- 戦国BANASHI TOP
- 歴史上の人物の記事一覧
- 『北条氏政』後北条氏の宿命を背負い強敵と戦い続けた眠れる獅子
『北条氏政』後北条氏の宿命を背負い強敵と戦い続けた眠れる獅子
相模の眠れる獅子とも呼ばれた後北条氏4代目の北条氏政。
氏政といえば汁かけ飯の逸話が有名ですが、北条氏を滅ぼしてしまった暗君というイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。
しかし、近年では名立たる武将達と戦い続けた生涯に再評価の動きも見られます。
大河ドラマ『どうする家康』にも登場し、出番は少ないものの徳川家康と関わりの深い重要人物として存在感を放っていますよね。
今回は強敵と戦い続けた北条氏政の生涯を徹底的に解説していきます。
後北条氏4代目・北条氏政
後北条氏の4代目当主である北条氏政。
はじめに後北条氏のルーツについて簡単にご紹介します。
鎌倉時代の執権・北条氏とは別一族の後北条氏
北条といえば鎌倉時代の執権・北条氏を思い浮かべてしまいますが、実は全く別の一族であり、区別を付けるために後北条氏と呼ばれているのです。
後北条氏の祖は伊勢宗瑞(北条早雲)で、2代目・氏綱、3代目・氏康、4代目・氏政と続いています。
俗に言う北条早雲は後付けの名前であり、当初は伊勢と名乗っていましたが2代目・氏綱の代に北条を名乗り始めたようです。
一般的には鎌倉時代の北条家とは血縁がないとされているため、北条氏の再興のために北条を名乗ったのではなく、正当な関東支配者になるためには北条を名乗った方が受け入れられやすいと考えて北条の名をブランドとして使ったと考えられています。
北条家の当主へ
北条氏政は1559年(永禄2年)に北条家の当主となりますが、この時点では父・氏康が健在のため、名目上の当主であり実権は氏康が握っていました。
当時の関東の飢饉による民の不満を和らげるため、氏康が責任を取って代替わりしたと言われています。
こうして北条家の当主として数々の戦いを繰り広げることになるのです。
関東の覇権争いを繰り広げる北条氏政
北条氏政は20年以上に渡り関東の覇権争いを繰り広げます。
ここからは、同盟と敵対を繰り返した氏政の生涯と関東情勢を時系列に沿って解説していきます。
北条VS上杉(長尾景虎)
最初の敵は関東管領の上杉氏です。
元々よその国からやってきて関東で勢力を広げた初代・伊勢宗瑞は侵略者だと言われてきましたが、宗瑞や氏綱の頑張りによって関東での基盤が作られていきました。
やがて、室町幕府から関東の仕切りを任されている鎌倉公方改め古賀公方に認められた後北条氏。
古賀公方と対立する小弓公方の討伐に協力し、氏綱は古賀公方から関東管領に任命されたことによって実質ナンバー2の関東支配者となるのです。
元々関東管領だった上杉氏にとって、よそ者の北条氏が関東管領になることを良く思うはずがなく、上杉と北条の対立は深まっていきます。
最初は北条が川越合戦で上杉を破り、氏康が関東での覇権を手に入れるのですが、上杉家当主・上杉憲政が越後に落ち延び長尾景虎(上杉謙信)を頼ったことによって再び上杉との戦いが続くのです。
あまりに強い長尾景虎に対抗するため、今川・北条・武田による有名な三国同盟が結ばれます。
三国同盟の力で長尾景虎を度々撃退していくのですが、やがて情勢が変わる大きな出来事が起こるのです。
北条VS武田信玄
桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が討ち取られると、武田信玄の外交方針に変化が起こります。
信玄が三国同盟を破棄し、今川領に攻め込んできたのです。
当然氏康は同盟を破った信玄に激怒し、今川を救うために武田と戦うことを決めます。
氏康の妻の実家は今川家のため、今川を擁護するのも無理はないでしょう。
武田と戦うとなれば上杉と戦う余裕がなくなるため、次は上杉家と越相同盟を結ぶことを選びます。
上杉家も幾度にわたる川中島の戦いで武田に苦戦していたことから、上杉と北条が手を組むことは武田を倒す上でお互いのメリットになったのですね。
この時、同盟の証として氏政の弟が上杉謙信の養子となり上杉景虎を名乗ります。
