していきます。
対毛利戦を任された秀吉
天下統一に躍進する織田信長は、天正年間から重臣らによる大軍団を組織して各地方に展開させました。
北陸方面 | 柴田勝家 |
---|---|
畿内方面 | 明智光秀 |
中国方面 | 羽柴秀吉 |
関東方面 | 滝川一益 |
四国方面 | 織田信孝 |
このうち、中国方面を任された羽柴秀吉は、毛利家を攻めるために3万の大軍で備中の南東部に侵攻します。
毛利方の城を次々と攻略した秀吉は、天正10年(1582年)に清水宗治が守る備中高松城を包囲しました。
秀吉は城主・宗治に降伏を勧めますが、義に厚い宗治はこれに応じません。
また、備中高松城は沼に囲まれて水面との比高もわずか4メートルしかない平城で、攻略するにも足を取られて進みにくい難攻不落の城だったのです。
秀吉が発案した水攻めとは?
備中高松城の戦いでは、毛利側の小早川隆景(こばやかわたかかげ)と吉川元春(きっかわもとはる)が援軍として駆け付け、地図のように城を包囲する秀吉軍と足守川を挟んでにらみ合っていました。
戦況が膠着する中、秀吉と軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)は水攻めで備中高松城を攻めようとします。
水攻めは大量の水で城を囲み孤立させる戦法で、秀吉が好んで使ったそうです。
備中高松城攻めだけではなく、「紀伊国太田城攻め」や小田原征伐での「忍城攻め」でも水攻めを行っており、これらは「日本三大水攻め」とも呼ばれています。
備中高松城では大規模な堤防をわずか12日間で築き、近隣にある足守川の水を引き入れて備中高松城を湖の孤城にしました。
攻めにくい城の立地を逆手にとったこの水攻めは、天下の奇策とも言えるでしょう。
三ノ丸から本丸までを地図や写真で解説
備中高松城は天然の地形を生かした要害ですが、意外にも城の規模は大きくありません。
しかし、城址の中にはさまざまな見どころがあるので、ここからは備中高松城趾を地図や写真で紹介していきます。
三ノ丸跡
備中高松城の三ノ丸は城の南口の要所にありました。
川舟を並べた船橋で城外とつながっていたと伝わっています。
平時は船橋を通路として活用し、敵が攻めたときには船を隠して侵攻を妨げる合理的な構造でした。
橋を作ったり壊したりする手間を省けるため、備中高松城が水を制する沼城ということがわかります。
また、三ノ丸跡の近くには「高松城址公園資料館」があり、清水宗治や備中松山城、水攻めに関する史跡などを紹介したパネルや写真を展示しています。
資料館にある二次元バーコードを読み込めば、備中高松城の戦いを再現したVRコンテンツを楽しむことができるので、訪れた際はぜひ試してみてください。
400年の時を超え咲く宗治蓮
三ノ丸跡から本丸跡に向かう途中で目に付くのが、美しい蓮の花が一面に広がる池の「宗治蓮」です。
例年6月下旬から7月にかけて咲いており、整備された池の底にある蓮が自然に成長したと言われています。
古来から本丸と二の丸の間は「蓮池」の地名が残っていて、これまで城主・宗治の名前にちなんで宗治蓮と呼ばれ親しまれてきました。
400年の時を超えて宗治との関連を思い起こさせるこの宗治蓮は、まさに歴史のロマンと言えますね。
本丸跡
三ノ丸から二ノ丸を越えるとすぐに本丸にたどり着きます。
本丸は備中高松城の戦い後も改修されながら維持され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、徳川氏の旗本が陣屋を構えました。
ここで先ほど紹介したVRコンテンツを使うと、スマホで各武将の布陣や各陣からの景色を見ることができるので、訪れた際はぜひVRコンテンツで戦の臨場感を感じてみてください。
また、本丸跡には清水宗治の辞世の句を彫った石碑があります。
清水宗治の辞世の句
浮世をば今こそ渡れ 武士の名を高松の苔に残して。
石碑の隣には宗治の首塚もあり、清水宗治の最期に思いを馳せることができるでしょう。
ちなみに当初の首塚は秀吉の本陣があった石井山にありましたが、明治期にこの本丸跡に移ったそうです。
清水宗治自刃の地
秀吉の水攻めでこれ以上の抵抗は無理だと悟った宗治は、城兵5千人の命の保障と毛利・織田の和睦を条件に切腹しました。
備中高松城の隣にある妙玄寺には、その宗治が切腹した場所と伝わる「清水宗治公自刃の地」があります。
ここで宗治は秀吉の用意した小舟に兄の月清入道と乗り込み、誓願時の曲舞を舞った後に辞世の句を詠んで切腹したそうです。
宗治の名誉の死によって清水家は毛利家の一門家老に順ずる扱いを受け、幕末・明治維新まで続きました。
また、自刃の地の近くには「ごうやぶ」と呼ばれる場所があり、宗治の草履取り・七郎二郎と月清入道の馬の口取・興十郎が、「私たちもお供する」と言って刺し違えたエピソードが伝わっています。
秀吉が築いた堤防や本陣を地図で解説
備中高松城の水攻めで秀吉は、長さ約2.7キロメートル、高さ約7メートルの長大な堤防を築いて城の周囲に水を引き入れました。
その堤防の一部は現在も残っており、ここからは地図や写真で当時の堤防の規模などを解説していきます。
秀吉や黒田官兵衛がいたと言われる本陣も解説するので、秀吉側から見た備中高松城の水攻めに迫っていきましょう。
最上稲荷の大鳥居
備中高松城趾から秀吉が築いた堤防跡に向かうと、まず目に入るのが最上稲荷の大鳥居です。
車道をまたぐ形で立っており、なかなか見られる光景ではないでしょう。
最上稲荷の参道口かつシンボルであり、高さは27.5メートル・柱の直径は4.6メートルでとても巨大な鳥居です。
なお、最上稲荷の本殿は、高松に到着した秀吉が最初に本陣を置いた龍王山にあります。
秀吉が築いた蛙ヶ鼻築堤
最上稲荷の大鳥居を通過すると、羽柴軍が築いた堤防の一部と言われる遺構がある蛙ヶ鼻にたどり着きます。
堤防の高さは8.4メートルで本丸最上段の高さ7メートルを上回り、水攻めでは本丸が完全に沈んでしまうでしょう。
羽柴軍はこの堤防を12日間で築いたと伝わっていますが、地図にあるように実際はほとんどが自然の堤防で、蛙ヶ鼻近辺にのみ堤防を築いたとも言われています。
遺構の近くでは発掘調査でわかった杭列や土俵の痕跡を見ることもできるので、訪れた際に立ち寄ってみてください。
秀吉が本陣を置いた石井山
備中高松城の南東部に位置する石井山は、秀吉や官兵衛の本陣跡と伝わる場所です。
秀吉は最初に最上稲荷がある龍王山に布陣した後、備中高松城とその周囲を見渡せて毛利勢にも近い石井山に本陣を移しました。
備中高松城趾や宗治が自刃した場所を一望できる位置にあり、秀吉はここから宗治の切腹を見て「武士の鑑」と賞賛したそうです。
また、本陣跡への道中には宗治の首塚跡があり、明治42年(1909年)にここから本丸跡へ首塚のみを移動させました。
本陣跡からさらに奥に進むと「太閤岩」と呼ばれる巨石があり、ここに秀吉が座ったという言い伝えも残っています。
しかし、太閤岩は本陣跡より離れた場所にあるため、実際に座っていたわけではないかもしれません。
豊臣秀吉の天下統一までの流れに関しては、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
水攻めで沈められた『備中高松城』|まとめ
今回は備中高松城趾やその周辺にある名所を紹介しながら、清水宗治の軌跡や秀吉の水攻めを解説しました。
当時の景色とはもちろん違いますが、城趾や築堤跡などを巡ることで戦の雰囲気を感じることができるはずです。
義の武将・清水宗治に関連した名所を訪れると、歴史のロマンに思いを馳せることができるでしょう。
ちなみに備中高松城趾の近くにある「清鏡庵」では、「宗治饅頭」と「水攻め饅頭」という和菓子が売られているので、史跡巡りと併せてぜひ立ち寄ってみてください。
当サイトでは、他にも歴史的建造物にロケに行った際の記事がございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
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