北条VS上杉謙信
しかし、この後は再び武田信玄と結んで上杉謙信と戦うことになります。
お互いに協力して武田を攻めるはずが、謙信は何かと理由をつけて全然援護しなかったため、越相同盟が機能していないと氏政が怒ったことが原因のようです。
さらに、この背景には父・氏康の死も影響しているのではないかと考えられます。
氏康は今川を助けたい思いが強く、氏康が生きていた頃は一貫して武田と戦う姿勢を見せていたのですが、氏康が亡くなった瞬間に今川を見捨てて武田と組むのです。
今川家に特別な思い入れのない氏政が実権を握ったからこその判断とも言えますよね。
こうして再び上杉と対峙することになるのですが、武田信玄・上杉謙信という強敵が次々と死去したことで再び情勢が変わるのです。
北条VS武田勝頼・上杉景勝
1578年に上杉謙信が急死すると、後継者を巡って御館の乱が勃発します。
ここで争ったのが謙信の姉の子・景勝と、謙信の養子で氏政の弟・景虎です。
景虎は上杉と北条の同盟の証として送られた人質であり、同盟が決裂した時点で殺されてもおかしくはなかったのですが、利用価値があると判断され生かされていたのでしょう。
景虎は謙信の姪を妻にしているため、血縁関係でいえば景勝とほぼ同等であり、後継者としての正当性があるのです。
しかし、武田勝頼と上杉景勝が同盟を結んだことで景虎は後継者争いに破れてしまいました。
景虎が勝っていれば、武田・上杉・北条の夢の三国同盟が生まれていたかもしれませんね。
氏政は弟・景虎を見捨てて景勝を援護した勝頼を恨み、武田との手切りを決意します。
この状況下で北関東の佐竹氏も上杉に味方したことで敵対することになり、武田勝頼・上杉景勝・佐竹義重を敵に回した北条家は強敵に囲まれてしまうのです。
織田家に従属
このピンチを救うため、氏政は当時天下を取りかけていた織田家に従属する選択肢を取ります。
織田家の力を借りて武田を挟み撃ちにすることで、ピンチからの脱出を試みたのです。
結果的には本能寺の変で実現することはなかったものの、同盟の証として氏政の子・氏直と織田信長の娘の婚約が決まります。
こうして氏政は、織田とともに武田領を攻めて武田家を滅亡に導きました。
しかし、信長は指示をしてもすぐに動かない氏政のことが気に入らなかったようで、武田家が滅亡したにも関わらず新たな領地を貰えなかったのです。
プライドの高さ故か優柔不断故かは分かりませんが、氏政は何かと行動が遅い一面があり後の豊臣政権時にも共通しています。
氏政からすれば、武田征伐に協力しながらも領地を貰えなかったことに不満があったのかもしれません。
そんなタイミングで本能寺の変が起きたため、氏政はここぞとばかりに領地拡大に乗り出すのです。
天正壬午の乱
本能寺の変によって織田信長が死去すると、旧武田領の甲斐・信濃・上野は大混乱に陥ります。
武田が滅んで数ヵ月しか経っておらず、織田による支配がまだ盤石ではなかったことが原因ですが、これをチャンスと捉えた氏政は織田家が混乱している内に上野国に侵略を開始するのです。
北条VS徳川家康
元々上野国は半分以上を北条が支配しており、織田家臣従の際に奪われてしまった領地を取り返したかった思いもあったことでしょう。
氏政はこの時上野国を任されていた織田家の武将・滝川一益に神流川の戦いで勝利し、上野国の奪取に成功しました。
さらに欲を出した氏政は、旧武田領で空白になっている甲斐・信濃にも進軍し、同じく旧武田領を狙う徳川家康との領地の奪い合いが起こります。
『どうする家康』では、天正壬午の乱から本格的に北条氏政が登場しましたよね。
激しい攻防戦が続きますが、最終的には元々北条につく予定だった真田昌幸が徳川についたことや、北関東の佐竹氏が再び北条に攻め込んできたことによって北条軍は劣勢に陥りました。
一方の家康側も厳しい戦いが続いていたため、お互いの手打ちとして家康と氏政の間に同盟関係が結ばれ、氏政の息子・氏直と家康の娘・督姫の婚姻同盟を結びます。
この時既に北条家の当主は氏直になっていますが、実権は氏直が握っていたようです。
北条氏政の豊臣覇権への挑戦
やがて時代は豊臣秀吉の天下となりますが、最終的には秀吉と戦う道を選び最後の敵となった北条氏政。
ここからは豊臣覇権への挑戦と北条氏の滅亡までの軌跡を辿っていきましょう。
小牧長久手の戦い
徳川家康との同盟後は、羽柴秀吉と家康の戦い(小牧長久手)に同盟相手として協力します。
小牧長久手の戦いと言っても、実際は羽柴方と反羽柴方に別れて全国各地で局地戦が繰り広げられており、北条は反秀吉派として秀吉に味方する上杉や佐竹と戦うことになるのです。
秀吉と戦うにあたって家康は同盟相手の氏政に会いに来るのですが、その際に『どうする家康』でお馴染みの宴会芸『えびすくい』が披露されたというエピソードも残っています。
それほどに家康は北条との同盟を重要視し、氏康を頼りにしていたのですね。
小牧長久手の戦いの詳細については以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説
関東惣無事令
ついに徳川家康が豊臣政権に臣従すると、秀吉は関東惣無事令を出します。
簡単に言えば、関白である秀吉の許可なく勝手に争いを起こしてはいけないという命令といったところでしょうか。
当初北条家は秀吉の命に従うつもりはなかったものの、同盟相手の家康の説得によって氏政はついに秀吉に頭を下げることを決意します。
ただし、臣従の交換条件として沼田領の問題解決を求めるのです。
沼田領問題の解決
沼田領は天正壬午の乱で一度は北条のものになったものの、真田が実力行使で支配しており、うやむやになっていた領地でした。
氏政の要求に対し、沼田領の1/3を真田、2/3を北条にすることで決着を付けようとした秀吉。
納得した氏政は約束通り上洛する予定だったのですが、ここで事件が勃発します。
名胡桃城事件の勃発
接収した沼田領の新たな沼田城主・猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を襲撃して乗っ取ってしまうのです。
この名胡桃城事件には所説あり、元々は猪俣邦憲が独断で城を攻略したとも言われてきましたが、公的な文書では北条方にも言い分がありました。
名胡桃城内の内紛によって城主と家臣が対立し、家臣が上杉景勝に援軍要請を出したため城主は猪俣邦憲に対して援軍要請を出し、猪俣邦憲はあくまで城主を救うために援軍を出したのだと主張します。
真相はさておき、この時氏政は領地の奪取が目的ではないと弁明しているのです。
秀吉からすれば勝手な軍事行動は命令違反なのですが、戦国大名の氏政にとって境目の領地のいざこざに軍を出して争いの調停をすることは当時の当たり前で、わざわざ秀吉に相談する必要はないと考えていたのかもしれません。
この時から、秀吉と氏政の認識にずれがあったのかもしれませんね。
小田原征伐
こうして秀吉と北条の関係は悪化していきますが、かといって秀吉もすぐに北条家を滅ぼそうとした訳ではありませんでした。
猪俣邦憲の処刑と氏政の上洛で許してあげようとチャンスを与えたのです。
しかし氏政は秀吉の要求を無視し、豊臣政権と戦うことを決意します。
こうして小田原征伐が起こり、5代に渡って栄華を極めた後北条氏は滅亡するのです。
『どうする家康』では小田原征伐がどのように描かれるのでしょうか。
小田原征伐で激戦地となった城・山中城について、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
【日本100名城】美しすぎる北条の城『山中城』障子堀など見どころ満載!
『北条氏政』後北条氏の宿命を背負い 強敵と戦い続けた眠れる獅子|まとめ
北条氏政の生涯は強敵との戦い続きであり、最後の最後まで秀吉に屈服せずに戦う道を選びました。
優柔不断なイメージがありますが、実は意思が強い武将だったのかもしれません。
秀吉に素直に頭を下げていれば後北条家を滅ぼされることはなかったにも関わらず、他大名が軒並み屈服する中で最後に戦うことを決めた氏政は、ある意味最後の戦国大名とも言えるのではないでしょうか。
誰よりも最後まで戦国大名を貫いた北条氏政がかっこよく見えてきませんか?
『どうする家康』での今後の展開が楽しみですね。